第十一章
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深い夢はまだ醒めそうになく、テノールは未だ過去の旅をしていた。
ブッフォン調査団の面々は、何の臆面もなくテノールとの距離を縮めてくる。
食べなくても生きていけるテノールをわざわざルキアーノは昼食の場へ呼んだ。アーネストは心を許し、奥底に隠していた鬱屈した悩みをテノールに打ち明けた。サラとシュゼットは森の粘土層から採取した粘土で小さな指輪を作ってテノールにくれた。
そしてマクシミリアン。音響学者の彼はずっとテノールに張り付いていた。正直鬱陶しかったが、マクシミリアンはテノールの知らない世界を教えてくれた。外の世界でテノール達「小夜啼鳥」がどのように語り継がれているのか、森はどれだけ広がっているのか、そしてテノールの知らない外の世界の歌を教えてくれる。
マクシミリアンと話をするのは決まって遺跡の所だった。ここはサラが一番最初に調査を終え、もう誰も来ない。なぜかマクシミリアンはテノールと話す時に人がいるのを嫌った。テノールもそれでいいと思っていた。深い理由などない。ただ、二人の方が気安かった。それだけだった。
「それにしてもここは居心地がいいな」
朽ち果てた前時代の文明の証の中にマクシミリアンとテノールはいた。何かの建物だったのだろうそれは半分以上土の中に埋もれ、背後の断層の上に生える木々の根が絡まっている。いつ崩れるか分からないが、この遺跡の中は薄暗く、ひんやりとして気持ちがいい。いくら森の中とはいえ、開けた場所には苛烈な日差しが容赦なく降り注ぐ。二人はそれを避け、人目を避け、こうして遺跡の中にいる。
「ここは何の建物だったんだろうな?」
「さぁね。でもサラはたしか、祈りの場だとか言ってたかな?」
根に絡まったもののなかには、椅子のようなものやアクセサリーのようなものまであった。崩れた上部はかつてはきちんとした天井だったのだろう。丸く、ドーム型になっている。くすんではいるが、わずかに青色の塗料が見える。擬似的な空のような色だ。
「人はここで何を祈ったんだ?」
「さぁ……。サラはそこまで教えてくれないからね。でも、僕の見立てでは、前時代の人々は、ここで歌を歌っていたと思うんだ」
「歌?なぜ?」
「この天井の形さ!本当は壁と床もチェックしたいんだけどね、この天井は最高の音響装置だよ。この丸型の天井!きっといい反響をするんだろうなぁ……」
テノールには分からない専門用語をべらべらと並べながらなおもマクシミリアンは天井のすばらしさとやらを語ってきた。テノールには何が何だか分からないが、ここはマクシミリアンの好奇心をかき立てる場所なのだろう。
そう思うと、自然と歌が出た。
マクシミリアンが教えてくれた歌を、テノールは遺跡の中で歌った。崩れかけた天井から指す木漏れ日がスポット・ライト。原形を留めていない色硝子に乱反射する光が歌を彩る。
その歌は外の世界の子守唄。夜の湖と眠る子の歌。
煌めく旋律が天井に反響し、倍音を響かせる。たった一人の歌声が、幾重にも幾重にも重なり合い、一つの和音となって完成される。
テノールは楽しかった。森で歌うよりも何十倍も。夜の歌以外で音が合わさることなどないのに、今、たった一人でそれができる。
そして何より、マクシミリアンが聞いている。
テノールは今、たった一人で、たった一人のために、歌っている。
歌の意味など忘れ去り、テノールは音を奏でることだけを楽しんだ。
歌い終わると、マクシミリアンの拍手が待っていた。最初はあれほど恥ずかしかったこの拍手も、今ではもう慣れた。
「やっぱりここは歌で祈りを捧げた場所なんだ。キミの歌がいつもよりも何倍も美しく聞こえたのが何よりの証拠だよ!」
「ありがとう、マクシミリアン」
テノールはマクシミリアンに駆け寄った。が、足の裏に鋭い痛みを感じ、その場にしゃがみこんでしまった。
「どうした!?」
「なんか……踏んだみたいだ。痛い」
「ちょっと待ってろ」
大股で近づき、マクシミリアンはテノールを抱きかかえた。
「おま、ちょ、放せっ!自分で歩ける!」
「暴れるな。足を怪我したかも知れないのに歩く馬鹿がどこにいるんだい?それと、あんまり暴れると落とすよ?」
「馬鹿はどっちだ!はーなーせーっ!」
じたばたと暴れるが、嘘のように体重の軽いテノールはしっかりとマクシミリアンに抱えられてしまっている。その体勢のまま、マクシミリアンは遺跡を出て、明るい場所へと移動した。座るのに申し分ない石は、遺跡の周りにごろごろとある。そのうちの一つにテノールを下ろし、マクシミリアンは跪いた。
「どっちの足が痛かったんだい?」
「……ひだり」
ぶすっとした顔のままテノールは答えた。マクシミリアンの手が、テノールのほっそりとした足に添えられる。
「硝子を踏んだな。足の裏に破片が刺さってる。これは痛いはずだよ」
そう言うと、ウエスト・ポーチから医療キットを取り出し、手早く処置をし始めた。
「そんなことしなくてもいい。どうせすぐに治る」
「いいや、ダメだ。こういうの、放っておけないんだよ。僕の気が済むようにさせてくれないか?」
真摯なその瞳に、テノールは弱かった。何より彼はテノールのことを思ってやってくれているのだ。そこに悪意など一欠片もない。
純粋なる「小夜啼鳥」は、純粋なものにはすこぶる弱かった。硝子が刺さった程度の怪我なら、テノール自身が薬草を探し、貼っておけば治る。ただでさえ森の一部である「小夜啼鳥」なのだから、森の力を借りれば明日には跡形もなく治ってしまう。
しかしそんなことはマクシミリアンは知らない。だからこうして丁寧に硝子片を抜き、傷口を消毒してくれる。
誰かに傷の手当てなどして貰ったのは初めてだ。
この森に人が、マクシミリアンが来てからというもの、テノールには「初めて」が多すぎた。その初めてを知るたびに、自分が森から出られない、何とも不自由な籠の鳥のように思えて仕方がない。
――もし、この森を出たら……。
そんな取り留めのないことを考えてしまうほどに、「初めて」は鮮烈な輝きを持っていたのだ。
「さぁ、もう大丈夫だ」
きつく包帯を巻き、手当ては終わった。テノールの血に塗れたガーゼだけが、異様に赤かった。
「『小夜啼鳥』でも、血は赤いんだね」
「そうだな」
「そしてとても温かい」
「……そうだな」
「キミと人間と、一体何が違うんだろう」
白く、たおやかな爪先を、マクシミリアンは見つめた。痛々しげな包帯に視線を注ぐ。
「同じように血が流れ、体温も鼓動もあるのに、どうしてキミは森の住人で僕は外の人間なんだろう……」
「マクシミリアン?」
「テノール、」
足に添えられていた手が、不意にテノールの手を強く握った。赤銅色の瞳が切なげに揺れる。
「森を出よう」
「え?」
「森を出るんだ、テノール。キミだってこの森の外を見てみたいとは思っているんじゃないのか?」
テノールは答えられなかった。
それは純然たる真実だったからだ。
ブッフォン調査団が来て以来、テノールの頭の中はまだ見ぬ外界のことで一杯だった。
森の黒く、湿った土ではなく、風に舞う黄色や白い砂を見てみたい。乾いた土を掬い上げてみたい。熱い砂を裸足で踏んでみたい。
人々がおよそ厭うものはテノールの頭の中で魅力溢れるものになっていた。人々が「楽園」と呼ぶ森に棲まうテノールにとって、楽園こそが日常であり、人間の日常こそが楽園であった。
マクシミリアンに迫られて、テノールは狼狽した。テノールの「願い」が、「いけないこと」であることぐらい、自分でも分かっているのだから。
「僕はキミにもっと自由に歌ってほしい。その歌声を森のものだけにしたくない。キミをこの鳥籠から出したいんだ」
「――っ、それはダメだ……!」
マクシミリアンの手を振り払い、テノールは距離を取った。
「俺は、東の森の『小夜啼鳥』だ……森を見捨てるなんて、できない……っ」
「小夜啼鳥」が森から出るということは、世界を捨てるということだ。たった一人、テノールが森を出、歌うことを放棄すれば、すぐさま世界の均衡は崩れてしまう。東の森も枯れてしまうだろう。身勝手の結果に、テノールはきっと耐えられない。遺跡の周りの草木がテノールに囁きかける。
――見捨てないで。
――行かないで。
――テノール
――行かないで
――ごめんね、テノール
――でも行かないで
――ここにいて
――行っちゃヤダ
――掟を破るの?
――「王」が許さないよ?
――死んじゃうかもよ?
――ねぇ、テノール行かないで……
――行かないで
――行かないで
――行かないで……
それは耳を塞いでも聞こえる切なる訴え。ついにテノールはその場にうずくまってしまった。
「テノール」
耳を塞ぎ、涙するテノールの目の前に、悲しげに笑うマクシミリアンがいた。
「キミを困らせるつもりはなかったんだ。済まない」
溢れる涙をマクシミリアンの指がそっと掬う。涙に濡れる碧色の瞳の中にマクシミリアンが映る。
「それでも僕は、キミを森から解放したい」
無骨な掌が、テノールの頬を撫でる。その手に知らず、テノールも手を添える。
「キミと一緒にいたいんだ」
調査が終われば、テノールとマクシミリアンは会えなくなる。マクシミリアンは森にはいることができなくなり、テノールは変わることなく森から出られない。二人は森によって阻まれ続ける。
「キミの歌をいつも近くで聴きたい。キミのその髪を毎日梳きたい。キミの瞳に僕以外を映したくない。……そう思ってしまったんだ」
マクシミリアンがテノールを抱きよせた。あまりのことにテノールは何の反応も返せず、固まってしまった。
それはテノールが初めて与えられた、「愛情」という名の感情。熱い湯のように流れ込み、身の内から焼かれるほどの激しい感情。これほどまでに熱い感情が、簡単にテノールの理性を奪っていく。熱に浮かされたテノールは、森を捨てることの重大さすら忘れそうになる。回されたマクシミリアンの腕に力が入る。テノールもマクシミリアンの背に腕を回そうとした。
しかしできなかった。
絹糸のように細い最後の理性が、しかし確かにテノールの行いを咎めた。
テノールが応えなかったことを、マクシミリアンは咎めなかった。ゆっくりと体を離し、テノールを見つめた。
「掟を破ることは怖くない。だって、キミがいてくれるから」
そう言い残し、マクシミリアンはテノールから離れた。
もう、日が暮れる。
調査団は森を出て、街へと帰っていく。
テノールは一人、遺跡に取り残された。草木がテノールに懇願する。行かないで、側にいて、と。
テノールは分からなくなっていた。
このままマクシミリアンと離れるのは嫌だ。
でも森を捨てるなんてできない。
森をとるのか、マクシミリアンをとるのか。
「ぅああああああああああああぁぁぁぁああああああああああああっ」
理不尽なまでの二者択一にテノールはただ泣くしかなかった。悲痛な叫びは森中に響き渡った。その声に鳥が一斉に飛び立ち、草木がざわめく。鹿が嘶き、狼が遠吠えをする。
「ああああああ、あああああああああああああああああああああああっ――!」
大気が震え、遠くの湖が波立つ。テノールの苦悩に、森が共鳴するかのように。
「あぁぁぁぁぁ……――」
叫び疲れたテノールの顔は、涙と鼻水でぐしょぐしょだった。辺りはすっかり暗くなり、夜の気配が漂い始めていた。ふらふらと立ち上がり、テノールは遺跡を後にした。鬱蒼と茂る楓の中を、テノールは覚束ない足取りで歩き、一つの菌輪の中に入った。菌輪と菌輪がつながり、テノールは遺跡近くから遠く離れた森の中心地、大ブナの湖近くに飛んだ。
一刻も早く、母なるブナの中に入りたかった。膝を抱えて眠りたかった。足を引きずりながら湖を渡り、テノールはブナに縋り付いた。すぐにブナはテノールを中に招き入れ、いつものように何もない、異空間にテノールは漂った。
――テノール?
ブナが優しく問いかける。
「もう……どうしていいのか、わからない」
――マクシミリアンが、好き?
「好き。ずっと一緒にいたいくらい。でもそれはできないだろう?」
――掟を、破る?
「掟……」
マクシミリアンは言った。
「掟を破ることは怖くない」と。
テノールがいるから、怖くないと言った。
では、テノールは?テノール自身はどうなのか?
――テノール、歌って?
気づけばもう月が昇りかけている。そろそろ歌わねばならない。
「歌……」
心がざわついたままで、歌えるだろうか。
それでもテノールは歌う。空の月に向けて。世界の中心に向かって。夜を纏い、星の瞬きに合わせ、テノールは歌う。
答えは出ない。森を捨てるか、マクシミリアンを捨てるか。
苦悩をかなぐり捨てるように、テノールは歌う。四つの声のバランスを忘れ、テノールは声の限りに歌う。その夜の歌は、きっと最低だったにちがいない。
ブッフォン調査団の調査も終わりの日が来た。
最後にテノールは彼らのためだけに歌った。
「宵の湖」だ。
別れの日に子守唄など向かないのだろうが、生憎テノールは別れの歌を知らない。彼らに通じる言葉の歌を、それ以外には知らない。ルキアーノとサラは喜んでくれた。アーネストとシュゼットが少しだけ涙ぐんだ。そしてマクシミリアンだけが、何も言わずにテノールを見つめ続けた。
答えは、もう出ていた。
テノールはマクシミリアンについてはいけない。
森を捨てるなど、テノールにはできないのだ。その決心が鈍らないうちに、テノールは調査団から離れた。マクシミリアンとは言葉も交わさなかった。「宵の湖」を歌うだけ歌い、テノールはすぐさま菌輪の通路を通り、人知れずブナの中へと戻った。
これでいい。これでいいのだ。膝を抱え、テノールは静かに涙を流した。
「これで、いいん、だ」
ブナが優しくテノールを包む。温かい子宮の中で、テノールは胎児のように体を丸める。目を閉じれば、端から涙が流れ落ちる。頬を伝い落ちた涙の粒が、無重力の空間に珠のように散らばった。
森から人の気配が消えた。
調査団の面々が森に来ることはもう二度とない。明日からまた変わらずテノールは森を飛び回り、木々に、花に、動物に歌を歌う。夜の歌を紡ぎ、再びこのブナの中で眠りにつく。その繰り返し。誰かと言葉を交わすことも、笑い声を聞くことも、誰かのぬくもりを感じることも、ない。
それでもいい。
テノールがいなくてもマクシミリアンはきっと生きていけるが、森のものたちはテノールがいないと生きてはいけない。
「これでいいんだ」
何度もそう呟く。まだ諦めきれない自分に蓋をして、もういいんだと鍵をかける。
涙を拭い、テノールはテノールの日常を再開する。ブナの胎内から出て、テノールは森を歩き回る。涙の匂いを嗅ぎつけた鹿の子がテノールにすり寄る。野ウサギも、泣き腫らしたテノールの目と似た赤い目で見上げてくる。
「ありがとう。俺はもう大丈夫だから」
ウサギを抱きよせ、テノールはもう一度だけ言う。「大丈夫だから」と。鹿を引き連れ、肩に鳥とリスを乗せたまま、テノールは森を行く。優しい歌を口ずさみながら、テノールは森を行く。
沈みかけた日が鮮烈な朱を放つ。濃紺が支配する夜まで、まだ時間がある。
夜の歌の時間になるまで、森を歩き続けよう。心配をかけた木々のために。テノールは森に生きる。そう誓ったのだから。
異変を感じたのは夜の歌を歌い終えた後だった。
森がざわつく。梟が嫌に五月蠅い。狼が警戒するように唸り声をそこら中で上げる。コウモリが戸惑ったようにキィキィと鳴く。
――テノール……テノール
――誰かがいるよ
――人の子がいる
――王に見つからないうちに
――テノール、早く追い払わなきゃ
森の植物たちが騒ぐ。テノールはブナの寝床を抜け、森を駆ける。
――テノール、こっち
――こっちだ
――早く
――早く!
追い立てられるかのように、テノールは走る。風を纏い、菌輪の通路を駆使し、侵入者の元へと急ぐ。
「王」はまだ気づいていない。森のものたちが王に知らせる前にテノールに知らせてくれたようだ。木々も花も動物も、皆がテノールに道を示す。
辿り着いたのは遺跡だった。
真夜中の遺跡は月の光を浴びて不気味な輝きを放つ。窓枠に嵌められた色硝子が、赤や青の影を草の上に落としている。その光の中に、いるはずのない人影があった。
「テノール」
優しく鼓膜をくすぐるその声。暗闇の中でもはっきりと分かる赤銅色の瞳。黒髪の中でキラキラと光る若白髪。
「マクシミリ、」
言葉は抱擁で遮られた。あまりの強さと驚きに、テノールの呼吸は止まった。
「テノール、テノール!嗚呼、会いたかった……」
腕の中で目を見開いているテノールになどお構いなしで、マクシミリアンはなおも腕に力を込めた。
「どうしても、どうしても諦めきれないんだ!キミと離れるなんてもう僕には耐えられない!もう放さない……放さないよ、テノール!」
「っ、マクシミリアンッ!」
何とか体を剥がし、テノールはマクシミリアンを見据えた。
「夜の森に入ってはいけないと俺は言ったはずだ!それに、俺は森を捨てることなんてできない……!分かってくれ、マクシミリアン」
鍵をかけた感情が、その隙間から滲み出る。それを振り払おうと頭を振る。テノールはマクシミリアンの腕を掴んだまま、下を向く。どうしてもあの瞳を直視できなかった。
「……それはできないよ、テノール」
「!?」
鳩尾に鈍痛が走った。チカチカと銀色の砂のようなものが視界にちらつく。
「僕はキミなしではもう生きていけないんだ。そっちこそ分かっておくれよ」
混乱するテノールに、マクシミリアンは何かを吹きかけた。霧のようなそれを嗅いでしまったテノールの四肢が痺れ、妙な眠気に襲われた。
意識が混濁しているテノールを、マクシミリアンは抱きかかえた。足の怪我をしたあの時のように。
「僕のために一緒に森を出よう、テノール」
あくまで優しく、マクシミリアンはテノールの髪を撫でた。耳に顔を寄せ、口づけをする。そしてそのまま森の出口へと向かう。
「テノール、僕のためだけに歌ってくれ。その上等な絹糸のような髪も、抜けるような白い肌も、艶やかな手足も澄んだ瞳も、全て僕に頂戴よ。その代わりにキミを森の外へ出してあげる。大丈夫、怖くないよ。知らない人間がいようとも、キミの側にはいつだって僕がいる」
――違う。
底なし沼に沈みそうな意識の中で、テノールは思った。
違う。
森という鳥籠からテノールを出したいとマクシミリアンは言ったのに。
今のマクシミリアンはテノールを新たな檻に入れようとしている。マクシミリアンという鎖につないで、マクシミリアンという鳥籠に入れようとしている。
「……どうして泣くんだい?」
テノールは泣いていた。薬のせいで表情をなくしてはいるが、テノールの碧い瞳からは次から次へと涙の粒がこぼれ落ちている。
今のテノールに声を発する力はない。マクシミリアンに伝えるべき「声」がない。
テノールはただただ涙を流すことで、マクシミリアンに抵抗した。
「キミは森の外に憧れていたじゃないか?だから僕は出してあげると言うんだ。その代わりにキミが僕のために生きるのは当然じゃないのかい?」
赤銅色の瞳に、かつて見た真摯な情熱はなかった。虚ろに濁り、テノールを見ていた。正確には、今目の前にいるテノールを見ているのではなく、彼を透過した理想の「小夜啼鳥」を見ていた。
マクシミリアンは酔っていた。美しき「小夜啼鳥」が自分に懐いていることに。
マクシミリアンは狂っていた。テノールの持つ美しさに。
だからこそマクシミリアンは強攻に出た。森の掟など省みず、テノールを森から引き剥がすことにした。テノールの無垢なる願いすらも利用して。
念願の玩具を手に入れた子供のように鼻歌すら歌いながらマクシミリアンは森を闊歩する。テノールを自らの手中に入れた彼にとって、夜の森はすでに恐怖の対象ではなく、彼らの門出を祝うヴァージン・ロード。足取り軽くマクシミリアンは森の出口へと向かう。
「それを放して貰おうか、お兄さん」
うんざりした様子でマクシミリアンは天を仰いだ。
彼らの脱出を阻んだのは、地の底を這うような低い、低い声。テノールを抱きかかえたマクシミリアンの前に立ちはだかったのは、狼の群れだった。
「それは森のものだ。森の外へは出せない」
「獣風情が僕とテノールの邪魔をするのかい?」
「獣風情とは言われたものだな」
「単に『小夜啼鳥』の美しさに惑わされた男のくせによぉ」
「人間風情が『小夜啼鳥』に手ぇ出そうとはな」
「テノールがお前さんを気に入っていたものだからついこっちも油断してしまった」
「だがそれはルール違反だ、お兄さん」
「テノールを放せ」
「今ならまだ王は気づいていない」
「命惜しくばテノールを置いて森を出ろ」
狼たちが口々に言う。いつの間にかマクシミリアンは無数の狼に囲まれていたようだ。四方八方から低い唸り声と荒い息遣いがする。
「俺たちはお前さんに何の義理もない」
「だから平気でその喉笛を噛み千切ることだってできる」
「あとでテノールの野郎が泣こうが喚こうが知ったこっちゃねぇ」
「さあ、どうするよ?」
――やめろ……。
意識を飛ばしかけたテノールが言う。しかしそれは音にならない。狼たちはなおもマクシミリアンに向かって唸り続ける。
――やめてくれ!マクシミリアンは……
「もう遅い」
「!?」
「っ、な、何だ!?」
突如テノールは地に捨てられた。強かに体を打ちつけながらも、何が起きたのか把握しようとマクシミリアンの方を見上げた。
「何だ……なんだこれはぁぁぁぁぁぁああああああああああああっ!」
みしり、ぱきり、と嫌な音を立てながら、マクシミリアンの腕に木の根が絡み付いている。よく見れば木の根だけではない。蔦や蔓が今来た方向、闇の中から這い出ている。
「王だ」
「王が目覚めた」
「もう駄目だ」
「アイツは助からない」
狼たちが離れていく。爛々と光る金の目を闇に向け、嘆息しながら。
――禁を犯せし人の子
――償いをせよ
――贖いをせよ
わんわんとこだまするその声はどこから聞こえるのだろうか。絡み付く木々を手当たり次第に引きちぎるマクシミリアンの耳に、頭に響くその声は、果てしなく暗く、重く、跪かずにはいられないほどの重圧を放ってくる。地に這い蹲ったままのテノールに、一本の蔦が絡み付く。細い手首に絡んだ蔦が、薬で朦朧とするテノールを立たせる。ずるり、と膝が崩れたが、なぜか次第に痺れが取れていった。
「……王」
ようやく絞り出せたテノールの声は、たった一言、それだけだった。
「いやだ……」
過去のテノールは何もできない。この過去を見ている現在のテノールもまた、何もできない。
「いやだ、いやだ……!」
容赦なく見せられる過去の過ちに、テノールはただ目を瞑り、頭を振るだけだ。
「やめて……やめてくれ!もう、もうしないから!森を出ようだなんてもうしないから!」
子供のように泣き喚くテノールの前に、過去は残酷なまでに真実を告げる。
それは決して変えることのできない現実。
決して償うことのできない罪。
それを何度も何度も繰り返し見ることこそ、テノールの贖罪であり罰である。
「もう見たくない……みたくないんだぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああ!」
気づくとテノールはブナの中にいた。
しかし今が一体いつなのか、テノールには分からない。
――テノール、起きた?
混乱する中、ブナだけが優しく声をかける。
「……ゆめ?」
――いつもの怖い夢?
「そう、かもしれない。……今はいつ?」
――今はあの夢の時から五〇年経ったよ?
「そうか……。そんなになるんだな」
はた、と何かが頬を伝った。涙だ。夢を見ながらテノールは泣いていた。顔に手を当てると、べとべととして気持ちが悪い。余程涙を流していたようだ。ぐしぐしと乱暴に顔を拭い、テノールはブナの外へと出る。もうそろそろ月が中天を指す頃合いだ。
外は未だ雨が降り続けている。霧のように細かい雨が泣き腫らした目に心地よい。
北からソプラノの声が聞こえる。
月が中天を指したのだ。
ソプラノ、アルト、テノールにバス。四人の音が混じり合い、今宵も世界に歌が響く。
テノールの心は未だ夢で見たあの過去にある。しかし心ここにあらずの歌で、世界が癒せると思うほどテノールは傲慢ではない。
まだ熱を持つ瞼に思い描くのは、優しかったマクシミリアン。
そしてそれを打ち消すようにテノールはジゼルを思う。
けなげでひたむきな、少女のままのジゼル。
彼女はマクシミリアンとは違う。
熱い愛をくれるわけではないが、確かにテノールにとって、ジゼルはもはやただの研究員ではなくなっていた。
波立つ心を静めてくれる、唯一の存在。
いつの間にかテノールの歌には、世界を思う心が入っていた。
大丈夫。
俺はもう大丈夫だ。
そう言い聞かせながら、テノールは今日も歌う。