4 そろりと舞い落つる
はテレビの台を見て、またしてもムッとした。それからゆっくりと周囲を見渡し、深くため息をついた。
最近、久美子を悩ませている問題が、今、眼前にあるモノだった。
――埃。
(そりゃ、一週間に一回しか掃除機かけないから、溜まるのは仕方がないけど。それにしたって汚すぎるし、こんなに溜まるかな? あー、いやいや、溜まるよね)
フワフワのハンド・モップを動かしながら、久美子はそんなことを考えた。
夜になり、夫のが帰ってきた。いきなりゲホゲホと咳をする。
「風邪?」
「いや、違うと思う」
「でも」
「至って調子いいよ」
久美子は少し考え込んだ。
「それよか、なんか埃っぽくないか?」
「え?」
「気のせいかな?」
「今日、目につくところはモップしたの。明日、念入りに掃除機かけるから」
「拭き掃除も?」
刹那、久美子の顔がキッと怒りに歪んだ。
「わかってる! あなたもちょっとは手伝ってよ! 共働きなんだからさぁ!」
「ん……仕方ないなぁ」
そう言いつつ、ゲホゲホと再び咽た。
「最近、気になるんだけど、その咳。風邪じゃなくて喉が痛くないなら、なんで咽るの?」
「知らないよ」
「結核なんじゃない? 慢性的なヤツ。いろいろ種類があるみたいだし」
「会社の健康診断では引っかからなかったけどなぁ。レントゲン、綺麗だって。俺、タバコも吸わないし」
「……そうなのよね。でもさぁ、気になるから行ってきたら? よくCMなんかもしてるし。ねぇ」
保は嫌そうな顔をしたが、一理あると思ったのか、了承した。
翌日、入念に掃除機を掛け、拭き掃除をする。貴重な休日なのに、近頃は掃除に費やすばかりだ。久美子は言いようのない不満を感じた。イライラするが、相手は埃なので仕方がない。
やがて保が帰ってきた。
「どうだった?」
「なにもなかった。やっぱり綺麗だって」
「えーー」
「なんだよ、その、えー、は。聴診器で聞いたら、結核かどうか、すぐにわかるらしいよ」
「…………」
「ペットとか飼っていませんか? って聞かれたから、飼ってないって答えたら、ハウスダストかもしれないって。こまめに掃除して様子を見てくださいって言われたよ。お前が掃除サボってるからじゃないの?」
その言葉に、久美子の中で積もっていた苛立ちがプチンと弾けた。
「仕方ないじゃない! 平日は夕飯作るのがやっとなんだから! その合間に洗濯とかのこととか、やることいっぱいあるのよ!」
「……そうだなぁ。でもさ、医者が言うんだから、まぁ、気をつけてよ」
久美子は苛立ちを抑えきれず、ダイニングから飛び出してしまった。
「と、言うものの、確かに埃がすごいよなぁ」
「ママ、午前中、ずっと掃除してたよ」
「……そっかぁ。それでもう舞ってるのかぁ。この家、風の通りが悪いのかなぁ」
保はのんびりとした声で、そう呟いたのだった。
久美子は埃を見るたびにイライラした。
ハンド・クリーナーを複数買い込み、各部屋に置くことにした。これなら目につけば、すぐに掃除ができる。ハンド・モップも買い込んだ。とにかく、舞う埃が憎く思えた。
だが、不思議なことに、取っても取っても埃は減らなかった。いや、そればかりか、増えているように思う。いたちごっこのような埃との戦いに、次第に久美子は埃に関係なく、常にイライラするようになった。
「やっぱり、埃っぽいなぁ」
思わず出た保の言葉にカッとなり、久美子は大声で怒鳴った。
「どれだけ拭いてると思ってんのよ! あんたはなにもしないくせに!」
「そんなに怒鳴らなくても……俺は事実を言ってるだけだろ?」
「うるさいわよ! わかった! 私、仕事を辞めるわ。それで綺麗にするから。あんたの少ない稼ぎだけで生活するから、来月から小遣い半分だからね!」
「えぇ!」
保がクレームをつけるのも聞かず、久美子は夜中にもかかわらず、掃除機をかけ始めた。
「おい、こんな時間に! 近所迷惑だろ」
「関係ないわよ!」
保は人が変わったような久美子を茫然と眺めた。
「埃?」
「あぁ」
会社の同僚に経緯を話す。半分冗談を込めていた保だったが、同僚の顔が見る見る険しくなっていった。
「それ、笑えない」
「え?」
「俺んとこも、似たようなことになってる。つか、ノイローゼ気味で、こっちが参ってるよ」
「どういうことだ?」
「ハンド・モップを手放さないんだ。埃を見ると、取り憑かれたように掃除を始める。あれだけ教育ママだったのに、子どもにほとんど関心を示さなくなった」
それを聞いていたのか、斜め前の同僚が口を挟んできた。
「マジ? こっちもそうだよ。親の敵のように掃除してる。でもって泣くんだ。やってもやっても綺麗にならないって」
保は唖然としつつ、彼らの話を聞いていた。
そんな保をさらに驚かせたのは、帰宅してからだった。久美子が人の顔を見るなり、いきなり「仕事、辞めてきたから!」と叫んだのだ。
「え? ホントに辞めたのかよ!?」
「辞めるって言ったでしょ! あんたの小遣い、半分だからね!」
そう怒鳴ると、ダイニングに戻り、今度は春奈に向かって怒鳴っている。保は唖然としつつ、近頃久美子が笑っている姿を見ていないことに思い至った。絶えずイライラし、口を開けば怒鳴る。食事も簡素でメニューが減り、洗濯の回数も減った。手を抜いているのかと思えばそうではなく、ただひたすらハンド・モップを手に、埃を拭き取っている。
保は会社の同僚達の話を思い出しつつ、空恐ろしいものを見るかのように、掃除に必死な久美子を眺めたのだった。
それから久美子の様子も、会社での会話も加速度的にひどくなっていった。妻の調子が悪いと休む者が増え始めた。それが肉体的な病気ではなく、精神的に参っているというので話のタチは悪かった。
保もその一人だ。久美子は絶えず苛立ち、すぐにキレてモノに当たった。次第に目が離せなくなっていった。埃の塊が風に舞うと、もう手がつけられなかった。病院で軽い睡眠薬や安定剤を処方してもらい、指示に従って服用させて寝かせることが増えてきた。
この日もそうだ。起きぬけ早々からヒステリックな声を上げたので、安定剤を飲ませて寝かしつけた。保も自身の疲れを覚え始めていた。
三時を過ぎた頃、春奈からメールが届いた。
――パパ、早く帰ってきて!
その文字に愕然とし、上司に断って急いで家に戻ってきた。
鍵を開け、中に入る。春奈の泣き声が聞こえてきた。靴を脱いで廊下に上がった瞬間、両側から埃が舞った。
保は一瞬その埃に視線を取られたが、慌てて短い廊下を走り、ダイニングに飛び込んで愕然とした。
「な……な」
部屋中が埃に埋まっていた。膝上ぐらいまで埃が積もっていた。
保はその埃の中から覗く二本の足と、その足の傍で泣いている娘の姿を、ただ無言で見つめた。
そんな保の目の前で、埃がはらはらと舞い、ゆっくりと積もっていく。
どこから現れるのか、なぜそんなに舞うのか、わからない。
ただ、そろりと舞い落ちている。