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6 絡みつく、記憶

 は夏が嫌いだった。暑いからというわけでなはない


 暑い夏のある日、幼稚園に行く道中、目の前で人が車に跳ねられたのを目撃した。以後、その時の事がずっと忘れられなかった。


 乗用車に弾き飛ばされた自転車と人間。紙きれのように吹っ飛び、地面に叩きつけられ、血だまりを作って救急車に運ばれていった。幼かった比沙子には、その被害者がどうなったのか、結末は知らない。


 だが、幼稚園児だったとはいえ、あまりの強烈な事故は、熱転写のカーボン紙のように熱く鮮明に焼き付き、どうしても忘れられなかった。


 あの血だまりの中に倒れる人を――その顔を、忘れる事ができない。


 だからというわけでないが、どうも夏に良い思い出がない。いや、嫌なことはすべて夏に起こるのではないかと錯覚するぐらい、夏に不快な記憶が多い。


 暑さが人を苛立たせるのだろうか。妙に人に絡まれたり、不運が続いたりと、比沙子の心をなにかにつけて暗くした。


 また夏が訪れた。


 そんな時、比沙子の会社に転職してきた女がいた。


 比沙子より二つほど年上のこの女は、見た目はそれほど美人ではなかったが、妙に色気があって、男たちの気を引いた。当然ながら同性の社員には受けがよくない。しかしだからと言って、女を武器に仕事をしている様子は微塵もなかった。比沙子は所謂「生まれつきのもの」と片付け、気にしなかった。とはいえ仲良くする気もなかった。


 ところがある日、残業が重なった。そろそろ帰ろうとしていた比沙子に、その女が声をかけてきた。せっかくだから、食事をして帰らないかと誘ってきたのだ。断る理由もなく、応じた。


 少々酒が入り、気も緩んだのか、比沙子は誰にも話したことのない例の事故の話をした。するとその女は、比沙子の名を紙に書き、生年月日など諸々聞いてきた。言われるままに応えると、一言言い放った。


「あなた、夏が天中殺ね」と。

「七月と八月は天中殺だから、あまり大きな事をしないほうがいいわ」と。


 意味がわからなかった。比沙子は興味が湧いて詳しく教えて欲しいと頼んでみた。


 その女の説明はこうだった。


 まず、〝天中殺〟は人によって異なるそうだ。それが大前提。そして天中殺とは、〝悪い事が起きる〟という意味ではなく、〝良くも悪くも影響力が大きい〟という意味だそうだ。


 このため〝悪い事が起こるとよくない。重大な決断はしないほうがいい〟と伝えられているという。


 さて、詳しく説明する。天中殺には〝時間〟と〝空間〟が存在する。〝時間〟は〝六〟。〝空間〟は〝五〟。それぞれに〝陰〟と〝陽〟が存在する。よって〝時間〟は〝十二〟であり、空間は〝十〟になる。


 この二つが歯車のように交互に絡み合う。当然〝時間〟が〝二〟余る。この〝二〟が天中殺なのだ。


 さらに、天中殺は〝一日〟、〝一年〟、〝一生〟と繋がっている。一年の次が一生というのは、些か時間が飛ぶ気がするものの、納得するしかない。 


〝一日〟の中で余る〝二〟は〝二時間〟であり、それが世に言う〝丑三つ時の頃合い〟だそうだ。これは区切りが小さいので、万人に当てはまる。だからこそ、『草木も眠る丑三つ時は、声を潜めて静かにしていろ』と古人は伝えたのだ。


 ここから個人によって変わってくる。


 名と、生年月日、そして出生時間など、これらを掛け合わせて調べると、その人間の〝一年〟の天中殺期間が出る。〝一年〟の中の〝二ヶ月間〟に相当する。この期間に大きな出来事が当たる人は、良い時も大きければ、悪い時も大きいというわけだ。


 そして〝一生〟。これが厄介だった。


 大きな時の巡りに当てはめる。〝年〟、〝月〟、〝日〟、〝時〟をそれぞれ調べると、まったく天中殺に引っ掛からない者もいれば、十年、二十年、あるいは六十年、一生ドップリ入っている者もいる。


 最初はなにもなく、その後天中殺に入る者もいれば、その逆もある。入って抜ける者もいる。これが広く〝運勢〟と解釈されている。


 一生天中殺に入っている者は、仮に不運が続いても、運が良くなくても、慣れてしまって気にならないだろうが、人生の後半に突入したら、さぞ影響が大きく感じることだろう。それが悪く傾けば、なおさらだ。


 比沙子は七月と八月が天中殺だと聞かされ、記憶に残るような忘れられない出来事が起こりやすく、中でも悪い思い出が多いのだろうと助言を受けた。


 同時に、こればかりは避ける事が出来ないので、静かに過ごすよう心がけ、なるべく大きな決断をしないよう勧められた。


 そういうことを毎年意識しなければならないとは少々窮屈だと思ったが、助言は助言、心当たりを思い出す間は、真摯に受け止めようと考えることにした。


 さらにその女は、早く忘れるように、あるいは記憶が薄れるように心がけるべきだと言った。「それができたら苦労しない」そう言いたかったが、どうすれば忘れられるのか? 逆に聞き返してみた。女は「であるならば、近くの神社でお祓いをしてもらい、心を清めてはどうか?」と言われた。


 自らイメージする時は案など浮かばなくても、人からなにか言われると、ふと思いつくことがある。比沙子は「それならば催眠療法にでも行った方が手っ取り早いのではないか?」と思った。


 とはいえ、生活に支障が出ているわけでもなければ、絶えず苦痛に苛まれているわけでもない。なにかにつけて思い出しはするが、忘れようと心掛けて気を反らせると退けられる。車道を進む自転車を見ないように心掛ければいい。今の状況で催眠療法をわざわざ受けに行くのもどうかと思った。


 女はもう一つ助言した。「もしかしたら、事故に遭った被害者の生死、結末を心のどこかで気にしているのかもしれない。その人がどうなったか、調べてみてはどうか?」というものだった。


 それは一理ある。


 そう思った比沙子は、決して口にしてこなかったあの事件の事を、母に問うてみた。


 母親は驚いていたが、明瞭に答えた。頭から落ち、アスファルトに叩きつけられた格好で、ほぼ即死だった、と。新聞にも載り、テレビでも流れたと教わった。


 比沙子は「やはり」と思った。同時に、女が言ったように、答えを与えられて、どこかホッとしたような気がした。もちろん、亡くなった被害者には気の毒としか言いようがないのだが。


 なんとなく心の片隅にあった棘が取れたような気がした。


 そんな比沙子は、事件の全体像が知りたくなった。世間に流れただけの真実であっても、最初から最後までの顛末を知れば、脳裏に焼きついたあの事件を片づけられるのではないかと思ったのだ。


 暑さをしのぐために入ったカフェで、ネット検索したら簡単にヒットした。


 自転車を運転していた被害者は点滅していた青信号を、スピードを上げて渡り切ろうとしていたようだ。そこへ運転免許取り立ての大学生の脇見が原因で信号を見誤り、交差点に突っ込んだ。急ブレーキを踏めるほどの余裕はなく、自動車と自転車は衝突し、自転車の被害者は即死。大学生は過失致死で現行犯逮捕となった。


 比沙子は小さく吐息をついた。長い間自分を縛っていた縄が大きく緩んだような気がした。


 そして――目を奪われた。


 加害者の名前と年齢。


 それに心当たりがあった。


――課長!


 叫びそうになった。


 子どもができて間もない四十半ばの上司は、誰からも好かれる温厚な男だった。


 それは比沙子にとって、衝撃だった。意図したことでなくても、良くない偶然の重なりであっても、毎日顔を合わせ、共に働く上司が、人を殺めていたのだ。


 いや。


 別人かもしれない。


 別人の可能性の方が高い。


 別人であってほしい。


 ただ単に、同じ名前、同じ年なだけだ。


 比沙子は自らに言い聞かすように、何度も唱えた。


 別人であって。


 心にドロリとしたイヤなものが広がった。またしても自分の体を、あの事件が絡み付いて、縛りあげようとしているような錯覚を囚われた。


 スマホのアプリを消しても、置いているマグのコーヒーを飲んでも、そのイヤな気持ちは一向に収まらない。


 触れる必要のないものに自ら触れに行ったような、不愉快さが心を満たした。


 カフェを出て、地下鉄に向かう。


 真夏の暑さがますますその不快さに拍車をかける。


 比沙子は上司の笑顔と、被害者の顔を思い出し、気持ちが悪くなった。


 どうしてこんなに気になるのだろう。


 早く忘れてしまえばいいのに。


 そう思うのに、記憶は意識を覆い尽くして離れない。まるで脳に住み着き、蔦のように蔓を伸ばして全身に絡みつき、覆い尽くしていくような気さえする。


 気になる。


 課長はどんな気持ちで今まで過ごしてきたのだろう。


 今、なにを考えているのだろう。


 あの時の記憶が、脳裏から離れない。


 ああ。


 その時、そんな比沙子の耳に、轟くような悲鳴が届いた。


 ハッとすると、視界に赤信号が見えた。その瞬間、耳を裂くようなアスファルトを滑る急ブレーキの音が響いた。


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