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二
テレビの天気予報で、クリスマスには大寒波がやってくると伝えていたけれど、まさかここまで降るとは思ってもいなかった。窓の外には夜のうちに積もった雪が、静かに光っている。その光に周りの音が吸い込まれたように、街全体がしんと静まり返っていた。
瑤子はベランダに出て、手のひらで雪を掬ってみた。思ったより軽くて、冷たい。ふと、結婚した当時住んでいた団地の敷地で、近所の子供たちが、雪を丸めて遊んでいた記憶が甦る。夫伸一は唐揚げの味つけレシピを作るため、勤めていた和食割烹店が休日の日曜日でも、夜遅くまで台所に立って、味見ばかりして笑っていた。あの人の笑い声を思い出すたび、胸の奥が少し温かくなる。でも雪が積もった今日のような日は、どうしてもその温もりに届かない。病院からの帰り道、イルミネーションの光の下で立ちすくんだ夜を思い出してしまうのだ。
「吉川師長!急患です。三〇代男性と一才ぐらいの女の子、交差点で衝突した車がその勢いで歩道へ突っ込んできたそうですっ」
救急隊員から報告を訊きながら処置室へ急ぐ。
「財布の免許証から増井伸一さん、所持していた写真からその娘さんだと思われます」
「男性は心肺停止、女の子は転倒時のショックで意識不明ですっ!」
処置が始まり、はげしい装置の音、急ぎ歩きの医療スタッフたちが行き交うなか、処置室のカーテンの隙間から志津は女性の切り裂くような悲鳴に近い声を聞いた。
「あたしが買い物なんか頼んだから、ごめんなさい…。こんなことになるなんて…」
「力及ばずで、残念です…」
医師が死亡時刻を伝えるとき、看護師長の吉川志津はいつも何とも云えない気持ちになる。
「奥さん、娘さんのために頑張りましょう」
辛い状況の人に頑張れと云うのは間違っているとわかっていながら、志津にはそれ以外にかける言葉が見つからなかった。
瑤子の夫伸一は二歳年上で、瑤子が勤めていた会社の忘年会で知り合った。忘年会と云っても、所属していた総務部の課長広瀬敬三が何を思ったのか、課内の女性3人だけを1年の慰労を兼ねた忘年会だと云って、自身が馴染みの和食割烹へ連れていってくれたのだ。カウンター10席と小上がり和室が2部屋、それに20人ぐらいまでの宴会室が1室だけのこぢんまりとした店で、あたしたちがめったに食べないような懐石料理を振舞ってくれた。あたしたち3人は、普段ありえないことなので、少々懐疑的になったが、3人全員への招待だったので、不信感は払拭して素直に頂くことにした。しかしそれが、あたしの人生を劇的に変えてしまうことになるとは思いもしなかった。
増井伸一はその店の大将に次ぐ二番板として勤めていた。瑤子は料理の味はもちろんだが、伸一の包丁さばきや盛り付けの素早さなどをカウンター越しに見て感心していた。
年が明け、そろそろ春一番の声が聞けるかという頃、瑤子は春物のジャケットでも買おうかと、久しぶりに市内の百貨店へ出掛けた。地下鉄を下りて、地上に出た交差点で、信号待ちをしていたところ、後ろから声を掛けられた。
「すいません。もしかしたら、イクシマさんじゃないですか?」
「えっ?」
生島瑤子は驚いた。
「ああ、やっぱりそうだ。私です。私っ」
増井伸一は人差し指で自身の鼻先を押さえて笑い掛けた。瑤子は一瞬誰だか分らなかった。頭のなかで思考回路を巡らす。古いタイプのナンパ?それとも?どこかの店のキャッチ?それにしては、あたしの名前も知っているし、妙に親しげだ。
「いやだなあ。ほらそこの《やまヰ》の板前増井ですよ。ヤ・マ・イのマ・ス・イッ」
伸一は後頭部に手をやって、さらに微笑んだ。
「あっ…」
瑤子の記憶回路が昨年広瀬課長に連れていってもらった慰労会を探し当てたようだ。
「ああ、思い出しました。あの時の…」
「そうそう、そうです。ああ、よかった。思い出してもらえた。この野郎、ナンパなんかしやがって、
100万年早えよっ、とか思っていませんでした?」
「いえ…。そんなことは…」
瑤子は頭のなかを見透かされたようで、無理に笑顔を作って微笑んだ。
「折角だから、お時間あるようでしたらお茶でもどうですか?俺はこれから店に入るだけなんで」
信号が青になり、並んで歩き始めながら、折角誘ってくれているのに、お茶ぐらいで無下に断るのも気が引けたので、横断歩道を渡ったところで、目の前にあったチェーン店の喫茶店に入ることになった。
昨年の慰労会の折りには、もちろん伸一が仕事中なので仕方がないのかもしれないが、無口で物静かという印象だったのだが、今日はまったく違ったイメージで、楽しく笑わせてくれたりもして、かなり饒舌だった。
「今度また店にくださいね。もちろん広瀬さんは抜きでね」
伸一は立てた親指を、もう一方の掌で隠して笑った。
「やまヰさんみたいな高いお店には行けないですよ。あたしのお給料では…」
瑤子は右掌を左右に振って、微笑みながら応えたが、それ以来、毎月1度ぐらいは〈やまヰ〉のカウンターの端で瑤子の姿を見るようになっていた。




