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第一章

とある賞に応募したものの、何の音沙汰もなかった長編です。

感想、評価、よろしくお願いいたします。





 森に谺する。

 東西南北から微かに漂う。

 それは中天の月で交わり、破裂する。

 それはどこから聞こえるのだろう。

 それはどこへ届くのだろう。

 誰もが眠りにつく時に。

 安寧な眠りへと誘うように。

 それは月へと谺する。

 草木も獣も町も人も、眠りにつくこの時間。

 それは確かに響く。

 それは確かに届く。

 誰もがその声に耳を傾け、安らかな眠りに埋もれる。


 誰もがその声の存在を知っている。

 誰もがその声に憧れる。

 誰もがその声に恋をする。

 声の主は「小夜啼鳥」。

 この世界で最も美しき「謡い(シャントゥール)」。


 今日も森に谺する、小夜啼鳥のその声に。

 誰もが気づき、誰もが眠る。

 小夜啼鳥の声に抱かれて。









†1


 世界は砂に覆われていた。

 かつて緑を誇り、豊かな自然と穏やかな環境に恵まれていた世界は、熱砂の昼と氷点下の夜に支配されていた。

 愚かな人類の過ぎた科学が、森を蝕んでいった結果だ。草木は枯れ、花は朽ち、水は腐った。森に棲まう動物や、人には見えぬ精霊、妖精の類は滅び行くほかなく、人ですら滅亡の道を辿り始めていた。

 森の木霊はそれを憂えた。

 このまま森がなくなり、世界を支える「世界樹」すら倒れてしまうのではないだろうか。

 それを防ぐためにはどうすればよいのだろう。

 ふと、木霊は耳を澄ませた。

 微かに「声」が聞こえる。

 その「声」は森にかろうじて残っていた動植物たちにも届いていた。

 甘く、儚く、それでいて力強い。

 生命の息吹すら感じさせるその「声」に、森の命は癒されていった。

 木霊はその「声」の主を捜した。

 夜にのみ聞こえるその「声」は、森を、世界を生き返らせる力を持っていると確信した。そして何度目かの夜に、木霊は一人の少女を見つけた。白緑の髪と湖水の瞳をした、美しい少女。

 彼女こそが最初の「小夜啼鳥」。

 木霊は彼女と同じ「声」と髪と瞳を持つ者を他に三人見つけ、東西南北、かろうじて残っていた森に招き、歌ってもらった。

 彼女たちの歌を聴き、草木は芽吹き、花は咲き誇り、水は再び澄み渡った。

 これがこの国に数百年伝わる伝わる「小夜啼鳥」の話――。


 森は静謐な空気に包まれている。霧深く、緑のむせかえる匂いが立ちこめ、まるで来るものを拒むかのように森はそこに存在する。

 ジゼルはふぅ、と溜息をついた。

 森を歩くのは初めてのことだというのに、重たい機材や実験道具を背負っての行軍だ。不安定な足元、出っ張った木の根、滑らかな苔むした石。肌にまとわりつくような湿気を帯びた空気も、乾いた街に育ったジゼルには未知なるものであった。

 そして何よりも、図鑑でしか見たことのなかった植物がジゼルの目を奪った。

 街では植樹計画も進んではいるのだが、本物の野生に人工物は敵わない。ジゼルは目移りしそうになるのを堪えながら、目的地へと歩を進めた。

「迷わず、真っ直ぐ。森の中心は……大きなブナの木」

 そこにジゼルの「仕事」がある。やらなければならないことがある。肩に食い込む機材を背負い直し、ジゼルはブナの木を目指して歩く。何度も苔に足を滑らせ、草に足を取られながら。すでに白衣は何かよく分からない草の実で汚れ、二つに結った赤毛も乱れ、白い丸顔についた泥も乾きかけ、そばかすと見分けがつかなくなっていた。街を出て、森に入ってからどれだけの時間が経っただろう。朝早くに出たはずなのに、すでに日は昇りきっているようだ。おまけに、この東の森はどちらかと言えば山だ。肩に食い込む荷物を背負い直し、ジゼルは過酷な山登りを続けた。

 彼女の背丈よりも高い草をかきわけ、開けた場所に出た。

 そしてジゼルはついにブナの木を見つけた。

 それは不思議な木だった。

 湖の中心。浮島のようなところにブナの木はたった一本立っていた。

「綺麗……」

 ジゼルはここまで澄んだ水を見たのは初めてだった。湖畔には多くの水仙が咲き、その水の清らかさを証明している。

 普段ジゼル達街のものが使っている水は濾過装置を使わない限り飲めもしない。

 しかしこの森の水はどうだ。底が見えぬ程度に濁ってはいるが、それが自然の透明度だと分かる。限りなく透明な水というものは、そこに微生物の介在する余地すらない、危険な水である可能性がある。この湖のように「自然」であるものは、生命の息づく場所である。だからこそ美しい。ジゼルは知らず、その水に手を浸そうとした。

「動くな!」

 バサバサッ、と羽音が一斉に聞こえた。

 ジゼルの細い指は湖面のわずか三ミリ上で止まった。

 いや、止められた。

「人間が清らかな水を穢すな。馬鹿か、お前は」

 誰かが手首をものすごい力で握っていた。恐る恐る手首の主を見上げると、そこには見たこともない青年が立っていた。

「いたたたたたたたたっ!痛い!痛いです!ちょっ、放してくださいぃぃっ!」

「放したらとっとと森を出ろ!人間が来るような場所じゃない!」

 そのまま青年は荷物を背負ったジゼルを片手で持ち上げた。腕一本で自分の体重プラス荷物の重量を支えねばならなくなったジゼルの肩が悲鳴を上げる。

「無理無理無理!腕取れる!あと仕事が終わるまで森からは出られませーん!」

「仕事!?……仕事?」

 青年は突然手を離した。重力の法則に従ってジゼルは見事な、

「ぎゃんっ」

 ――尻餅をついた。

「お前、もしかして学者か?」

 もしかしたらお尻が割れてるんじゃないかと思うくらいの衝撃を感じていたが、とりあえずお尻も持ってきた機材も無事だった。あまりの仕打ちに涙目になりながらジゼルは青年の方を向いた。

「もしかしなくても学者です!ほら!首に立入許可の印もあります!国立森林保護研究所東支部、植物病理研究室から派遣されてきました、ジゼル・ベレッタです!……ていうかあなたは誰ですか?」

 ジゼルは首にある刻印を指さした。白い首に確かにある緑色の刺青のような印。三センチほどの蔦の模様。それは森の調査を行う者に打たれる注射の痕だ。

 ジゼルはじっと青年を見た。

 森に住んでいる人間なんているはずがない。森林は保護される対象であり、利益を得るための場所ではない。世界の根幹をなす場所だからこそ人は排除されているというのに、どうしてこの青年は森にいるのだろうか。

「学者のくせにお前は馬鹿だな。ジゼル・ベレッタ。森に人間がいたらなんだと思えと教わった?そこら辺のガキでも知ってるぞ?」

 森に人がいたらそれは木霊か「小夜啼鳥」――。

「……ま……まさかあなた……」

「そのまさかだろ」

「こ……木霊!」

「ちがっ!やっぱりお前、馬鹿だろ?!」

 青年は盛大にジゼルの頭をひっぱたいた。衝撃で眼鏡が落ちてしまった。

「木霊がお前みたいな学者に見えるわけないだろが!俺はこの東の森の『小夜啼鳥』だ!」

「嘘!いいい、一般人は森に入っちゃ駄目なんですよ!いい加減な嘘、つかないで下さい!」

「嘘な訳あるかっ!馬鹿か、お前は」

 青年は盛大な溜息をつき、しゃがみこんだままのジゼルを見下ろしたまま応えた。

「俺はこの東の森の『小夜啼鳥』だ。便宜上俺のことはテノールと呼べばいい」

 開いた口がふさがらないとはまさにこのことだ。

 ジゼルは知らなかった。

 「小夜啼鳥」は男もいるのだということを。

 それはほとんどの国民が知らぬ事である。「小夜啼鳥」については知られていないことの方が多い。国民の多くが「小夜啼鳥」は皆伝承通りの可憐な女性だと信じている。

 だからこそ「小夜啼鳥」はすべての女の子の憧れであり、夢でもある。「小夜啼鳥」のように美しい声で歌いたいと、大勢の女の子が街の歌唱団に所属している。

 しかし、目の前の乱暴な青年は自分を「小夜啼鳥」だという。

 さわり、と風が揺れ、木漏れ日が青年を照らした。

 銀の絵の具に一滴の緑を落としたかのような、不思議な色合いの髪は腰の辺りまで伸ばされ、風にそよいでいる。同じ色の睫毛に縁取られた瞳は湖の碧によく似ている。

 幼い頃、寝物語に聞いた「小夜啼鳥」と同じ容姿。

 息を飲むほどに美しい青年・テノールは、ジゼルを何か可哀想なものでも見るかのように見下していた。

「お前は学者でもぺーぺーの新人なんだな。この国のことも、俺たちのことも何も知らない」

 はぁ、と溜息までつかれてしまった。

「ところで、お前、アーネスト・ベレッタの親類か何かか?」

「え?」

 白衣の泥を払う手が止まる。

「あ……アーネスト・ベレッタは……私の祖父、です」

「ああ、やっぱりそうか。そのソバカス、そっくりだ」

 ニヤニヤと笑いながらテノールはジゼルの顔を撫でた。誰かに顔を触られたことなど初めてのことだった。しかも異性に……!

「祖父を知っているなんて……あなた一体いくつなんですか?!」

 青年・テノールはジゼルと同じくらい、多く見積もっても二十歳そこそこに見える。それなのに彼は祖父を知っていると言う。すでに祖父は五年前に七八才で亡くなっているというのに……?

「『小夜啼鳥』に年齢を聞くとは……お前、本当に何も知らないんだな」

 ふい、と彼はジゼルに背を向けた。

「ま、好きにすればいいさ。俺は俺の仕事をするだけだ」

 そう言って美しき青年・テノールは森へと消えていった。後には呆然と立ちつくすジゼルが残されただけ。


 彼は本当に「小夜啼鳥」なのだろうか。

 勝手にしろと言う彼の言葉通り、ジゼルは彼女の仕事をすることにした。

 ジゼルの仕事は森の植物の検体採取だ。何百年かけて学者と「小夜啼鳥」達が広げた森を守るために必要な、いわゆる「検査」である。人が病気を疑う時に採血をするように、ジゼル達研究員は森から「採血」をする。あらゆる植物からほんのわずかな表皮細胞を頂戴し、それを研究所で細かく検査をする。

 ジゼルは、悔しいことに、先程の自称・「小夜啼鳥」が言うように、今年から研究所に所属することになったぺーぺーの新米研究員である。新米のすることは雑用のような仕事ばかり。

 しかし、この検体採取だけは違う。全ての新人ができる仕事ではないのだ。

 ジゼルの所属する、植物病理学研究室しか扱えない、重要な職務だ。でなければ、たとえ学者といえども森に入ることはできない。

 森は中央政府によって厳しく管理されている。特別な許可とあらゆる検査、投薬、試験を通らない限り、人は森に入ることすらできない。

「……よし。やるぞ!」

 先程の青年は気にしないことに決めた。祖父のことも気にしない。早速背負ってきた荷物を漁り、ジゼルは検体採取に勤しむことにした。


 自然は常に人と共存をしているように思われるが、その実どちらかがどちらかを支配するという主従関係にあることを人は知らない。

 そして現在過去未来永劫、おそらく人は自然に支配されて生きている。

 自然とはそのうちに激しいエネルギーを秘め、それが突如発散される時、人は無力同然である。大地の下で何かが震えれば、たちまち人は足場をなくす。天が悲しみに暮れれば、その涙で川が溢れ、海が荒れる。それを止める術を人は持たない。

 しかし、人は自然を自らの手でコントロールしている気になっている。研究員達がいい例だ。森の植物を管理しているつもりなのだから。

 テノールは知っている。

 自然は人の手に負えないということを。

 テノールは理解している。

 本気になれば自然は人などいらないということを。

 テノールは悟っている。

 しかし自分のような「小夜啼鳥」という存在を、自然が必要としているということを。

 だからこそテノールは歌う。

 今日も、明日も、明後日も。未来永劫、朽ち果てるまで。いらぬと森が言うまでは。

 そしてテノールは思う。

 先程出会ったあのぺーぺー研究員はどういう人間なのだろうか。今まで多くの研究員が検体採取という名の搾取を行ってきたが、彼女は一体どういう研究員なのだろうか。無差別無作為に植物を傷つけるのだろうか。やはり自然は自分たちがコントロールしているものだと思っているのだろうか。

 さわ、とテノールの肩に豊かな葉が触る。

 木の上は居心地がいい。こうして森の木々がテノールに触れ、さまざまな言葉をくれる。

「ああ……分かってるよ」

 テノールにしか聞こえない言葉。植物とテノールの間の秘密の会話。

 そしてテノールは歌う。

 自然を愛し、天を言祝ぐその歌を。伸びやかに、そしてどこかに悲哀を籠めて歌い続ける。


 ジゼルの耳にもその歌は届いた。

 「小夜啼鳥」の歌を夜以外に聞いたのは初めてのことだった。夜に東西南北、四人一斉に歌う「小夜啼鳥」が昼間は一体何をしているのかと常に疑問に思っていた。

「昼も歌ってるんだ……」

 甘く、胸にじんわりとぬくもりが広がる声。テノールの名にふさわしい、美しい男声。伸びやかな高音、ほろ苦い低音。何を歌う歌なのかはジゼルには分からない。しかしこの歌に一ミリグラムほどの悲しみを感じた。明るい長調のメロディに、不規則に混じる寂しさが、穏やかな光に包まれる森を妙に仄暗くしている。

 知らず、ジゼルは声の方へと向かっていた。

 覚束ない足取りで、来た道とは違う道を歩く。

 森の植物たちに注がれていた彼女の好奇心は、たった一篇の歌にすべて吸い寄せられた。せっかく順調に進んでいた採取を放り出して、いつの間にかジゼルは声のする方へと走った。途中で何度も転びそうになった。行きに興味を引かれた青い花は目の端にすら入らなかった。何かよく分からないものがジゼルを追い立てる。とにかくジゼルはテノールの声に導かれていた。

 森に多く育っている楓の木の上に、彼はいた。

 木の枝に座り、彼は歌う。肩にはリス、小枝のようにほっそりとした指には名も知らぬ小鳥を乗せて共に歌い、柔らかく笑む。先程ジゼルを掴み、落とした男とは思えないほどの笑みだ。まるで一枚の絵画のように、できすぎた構図であった。

「お前に歌う歌はないぞ。ジゼル・ベレッタ」

 チチ、と鳥が一鳴きし、飛び立った。リスは変わらずテノールの肩の上でジゼルを黒目一杯に映している。

「か……勝手に聞いてすみませんでした」

 ――何で謝らなきゃいけないんだろ?

 自分でも分からないが、なぜか謝らなければならないような気がした。

「調査か何かはもう終わったのか?」

「あ、はい。おかげさまで今日の分は何とか……」

「今日の分?……じゃあお前、これから何度も森に来るつもりか?」

「え……はい。三月は通うよう上から言われていますので」

「…………」

 盛大に嫌な顔をされた。

 ――「小夜啼鳥」に憧れる少女達には絶対に見せられない……。

「あなたが不都合でもこれが仕事なんです!」

 ジゼルは研究員として果たさねばならない仕事がある。寝る間も惜しんで勉強を続け、念願の国立森林保護研究所に入ることができた。そして今、一般市民では入れない森に入り、研究ができる。この幸せを、こんな訳の分からない「小夜啼鳥」に壊されてたまるか。たとえどんな嫌がらせをされても、意地悪をされてもジゼルは仕事を投げ出したりはしない。そう心に決めていた。

「……勝手にすればいい。ただし、一つだけ絶対に守れ」

 とん、とテノールは楓から飛び降りた。

「あぶなっ……!」

 ……くはなかった。

 風のようにふわりと彼は着地した。そこにジゼルが想像した衝撃は生まれず、ちょっと小高い階段を一段とばして下りたくらいの音しかなかった。

 そしてテノールはジゼルの分厚い眼鏡の下のガラス玉のような目をしっかり見据えて忠告した。

「絶対に夜の森には近づくな」

 低く、トーンを抑えたそれは、忠告。

「日が暮れる前に森から出ろ。絶対だ。これだけは守れ」

 それは研究所でも先輩達が口を酸っぱくしてジゼルに教え込んだ絶対の掟だった。それをわざわざ念を押されるとは、どこまでジゼルは馬鹿にされているのだろう。少々不服に思ったが、流石にジゼルも大人にならなければいけない。テノールの忠告にケチをつければ仕事が思うように運ばないかも知れないのだから。

「分かりました。絶対に守ります」

「分かればいいんだ。……もう日が暮れる。早く荷をまとめて帰れ」

 そう言ってテノールは再び森の奥へと入っていった。

 もっと意地悪なことを言われるかと思っていただけに拍子抜けだった。

「でももうちょっと言い方ってのがあると思うのよね……」

 ジゼルはこれから十分な検体が得られるまで森に通う身だ。そして彼は森に住む「小夜啼鳥」。互いに森のために働いているというのだから協力し合うこともできるのに。そう思いながらも、すでに日はだいぶ傾き始めているのに気づき、ジゼルは再び湖の方へ向かい荷物をまとめた。


 その夜、ジゼルは遅くまで研究室に残っていた。

「早くお帰りよ?ジゼルちゃん」

「あ、はい。お疲れ様です、リントン室長」

 眠たげにあくびをする中年、ネイサン・リントンに恭しく頭を下げる。

「ホント、ベレッタ先生にそっくりだよ。熱中してたら人の話なんて右から左」

「ハハ……」

 ベレッタ先生。

 その言葉にジゼルの心は一瞬暗く染まる。

 この研究所に入って以来、何度聞いたことだろう。

 ベレッタ先生とはジゼルの祖父のことであり、有名な植物学者であり、多くの研究員を輩出した学院の教師でもあった。今、帰ろうとしているジゼル直属の上司である室長も、祖父の教え子の一人である。他にもこの東支部には祖父・アーネスト・ベレッタの教え子が多く、支部長すらジゼルを見かければ顔に緊張を走らせる始末だ。多くの年嵩の研究員達がジゼルに何かと世話を焼く。ジゼルのことを何かと気にかけてくる。それがジゼルには嬉しくもある反面、若干の苦みを残すものでもある。

「じゃ、ほどほどにねー」

 ぱたん、と白い扉が閉められる。ジゼルは再び作業の続きを始めた。

 夜更けまで残っているには理由があった。検体の保存を早急に済ませたかったし、何よりも聞きたかったのだ。

「……そろそろかな?」

 誰も残っていない研究室で、ジゼルは中天に登った月を見た。

 そして耳を澄ませる。

 最初はか細い声が。

 それが徐々に縒り合わさって一つの音になる。

 言葉は分からない。

 四つの音が東西南北から聞こえる。

 夜空の星が瞬く。

 木々がざわめく。

 上昇気流に音が乗り、中天の月へと上り詰める。

 瞬間。

 音が爆ぜた。

 花火のように散らばる音の結晶が、乾いた街に降り注ぐ。

 人はそれに気づかない。ジゼルのように意識して聞いていなければ、誰にも聞こえないような歌。

 それでも人々は「小夜啼鳥」の歌を知っている。

 眠りの中で聞いている。

 母親の胎内で育ち続ける子供にも届く。

 それは聞こえるのではない。音を感じることに近い。

 いつの間にかジゼルの波立っていた心が、凪を取り戻す。

 目を閉じ、心に染みわたる夜の歌が、ジゼルを癒していった。

 月が中天の座を夜空に返す。

 縒り合わさっていた音の縄が一本、また一本、と解かれ、夜に再び静寂が訪れた。

 ジゼルは研究室で思う。

 テノールの声は一体どれだったのだろう。

 昼間にあれほど美しく響いていた彼の声が、森を離れるとこんなにも曖昧になってしまうのだ。

 「小夜啼鳥」たちは、自分たちの声がどう聞こえているのか、知っているのだろうか。

 歌の止んだ街には、砂を巻き上げる冷たい風が吹くだけだった。

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