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三
瑤子には忘れられない雪の日がもうひとつある。あの朝、目覚めると、普段の景色が一面の銀世界に変わっていた。瑤子はベランダに積もった雪を集めて、小さな雪だるまを作ってみた。頭と胴を合わせて、手のひらに乗るぐらいの大きさ。丸が少しいびつで、泥が混じっている。けれど、それがかえって愛おしかった。
「これくらいが、あたしたちにはちょうどいいかな」
瑤子は独り言を呟いて、クーラーボックスに入れた。冷たい空気が頬を刺す。瑤子はマフラーを巻き直して、ゆっくり病院へ向かった。
病室は暖房が効きすぎているぐらいで、外の寒さが嘘みたいだ。ベッドの上のまだ一歳の雪絵は、目を閉じたまま細い呼吸をくり返していた。雪絵は寝たきりの症状やその看護方法のこともあって、個室に入院させてもらっている。もちろん費用は加害者の自動車保険から拠出されるので問題はない。病室の扉を開けようとしているところへ後ろから声を掛けられた。
「増井さん、おはようございます」
振り向くと、看護師長の吉川志津が笑顔で立っている。
「あ、おはようございます」
瑤子は笑顔を返した。
「朝から冷えますね。雪絵ちゃんは今日も朝から変わりありません」
「そうですか…」
瑤子は残念そうな顔して応えた。
「ま、これからも諦めずに頑張りましょう」
志津は励ますように瑤子の肩を抱いた。瑤子は頷きながら微笑み、ベッド脇に持ってきたクーラーボックスを置いた。
「昨夜、たくさん雪降ったみたいですね」
「そうみたいですね。昨日は夜勤で忙しくしていて、ぜんぜん気が付きませんでした。今朝、仮眠室から出てきてびっくりしましたよ」
瑤子はクーラーボックスの蓋を開けて、中から出した雪だるまを見せた。志津が少し驚いた顔をして、から微笑んだ。
「まあ、かわいいっ!。増井さんの手作りですか?」
「ええ、まあ。あの子にも見せたくて」
志津は頷きながら、雪絵に取り付けられた生命維持装置の駆動確認をしている。瑤子はいつもように雪絵に話しかけた。
「雪絵、今朝ね、雪積もったのよ。それで、お母さんね、雪だるま作ったの。ほらっ」
瑤子はクーラーボックスから出した少し砂交じりの小さな雪だるまを雪絵の右手に触らせた。志津も傍らで見ている。
「ちゅめたいなぁ…」
「えっ?」
瑤子と志津が顔を見合わせて同時に雪絵を見つめた。
「雪絵ちゃんっ!気が付いたのっ?」」
「雪絵っ!雪絵っ!目を開けて!」
それと同時に生命維持装置の心拍計は直線になり、ピーと短い音を発した。バイタルサインの心拍数は0を示している。志津はベッド脇のナースコールボタンを押し、除細動器を取り出して、電極を雪絵の胸に貼ってから病室を飛び出していった。すぐに担当医である西岡信之が志津と共に駆け込んできた。
「どうしました?雪絵ちゃん、目を覚ましたんですか?」
西岡医師は雪絵の手を握ったまま、茫然としている瑤子の目を見た。
「い、いま…、これ雪だるまを触らせたら、うっすら目を開けて冷たいなって…」
瑤子はわずかに溶け始めて、ベッドシーツを濡らしている雪塊を差し示した。西岡医師は聴診器で心音を聞き、脈を取りながら生命維持装置のデータを確認した。除細動器を充電してから作動させる。
バンという音が耳を劈く。
「離れてっ」
西岡医師の声と共に、ジュールを上げて二度、三度。しばらく様子を見ていた西岡医師は諦めたように呟いた。
「残念ですが…」
バイタルサインの心拍数は0を示したままだった。瑤子はベッド脇に跪いて、雪絵の手を握り締めたまま、目を閉じたままのその顔を見つめるほかなかった。
その日、葬儀の準備や死亡に関わる書類の作成など、面倒な手続きを丁寧に教えてくれた志津に頭を下げて、病院を出たころには、雪は止んでいた。瑤子が街灯の下で見上げた空は、どこまでも透き通っていた。瑤子はまた悪い夢を見ているような気がした。デジャブのように、伸一と同じ病院で、同じように死亡診断書を受け取り、志津が同じように丁寧な対応してくれているのだ。
雪絵の体温のぬくもりが残る両手を握りしめながら瑤子は決めた。あの人とあたしの愛の証しである雪絵のためにも、あの人の夢を叶えたい。雪絵が一瞬意識を取り戻した雪だるまの冷たさを忘れることなく…。




