第十章
10
「うきゃあっ!」
どすん、と重い音がした。
「いてててて……」
埃が舞い散る中、大量の書物に埋もれたジゼルがいた。祖父がジゼルに遺したものは大量の資料と書物と、この家だけだ。少し古いが、それでも思い出のつまった家に住み続けることができるだけでもありがたい。
ジゼルは黒星が言っていた「出版されていない書物」を探していた。
「この箱でもなかったか……」
ジゼルは祖父・アーネストの遺品を漁っていた。それも彼自身が書いた、自筆の「日記」を。
『お祖父さんの日記なラ、きっと手がかりありマスよ』
黒星はそう言った。
思わぬ盲点を示され、一気にやる気に火がついた。雨季で森に行くことができないので、その分急な休暇が得られた。これはきっとジゼルにもっと調べるようにという天の啓示に違いない。そういうわけで、ジゼルは大掃除を兼ねての日記探しを始めた。が、
「多すぎでしょー!」
筆まめなアーネストは生前大量の日記帳を遺していた。自筆のものはキャビネット数個に振り分けられているのだが、その中には日記だけでなく、論文のメモ書きのようなものから子供の頃の落書き帳、いつのか分からないがお夕飯記録まで含まれている。先程からそれっぽいものを物置から引っ張り出しては漁っているのだが、どうにも見つからない。
おまけにしばらくほったらかしておいたため、酷い埃だ。雨の湿気を孕んだ埃が重く床に落ちている。これは明日も掃除だ。
「もしかして……なくなっちゃったのかな?」
捨てるのはもったいない、と何でもかんでも保管しておく癖があったアーネストのことだ。きっとどこかにある。髪の毛についた蜘蛛の巣をとりながら、ジゼルは違う箱を開けてみることにした。
箱を開けること八箱目。
「あった……。……あった!これだ!」
黒革の日記帳に、森林調査に出ていた年の金字。それは間違いなくジゼルが探していた「出版されていない書物」だった。
「何か手がかりがありますように……」
そう祈り、ジゼルは緊張した面持ちでページを繰った。
調査団結成一日目
ルキアーノ・ブッフォン先生を団長とした森林調査団が結成される。
西部で行われた大規模な調査に続けということなのだろう。
ブッフォン先生の助手として調査団に加えられた。
それを好ましく思っていない連中から資料の改竄をされる。しかし先生に提出する前に気づけたので未遂で終わる。
調査団のメンバー
○植物学者 ルキアーノ・ブッフォン
○植物学者 アーネスト・ベレッタ
○地質学者 シュゼット・アリュー
○考古学者 サラ・タチバナ
○音響学者 マクシミリアン・ド・ジャッケ
そのページには何かの新聞か雑誌の切り抜きであろう彼らの写真が貼ってあった。
中心の無精ヒゲの男がルキアーノ・ブッフォン。その隣で小さく写っているのがアーネストだ。ジゼルとよく似た赤毛とソバカスの男。こんな晴れがましい場所に自分がいるのが恥ずかしいと言わんばかりに顔を伏せている。華やかな笑顔を浮かべた二人の女性はシュゼット・アリューとサラ・タチバナだ。彼女たちは以前、アーネストを訪ねてこの家に来たことがあるのでジゼルは覚えている。そして、若白髪の混じる黒髪に、赤銅色の自信に満ちた瞳をした男。
「この人が、マクシミリアン……」
ジゼルは妙にこの男が気になった。テノールが懐かしそうに話す、思い出の中だけの男。テノールとこのマクシミリアンという男はもしかしたら調査団の中で最も仲が良かったのかも知れない。音響学者ということは、「小夜啼鳥」であるテノールと接点が多くあるはずだ。ジゼルはテノールに関してだけでなく、このマクシミリアンについても日記から調べることにした。
調査団結成三日目
自己紹介、調整等を終え東の森へ。
東の森の「小夜啼鳥」という少年に足止めをされる。
不思議な少年。御伽噺の「小夜啼鳥」のようだった。髪は銀にわずかに緑が反射する。シャボン液を見ているようだ。しかし、こうして家に帰ってきて彼の特徴を記そうにも、顔立ちが判然とせず、書き記せない。彼の顔だけ妙な靄がかかっているようだ。
調査団結成一五日目
ようやく森へ入る許可が「王」とやらから得られた。
小鳥が「小夜啼鳥」の肩に止まったかと思うと、彼はそう告げた。どうやら鳥が「王」の遣いのようだ。
明日からは森への調査に入る。ブッフォン先生の足手まといにならぬよう頑張るだけだ。
研究室へ戻ると酷い中傷が僕のデスクに書かれていた。決してコネで入ったわけではないのに……。しかし嘆いていても仕方ない。きっとこの調査で、彼らは僕が実力で入ったということがわかるだろう。それだけの結果を残したい。
そんなことは抜きにしても、明日からの調査が楽しみで楽しみで、眠れそうにない。
調査一日目
森へ入り、黒スグリの実を食べる。どうやら森にはいるために必要な儀式のようなものだ。この黒スグリを食べることによって、森へ入るフリーパスを得たようなものだろう。
初めて「小夜啼鳥」の歌を聞く。
夜にかすかに聞こえる音より鮮明で、この世のどんな音楽よりも美しい。
マクスは近くで聞いて、しかも彼と話したという。僕も聞きたかった。
植物分布図の作成は思ったよりも大変な作業だ。しかしこれも後々森と暮らす人々のために必要なことだ。
「小夜啼鳥」の歌は不思議だ。緊張で張り詰めていた僕の気持ちまで和やかになったのだから。
調査七日目
「小夜啼鳥」と言葉を交わす。
なぜだろうか。彼になら何でも話せてしまう。誰にも話せなかった僕のくだらない悩みや、家族のこと、研究室での嫌がらせまで彼に話してしまった。彼は森の外など出たこともないのに、話しても無駄なのにどうして話してしまったのだろう。
彼は僕に言った。
「気にすることはない。お前はお前だろう?アーネスト・ベレッタ」
その一言でどれだけ楽になったのだろう。
陳腐でありきたりな文句だが、純粋な彼が言うからこその説得力があった。
僕はこれを一生忘れない。
ジゼルは祖父の笑顔を思い出した。その笑顔の裏には、ジゼルと同じく悩んだ軌跡があったのだ。そして同じように、テノールに慰められていた。奇妙な一致に、ジゼルは涙が出そうになったが、泣いている場合ではない。ジゼルはこの日記から余すことなく情報を得なければならない。「小夜啼鳥」のことを。テノールのことを。
ページを繰る手を止めることなく、ジゼルは日記を読んでいった。ルキアーノ・ブッフォンに褒められたこと、マクシミリアンと掴み合いの喧嘩をしたこと、サラ・タチバナに殴られて止められたこと、シュゼット・アリューへの淡い恋心のことなど、日記には在りし日の祖父の青春時代が簡素な言葉で綴られていた。ジゼルはそこから拾える情報をメモに残し、付箋をつけ、食事をとることも忘れ、読んでいった。
すると、ふと気になる日にぶつかった。
調査四七日目
最近マクスの様子がおかしい。
気づくとどこかに消えており、昼食に呼ぼうとしても行方が分からない。日暮れが近づくといつの間にか戻ってきている。計器の操作を間違えたり、単純なミスが目立つ。
調査に行かない日でもマクスは呆然と森の方向を見ていることがある。夜もあまり眠れていないようだ。目の下にクマができている。どこか調子でも悪いのだろうか?森の人体に対する影響はまだ計り知れないものがある。そのせいかもしれない。マクス本人は問題ないと言うが、心配だ。
――マクシミリアンっていう人が、おかしい?
祖父・アーネストの親友とも呼べるようなマクシミリアン・ド・ジャッケに何があったのだろう。ジゼルは日記のページを更にめくっていった。
調査五二日目
楓の色が変わり始めた。落葉樹の周りは柔らかな落ち葉で埋め尽くされる。森に来るとこの乾いた世界でも確かに季節というものが移ろっていることが分かる。
そしてマクスもまた、森に来た当初とは変わってきている。僕自身は何か変われたのかどうか分からないが、マクスは変わった。いい意味で変わったのではない。何か、思い詰めたような、焦っているような、説明の仕様がない妙な感覚がする。
あと少しで森の調査を終える。植物分布図も順調に作成できている。
調査六〇日目
今日で森の調査が終わる。わずか六〇日間という短い時間だったが、得られたものは大きい。今後世界の砂漠は徐々に緑へと変わっていくことを願いながら、僕たちは森を去る。
「小夜啼鳥」が、最後に僕たちに向けて歌ってくれた。それも、子守唄の「宵の湖」だ。今まで言葉の分からなかった彼の歌だったが、初めて分かる歌を歌ってくれた。どうやらマクスが彼に教えたようだ。今まで聴いた「宵の湖」の中で最も心動かされる歌だった。
夜、ブッフォン先生が酒宴を催す。充実感とこれからの発展に心膨らませる僕たちを他所に、マクスだけが途中で退席した。用事がある、と言っていたが、何があるのだろう?
それにしても、今回の調査で、東の森の正確な大きさ、植物の分布に動物の種類、新種の菌類までもが記録できた。実り多き調査に乾杯。
ここでひとまず森林調査は終わった。しかし、アーネストの日記はまだ続いている。
ジゼルはしおりを挟み、一息入れるためにお茶を淹れることにした。ずっと床に座っていたせいか、おしりが痛い。あと腰も痛い。こぶしで軽く腰を叩きながら、ジゼルはキッチンへと向かった。
「テノールのことはあんまり書いてなかったけど、マクシミリアン……。彼について結構書いてあった」
お節介なところがジゼルとそっくりなマクシミリアン。祖父が「マクス」と愛称で呼んだ男。テノールの歌を最も身近で聴いた学者。調査の最中に精彩を欠いた音響学者。打ち上げを途中で帰った団員。エトセトラ。どれもこれも漠然としすぎてよく分からない。適当に埃をモップで拭き取りながら湯を沸かす。その間もジゼルの頭の中はしきりに集めた情報を処理していく。
「あ、もうこんな時間」
時刻はすでに夜の七時を指していた。雨のせいで一日中暗いので気づかなかった。時間を意識すると不意にぐぅぅ、と腹が鳴った。ジゼルは作り置きのシチューに火を通し、適当にバゲットを切り、簡素な夕食にした。
食べながらもジゼルはずっと考えていた。
何かしらの線であのマクシミリアンとテノールは繋がっている。それは論理を越えた、勘のようなものだった。だが、ジゼルには確信がある。あのテノールが懐かしげに話す。わざわざジゼルに話すくらいのことなのだ。何かある。絶対に何かある。
バゲットでシチューを残さず拭い取り、口に放り込む。ぐっと一気に紅茶を飲み干し、ジゼルは再び日記に戻る。しおりを挟んだページを開き、過去を探る。
それはすぐに訪れた。調査を終えた三日後の日記だった。
秋祭前夜
マクスが行方不明になった。
あの宴会の後、マクスの行方が知れない。彼には年老いた母がいる。彼女を置いてマクスがどこかに行くなんて僕には考えられない。街が祭の準備に奔走している中、僕とブッフォン先生、サラにシュゼットが探す。しかし今日の所は見つからなかった。研究所にも、マクスの研究室の同輩の所にもいない。どこに行ったんだ。
秋祭後夜祭
七日間にもわたる秋祭が終わっても、依然としてマクスは帰ってこない。もしかしたら森にいるのかも知れない。サラはそう言った。夜の森にマクスは興味を持っていた。もしかしたら、夜のうちに入ってしまったのかも知れない。それで迷ったか、あるいは……。いや、マクスは「小夜啼鳥」と親しくしていた。万が一のことはないだろう。それでも心配だ。一度森へ行って確かめる必要がある。明日、調査団のメンバーでもう一度森へ向かってみることになった。もしもの時は、国に掛け合って捜索隊を出さねばならない。
マクシミリアン捜索・森へ
おかしい。森へ入れない。あれだけすんなり入れていたはずの森に、なぜか誰も入れない。森に入ろうと真っ直ぐに森に向かっていく。なのにいつの間にか足が違う方向へずれて、そのままぐるぐると森の周りを彷徨うことになってしまう。
このままではマクスを探せない。マクスの母は心労のためか、徐々に小さく痩せていく。
マクス、どこにいるんだ?
「マクシミリアンが……消えた?それに森に入れないなんて……」
ジゼルは何か引っかかるものを感じた。詰め込んだ記憶を辿り、ハッと気づいた。そしてジゼルは付箋を貼った前の方のページへと飛んだ。
「あった。……黒スグリの実を食べる。これだ」
現在、ジゼル達研究員が森へ入るためにある薬、通称「蔦の薬」を注射する。それを示すのが、ジゼルの首に刻まれた緑色の蔦の印だ。その技術が編み出される前、つまりアーネストが調査に行っていたころは、「小夜啼鳥」から貰った森の木の実を食すことが注射の代わりを果たしていたのだろう。
そしてジゼルはありったけのアーネストの日記をめくり始めた。森の調査を終えた後の日記でも、アーネストは頻繁にマクシミリアンの名前を出している。しかしどれもマクシミリアンの発見を示すものではなかった。
「マクシミリアンは見つかっていない……」
晩年、アーネストが最後の日記を書いたその日まで、ついぞマクシミリアンは見つからなかったようだ。
ジゼルは適当な紙を引っ張り、考えを書き出していった。
ガリガリと鉛筆を走らせ、次々に思考を文字にしていく。あちらの考えには斜線を引き、こちらの考えには丸をうつ。不規則に走る筆が端の答えと端の仮定を矢印で結びつけ、辻褄の合わないことは容赦なく黒く塗りつぶされた。
「黒スグリの実は蔦の薬の役割。マクシミリアンは黒スグリの効力が切れる前に森に入った。だから見つからない」
独り言を言いながらも、ジゼルの手は止まらない。
「森に入ったのならテノールが放って置くはずがない……迷っているなら尚更……。でもなぜマクシミリアンは森に入ったの……?」
ジゼルの手が止まった。
「……それが分からない」
完全なる手詰まりだった。ジゼルは頭を抱えてしまった。
「何でこんなこと考えてるんだろう……?」
ジゼルが日記を漁っていたのは、テノールの人となりを、彼自身のことを知りたかったからだ。それなのに日記の中のテノールは、ジゼルが知る以上のテノールではなかった。
ジゼルとアーネスト、人は違えど二人の共通の悩みを彼は気取らぬ言葉で振り払ってしまうほどの純粋さを持ち、至上の歌声を持つ「小夜啼鳥」。それ以上の何ものでもなかった。唯一得られたテノールの違う顔は、「宵の湖」を調査最後の日に歌ったということくらいだ。
「宵の湖か……」
ジゼルは机に突っ伏したまま、小さな声で口ずさんでみた。
「これをテノールが歌った……」
誰もが知っている子守唄。しかし森に住むテノールはそれを知らなかったに違いない。そしてその歌を教えたのが、
「マクシミリアン・ド・ジャッケ……」
――テノールを知る鍵は彼に違いない。
ジゼルは妙な確信を持っていた。これはおそらくアタリだ。
口ずさんでいた「宵の湖」が終わる。
ジゼルはこの歌が何となく懐かしかった。誰かに歌ってもらった気がする。幼い日に死に別れた母だろうか?あまりにも幼すぎて、ジゼルには母の記憶がない。それでも「宵の湖」はきっと母の歌だ、そう思う。記憶を巡るうちにだんだん瞼が重くなってきた。無理もない。朝から肉体労働と頭脳労働をしてきたのだから。
顔を上げると、静かな雨音以外には何も聞こえなかった夜空に「声」が響いた。
「小夜啼鳥」の歌の時間だ。
月の出ない夜でさえも、彼らには月の位置が分かるかのように、ひとつ、ふたつと「声」が重なり合った。
雨音に紛れながら、「小夜啼鳥」たちは歌を紡ぐ。
美しい歌声に、眠る人々は深い夢の中へと誘われ、まだ起きている人には心地よい安らぎを与える。
「テノールの声は分からないな……」
四つの「声」が一つになる夜の歌の中から、一つの「声」を見つけることはできない。ジゼルはんぅ、と背伸びをし、大きなあくびを一つした。
「もう寝よう」
日記帳を閉じ、ジゼルは寝室へ向かった。
寝室には無数の本がひしめき合っている。以前はアーネストが使っていた寝室だ。アーネスト亡き今、ジゼルが最も落ち着ける場所だ。適当に髪をほぐし、下着のままベッドに潜り込む。いつの間にか夜の歌も終わり、夜は再び静寂を取り戻した。
「それにしても静かだな」
今日は隣の赤ちゃんも泣かなかった。いつも賑やかな喫茶店のマスターとマダムも日課の夫婦げんかをしていない。たまにはこんな日もあるものだ、と再び大きなあくびをし、目を瞑った。その夜はとても深い眠りで夢すら見なかった。