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六
瑤子はこの古い手紙を受け取った日のことが忘れられない。
調理場の壁に取り付けた壁掛け時計が午前9時20分を指している。開店時間の10時までまだ少し余裕がある。瑤子は脇に置いたままの郵便物をチェックすると、見慣れた和風の封筒が混ざっていた。けれどいつもより厚みがある。差出人は吉川志津さん。志津さんと初めて会ったのは、夫伸一と娘雪絵が事故に巻き込まれたあの夜だった。
「娘はいつ目が覚めるんですか?この子まで失くしたらあたし…」
幸い、1才の女の子雪絵は、亡くなった父親が庇っていたおかげで、大きな外傷はなかったが、頭を強く打っており、意識が戻らないのだ。
「毎日、お嬢さんに話しかけてあげてください。声は聞こえているはずですから」
瑤子はそれから毎日欠かさず病院に通いながら、伸一の葬儀、それに関わる届けや事後処理などで、あっという間に過ぎていった日々、泣いている暇などなかった。
今日も伸一の勤務していた割烹料理店〈やまヰ〉の大将、山井宗次に葬儀後のお礼と挨拶に来ている。
「大将、この度はたいへんお世話になりました。何も分からないあたしにいろいろとご指導いただき、ほんとうに感謝しております。ありがとうございました」
瑤子は開店前の〈やまヰ〉の小上がり席で、山井宗次に深々と頭を下げた。
「お疲れさまだったね。瑤子ちゃんも大変だったでしょう。ご自愛してくださいね」
宗次は伸一を亡くしたことが、ほんとうに無念だったらしく、瑤子のことも心底から気遣ってくれて、悲しんでくれてもいる。
「それより、焼香、俺が一番で恐縮しちゃったよ。俺でよかったのかい?ま、今更なんだけどさ」
宗次は苦笑いを浮かべた。
「いいえ、増井の家も生島のほうも誰も身内がいないですから、大将が一番なんですよ」
瑤子は右掌を顔の前で左右に振って微笑んだ。
「まあ、それだったらいいだけどね…」
「はい、ありがとうございます。おそらくまた、ご面倒をお掛けすることもあるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします」
瑤子はもう一度丁寧に頭を下げた。
「ああ、そうだ。そういえば、事故賠償の件だけど、うちの顧問をしてもらっている山形先生に頼んであるから、全部任せといたら大丈夫だよ」
「あ、それ、はい、ありがとうございます。昨日山形先生から連絡もらいました。加害者のほうも保険会社の弁護士さんが入るそうで、弁護士同士でちゃんと話をするっておっしゃっていました」
「あ、そうか、そうか。じゃあ、それでいいよ。あの先生、まだ若いけどしっかりしているから大丈夫だ」
宗次はうんうんと頭を上下させながら笑顔で続けた。
「また困ったことがあったら、遠慮しなくていいから、何でも言ってくれたらいいよ。伸一に叱られることがないようにするからさ」
瑤子はそんな宗次の心遣いに涙が出るほど嬉しかった。また、生前の伸一の仕事が宗次に認められていたのが見えるようで、宗次の厚意と併せて、伸一への感謝の気持ちで、胸のなかをいっぱいにして〈やまヰ〉を辞去した。




