5 雨が降っている
降り注ぐ――雨、雨、雨。
傘も乾く間がないと言いたげに、絶えずしっとり濡れている。
「鬱陶しいなぁ。ったく。あーあ、このスーツも線が取れちまってる! 濡れたところにドッカリ座れば、プレスしてんのと同じだもんなぁ~。うわ、ワイシャツも乾かないからストックがねぇや!」
ブツブツ言いながら、出勤の準備をする。結婚などこれっぽっちも考えていない二十八歳のだったが、こんな時だけは嫁が欲しいと身勝手なことを考えてしまう。
今の時代にまったくそぐわない考えであることはわかっている。だが、家事が苦手な朝倉には、それを補ってくれる〝誰か〟が欲しいのだ。
金曜日。今日一日頑張ればいい。土曜日は一日のんびり過ごし、日曜は悲しいが家事だ。そう決めている一週間のルーティン。いつもと変りない日常を今日も送る。
外に出ると、かなり降っていた。ずぶ濡れの傘を持って乗る満員電車も不快だ。自分もそうだが、他の乗客の濡れた傘がスーツに当たって濡れるのだ。
(ったく!)
朝から機嫌が悪い。仕方がないと思いつつ電車に乗り込む。さらに朝倉をイラつかせるのは、雨だと必ずと言っても過言ではない程、電車が遅延することだ。遅延証明書も一度や二度なら効力は絶大だが、頻々と遅延すると当然誰もが「わかってるんだから、早く家を出ろよ」となる。
今日はさほどの遅れが出なかった。念の為、二本分早く家を出たこともあり、会社にはいつもより早く到着した。鞄を置き、スーツをロッカーに直すと、カフェコーナーに寄ってコーヒーを買い、窓を眺めながら飲もうとした。
(あ?)
二階のカフェコーナーからは自他の会社を問わず出勤するサラリーマンがよく見える。そんな中で、ふと視線を取られた。
(朝っぱら、なにやってやがる!)
ビルの陰に隠れ、高校生ぐらいの男女が抱き合ってキスをしていた。
(ったくよー、こんなオフィス街ですんなよ、学生野郎が! 羨ましいこった!)
胸の中で毒づき、ふと思い出した。
(そういえば……)
出勤しようとワンルームマンションを出たあと間もなく、小学校低学年ぐらいの女の子が父親に向かって「いってらっしゃい!」と元気良く言ったあと、思い切り抱きついてチュー! と愛情たっぷりの挨拶をしているのを目撃したのだ。朝倉はそれを微笑ましい気持ちで見た。が、ふとその女の子と目が合い、反射的に微笑んだ。そして歩き出した。
(父親からしたら嬉しい限りなのかもしれないけど、あの女の子、年頃になって、自分のファーストキスが父親だと知ったら落ち込むだろうな)
などと思いながら。
朝倉は少女のことを考えていたが、ビルの陰にいる女がこちらを見ていることに気がついた。さらにニコニコと笑っている。
(あ、やべ)
気付いていないフリをして顔を背け、続けて体も捻って窓に背を向ける。コーヒーを飲み干し、カップを棄てるとカフェコーナーから出た。
(うーん、今日はキス日和なのかも。俺も恩恵に預かりたいなぁ)
こうして朝倉の一日が始まった。当然ながら、彼女のいない朝倉に、キスの恩恵などはなく、ごく普通に時間は過ぎていった。
目が覚め、時計を見ると九時だ。雀の鳴き声が響いている。カーテンを開けると太陽の光が眩しかった。
「およっ、快晴かぁ! 久しぶりの……あ!」
どうも雨が上がったのはつい先ほどのようだ。世界は滴に濡れ、太陽の光を受けてキラキラ輝いている。さらに朝倉の目に飛び込んできたのは、大きな虹だった。
「うわぁ~、あんなにでっかくてハッキリした虹って、珍しいよな。朝からいい気分だ。なんか、良い事ありそうな気がする。いやいや、誰か困ってる人になにか役に立ちたい気分だ。……なんてね」
一人、ブツブツ呟く。こんな時、嫁でも彼女でもいたらまた違うんだろうな、そんなことを考えた。いや、昨日の親子のような時間もいいかもしれない。
(三十過ぎるまで独身って思っていたけど、真面目に考えようかなぁ。母さんも早く孫の顔が見たいってうるさいし)
だが、現実はまた異なる。この快晴と大きな虹に見惚れている場合ではなかった。雨と雨の間の貴重な晴れ間だ。のんびりする予定を変更して、山積みの洗濯物を片づけることにした。
二度ほど洗濯機を回し、ベランダに干す。さらにスーツのズボンにプレスをかけ、精力的にすべきことをこなしていく。家事は苦手だが、できないわけではないのだ。
時間が経つほどに蒸し暑くなってくる。次第に心地よい朝の一時は、不快な昼へと変わって行った。
怒涛の掃除と洗濯を終えると、今夜の夕食を買いにコンビニへ向かった。コンビニ弁当の週末は寂しいと思うが、食べにいくのも億劫だし、一番近い食糧庫がこのコンビニだった。弁当とドリンクを買い、店から出る。見ると真っ黒な雨雲が近づいているのがわかった。時刻はそろそろ夕方に差しかかろうとしている。夕立が来ると察し、慌てて家に駆け込んだ。
(ギリギリセーフ。早く洗濯ものを!)
全部取り込み、ホッとしたのとほぼ同時に、ポツリポツリと降り出した。が、「あ」も言う間もなく、土砂降りになった。
窓から雨の様子を見ていると、マンションの前に二十代半ばぐらいの女が立っているのを見つけた。雨宿りをしているようだ。
(今日はピーカンだったから、傘、持ってないのも仕方ないよな。可哀相に)
その女の服はすでにかなり濡れていた。
(やたら激しいけど、夕立だろうな。あっちの方は晴れてるみたいだから、すぐに通り過ぎるだろう。ま、ちょっとの辛抱だ)
朝倉はそんなことを考え、パソコンの電源を入れた。
ネットやメールをしていたが、雨音が一向に収まらないことに気付いた。時計を見ると、三、四十分ぐらい経っている。妙に気になり、再び窓の外を覗いた。
(あ!)
さっきの女はまだ雨宿りをしていた。濡れた服が肌に密着して、寒そうにも見える。
(ずっと雨宿りかぁ……)
雨は激しくなるばかりだ。
(夕立じゃなく、本降りだったんだ。うーん、ちょっと可哀相だな)
人にあまり親切にするタイプではなかったが、あまりに可哀相だと思い、タオルと傘を持って部屋を出た。
「あの」
女がこちらを向く。けっこうな美女だ。
「これ、使ってください」
「え? でも」
「安物の傘だから、返さなくていいし」
女はニコッと笑い、礼を言って頭を下げ、帰っていった。
(なんか……照れくさいけど、良いことした後ってけっこう気持ちいい? つか、あの子、美人だったなぁ。それに……)
濡れた服から覗いた下着のレースが伺え、妙に気持ちが沸き立った。
(ダメダメ。良いことしたんだから、そういう不純なことを考えちゃ。虹の恩恵、虹の恩恵)
今朝見た大きくて綺麗な虹を思い出しながら、能天気な事を考える朝倉だった。
雨は降り続く。翌日になっても、一向に止む気配がない。
朝倉の部屋のチャイムが鳴った。
「はい」
『雨宮と申します。昨日の傘を返しに来ました』
朝倉は飛び上がった。慌ててエントランスに向かった。ガラスの扉の向こうに昨日の女がいた。
「あ、いいのにっ」
雨宮と名乗ったその女はニコッと笑い、傘とタオルを朝倉に手渡した。
「それからこれ、お礼です」
見るからに甘い菓子だとわかる。朝倉は気恥ずかしそうに、一度はそれを断った。とはいえ、わざわざやって来て「お礼」と言って差し出した物を、相手も引っ込めることはできないだろう。仕方なく受け取ろうとして、ふと昨日、濡れた服から覗いたレースの下着を思い出した。
「あの、大したこともしていないのにお礼貰って申し訳ないから、お茶でもどうです? 菓子なら一緒に」
そこまで言い、ハッとする。
「すみません! 男の一人暮らしの部屋に誘うもんじゃないですよね! 今のはなかったことに! これ、ありがたくいただきますっ」
受けろうと手を出した時、雨宮が意外なことを口にした。
「では、一緒に食べましょう」
「……え?」
「ね?」
こんなことがあるのだろうか? 朝倉はそう思いながら、心臓がドキドキと音を立てているのを感じる。
言い出したのは自分だ。今更「やはり、ダメです」とは言えない。緊張しながら部屋に案内をした。
(昨日、掃除しててよかった!)
などと悠長に思った。
「お茶入れます」
雨宮はおとなしく座っている。そして朝倉が出したお茶を旨そうに飲み干すと、ゆっくり口を開いた。
「私、あなたが気に入ったの」
「え?」
雨宮は微笑んだ。
「だって、二回もキスしているの、見られたし。ま、二回目はわざとだけど」
「は?」
その瞬間、雨宮の笑みがある笑みと重なった。
(会社の側でキスしてた女の子? でも……年が)
「それだけじゃないでしょ?」
「…………」
さらに記憶がフィードバックする。朝倉は背筋に悪寒が走り、脂汗が滲み出るのを感じた。
(父親にキスしてた……?)
「そう、その通り。でも、父親じゃないわ。母親の恋人なの」
「あ、あの」
「あの男、美味しかったわ」
「…………」
言葉を失い、恐怖に竦む。雨宮はますます得意げに微笑んだ。しかも、限りなく、妖しく。
愕然とする朝倉の耳に、激しい雨音が響いていた。
「おかげさまで、立派に成長できたもの。どう?」
言い様、雨宮はブラウスのボタンを外した。豊かなバストが露わになった。しかし白い肌は、逆にさらなる恐怖を呼んだ。
「……な、なに」
「何者? ふふふ。安心して、私、単なる雨女なだけだから」
「あ、雨女?」
「そうよ。雨を呼ぶだけだから。もっとゆっくり成長するつもりだったのだけど、あなたと目が合って気が変わったの」
「…………」
「微笑んでもらって嬉しかったし、素敵だったわよ? うふ。一目惚れなの」
朝倉は硬直しながらも後ずさった。同じ分だけ、雨宮がにじり寄る。
「早く大人になって、一緒になろうって決めたのよ。だから適当な男から精力貰って成長を早めたってわけ」
「き、決めたって、ちょっと……」
「大きな虹を見て良いことありそうだとか、良いことしようなんて、単純な思考だけど、可愛らしくて、なかなかそそられるわ。まぁ私、雨女だから、虹は大嫌いだけど」
「あ、の」
雨宮の微笑みは、すべてお見通しとでも言いたげなものだった。いや違う。すべてお見通しなのだ。
「だから、早く行きましょう」
雨宮はさらににじり寄り、そしてとうとうその体に触れた。首に両腕を回して抱きついた。
「い、行くって……どこに」
再び、微笑む。
「決まっているじゃない。妖しの世界よ、愛しい人」
「あやし、の、世界?」
「そうよ。この世には人間以外の存在がいろいろ存在しているの。知らないのは、人間だけ」
そんなこと、信じられない――そう思うのに、体が強張って動かない。
四方八方から、叩くような激しい雨の音が響く。その音を聞きながら、圧し掛かってくる雨宮の体重という現実を感じた。
「私のものになるのよ」
「!!!!!!」
唇が重なりかけたその瞬間、朝倉はなにか叫び、無我夢中で雨宮を振り払った。そして駆け出す。靴も履かず、マンションを飛び出した。
土砂降りの雨!
まだ日は落ちていないが、暗い。そんな中を何度も転び、ビショ濡れになりながら走った。だが、振り返ると、一定の距離を保って雨宮が追いかけてくる。必死に走る自分とは対照的に、ゆっくり歩いて――否、足は動いてはいなかった。道路の上を滑るように進んでいる。
朝倉は狂ったように叫び、助けを求めた。しかしまだ夜とも言えない時間にもかかわらず、人の気配がない。
(助けて!)
やがて体が悲鳴を上げ、道路に転がった。
「無駄よ。雨の中にいる以上、逃げられないわ。私たち二人だけの世界よ。うふふ。さ、行きましょう。ずっと一緒に過ごすのよ。愛しい人」
愛しいとは、なんなのだろうか?
完全に捕まったと自覚した。抱き締められて唇にキスを感じた瞬間、目の前が真っ暗になった。もう、ここがどこかもわからなかった。ただ、激しい雨に打たれつつ、その音だけが耳に轟いていた。
今日も、雨――
雨が降っている。