夏23:わたしの嫌いな人
薄暗い空模様のもとでランプの灯りのように光る体育館の出入り口から、西吾妻高のバレー部のロゴが入ったライトイエローのポロシャツを着た女子生徒たちがわらわらと現れる。
部員たちは全員一年生のようだった。上級生が先に引き上げて、残された年少者である彼女たちがようやく練習後の片付けを終えたところなのだろう。
わたしは息をすうと小さく吸うと、バレー部員たちが出てくる体育館のほうに足を向けてまっすぐ進んでいった。
部活終わりのバレー部員たちはみんな首にスポーツタオルをかけて汗が大量に流し、全身を湯気を纏うほど身体を火照らせたけれど、視界にわたしの姿が入った瞬間、彼女たちは一斉に凍りついたようにその場に固まった。
本来目にしてはいけないものを見てしまったような、同様と気まずさが彼女たちの揺れる瞳に表れているようだった。
わたしは立ち尽くす彼女たちのなかから胡桃の姿を探した。体育館から出てくる十数人の部員たちのうちの後方に、別の部員と並んで胡桃はそこにいた。
わたしが胡桃に視線を向けたのに気がついたのか、胡桃の隣にいる部員は警戒するような面持ちを浮かべると、胡桃の身体の前に片腕を伸ばしてわたしと胡桃のあいだの空間を阻もうとした。
「いいよ、そんなピリピリしなくて」
胡桃が困ったような笑みを浮かべると、隣にいる女子の腕を下げた。
「あたしになんか用かな?」
周囲からの注目を浴びながら自分を見つめるわたしに、胡桃が見つめ返した。
「ふたりきりで話したいの。いいかな」
胡桃に見抜かれるか判らないくらいの僅かな震えを声に滲ませながら、わたしは彼女に問いかけた。
「職員室からわざわざここの鍵借りてきたの?」
「胡桃を待ってるあいだ他にすることもなかったから」
体育館を離れたあと、図書室まで来たわたしが扉にかかっていた鍵を開けると、続いて一緒に来た胡桃も部屋のなかに足を踏み入れた。
図書室は夏休み中も週末とお盆以外は毎日開いていて、今日も学校見学に来た中学生たちに解放されていたみたいだけど、すでに閉館時間になった部屋のなかには誰の姿もなかった。鍵がかかっていたのだから当然の話なのだけれど。
扉の近くにあるスイッチに触れて部屋の明かりを点けると、そのすぐそばにエアコンの操作盤があるのに気がついた。日が沈んできたとはいえ、夏の熱気はまだわたしの身体に纏わりついて肌を蝕んでくる。
「冷房、点ける?」
わたしが訊くと胡桃は閲覧用のテーブルの椅子に腰掛けて、肩にかけていたスポーツバッグを机の上に置いていた。
「いいでしょ。効きはじめるころにはもう話、終わってるだろうし」
そう言って胡桃は伸びをしてあたりを見まわした。いつもは眼鏡をかけている胡桃だけど、さっきまで部活をしていたからか今は外して代わりにコンタクトをしているらしい。
「あたし、ここの図書室に来るの、入学して最初のオリエンテーション以来かも。中学の時は受験勉強のために毎日通ってたのに」
そこまで口にすると、胡桃は急にはっとなってわたしに弁解しはじめる。
「いや! 違うよ! 勉強サボってるんじゃなくて、高校に入ってまた部活が始まると、なかなかホームルームの後に来る時間が取れないってだけで──」
「判ってるよ。でなきゃ文理コースを選択して特別講習を受けたりしないから」
わたしがそう言うと、胡桃は座ったままもじもじと縮こまって、照れ笑いを浮かべた。
「受験の時に凛音や渚に教えてもらいながら本腰入れて勉強して、そのおかげであたしの成績、まあまあ良くなったじゃん? そのおかげで家族から勉強のことで初めて褒められて、けっこう気分良かったんだよね。だから受験で受かってからも、もうちょっと頑張って続けてみようかなって思って」
「央士くんにも聞かせたいね、その話。央士くんも受験の時はちゃんと勉強してたみたいなのに、今じゃからっきしなんだから」
こうやって久々に胡桃と面と向き合って、案外普通に話せるもんだな、と思った。
でも思い返してみれば、文化祭で渚に会った時もそうだった気がする。それに気がついた途端、ここ最近胡桃のことを避け続けてきた自分のことが馬鹿らしく思えてきた。
「央士くん。央士くん、か」
胡桃がわたしの出した名前を復唱する。
「聞いたよ。なんでも部、辞めるんだってね。なんで辞めるの? 央士くんや夏希とケンカでもした?」
「なんでって、そんなの決まってるじゃない」
わたしは椅子に掛けずにその場に立ったまま、胡桃から顔を背ける。
「わたしが文化祭で問題が起こしたせいで部の評判が悪くなって、これ以上なっちゃんや央士くんに、迷惑をかけられないからだよ」
「ふうん。問題、ねえ」
胡桃は机の上に肘を乗せると、頬杖をついた。
「改めて訊くけどさ、凛音が文化祭で何したっての? 大犯罪でもやらかした?」
「何って……」
当事者だったのにどこか気の抜けた態度で尋ねてくる胡桃に、わたしは両腕から下がっている拳を軽く握って、苛立ちを堪えようとした。
「わたしが胡桃と渚を振り回して、文化祭で大勢の人がいる前で騒ぎを起こさせたんだよ。渚と胡桃を近づけさせたくなかったから。自分の私利私欲のために。そのせいであんなことになったのに!」
わたしの口調に思わず熱がこもる。だけど、それに対する胡桃の反応は冷淡なものだった。
「……うーん、まあ、百パー間違ってるってわけじゃないけど、でもあれって凛音だけのせいじゃなくない?」
胡桃は下ろした両足をふらふらと揺すりながら、天井を仰ぎ見る。
「そりゃね、凛音は文化祭に渚が来たことをあたしに隠そうとしてたけどさ。でも、本当にそれだけじゃない?」
天井に目をやっていた胡桃は視線を下すと、わたしの顔に目を向けた。
「あの時あたしが渚をぶん殴ったのは、単にあたしがムカついたからだよ」
胡桃はわたしの目をまっすぐ見つめながら言った。
「凛音がいる学校のなかで、凛音をフッた渚が知らない女子と仲良くしながら平気でうろついてるのを見て、まあ、凛音のために恋を諦めようとしてたあたしはなんだったんだよとか、あたしはこんなヤツのことが好きだったのかよとか、そういうのがバーっと出て……いつの間にかあんな感じになってたというワケで」
そう言うと、胡桃は「ははっ」と自嘲するように小さく笑った。
「だから別にあれは凛音のせいでもなんでもないんだよね。だからなんで、全部凛音が悪い、凛音のせいみたいになってるのか、イマイチよく判らなくてさ。もしかして、凛音が勝手に全部自分のせいだって思い込んでいるだけじゃない?」
「……それは」
わたしが答えに窮すると、凛音は「やっぱり」と短く言った。
「言っちゃったから今さら隠しようがないけど……あたしも好きだったよ。渚のこと。生徒会で一緒にいたからってのもあるし、勉強を教えてくれてたのもさ。近くにこんないい感じの男子がいたら好きになっちゃうもんだよね、やっぱし」
胡桃は机に向かって軽く俯くと「でもさ」と言葉を続けた。
「なんとなくノリで好きになってたあたしにとって、凛音みたいに渚とずっと一緒にいて、ずっと好きだった子を見てると、自分なんか出しゃばっちゃダメだよなって思うわけだよ」
静かな図書室で、胡桃の声だけが聞こえる。胡桃の話す言葉が湿気を多く含んだ空気とわたしの胸のなかに淡々と溶け込んでいくようだった。
「だったらせめてふたりがうまくいくように応援して、自分が内心どう思ってるかなんて一生隠し通すのがいいんだって、そうした。だけど今なら判る。こんなの、完全に大間違いだった」
胡桃は顔を上げると、わたしの顔を見た。
「ごめん。あたしも渚のことが好きだって、ずっと黙ってて」
そう言ってわたしを見る胡桃は、痛々しいくらいにどうしようにもなく哀しい顔をしていた。
「結局あたしは白状することから逃げてたんだよ。凛音に嫌われるって、裏切り者だって思われたくなくて。何より自分が友だちの恋を邪魔するような嫌なヤツだって知られなくなくて──」
「やめてよっ」
胡桃の言葉を遮って、わたしは大きな声をあげた。
「そんなこと言ったら、わたしのほうがずっと胡桃のこと信じてなかった。わたしの恋を応援するふりをしながら、本当はそんなこと思ってもいない、むしろ破綻すればいいなんて思ってるって疑ってた! だからわたしが失恋した時も、慰めるふりして本当は喜んでるんだって! そんな自分の嫌なところ醜いところがあの文化祭の日で、よりにもよって渚の前で全部暴かれて……もう……全部……何もかも……」
肚の底から次々と言葉が溢れ出す。だけどそれが尽きると、わたしはもう掠れた息を吐くことしかできなくなっていた。
「何もかも、何?」
口を噤んだわたしに胡桃が問いかける。
「……判らない。でも」
胸のなかでかき混ぜられたあらゆる感情から何かを掬い取って言葉にしようとする。そして、見つけたのが次の言葉だった。
「わたしなんか、大嫌い」
そう口にした途端、全身から力が抜ける感覚がした。そして膝から立ち崩れると、わたしはそのままその場にうずくまった。
抱えた腕の中に顔を埋めると、目の前は真っ暗になっていた。そしてわたし自身の気分も暗闇の中に突き落とされて、何もない空間で宙に浮いているようだった。
しばらくその暗闇の光景が続いた。すると、近くで椅子を引きずり、こちらにこつこつと足音が近づくのが聞こえた。
「こっち見てよ」
わたしのすぐ近くで胡桃の声が聞こえた。
わたしはその言葉に促されて、腕のなかから顔をあげた。するとすぐそこには胡桃の顔があった。椅子から降りて、胡桃は腰を落としてわたしと同じ位置に目線を合わせていた。
「凛音ってさあ、けっこう悲劇に酔いやすいタイプだよね」
「……え」
胡桃から発せられた率直な物言いに、わたしは面食らった。
「だってそうじゃん。何もかも全部自分のせいだって言い張ってさあ。アナ雪のエルサかよ」
「え、エルサ? どういう意味?」
戸惑うあたしに、胡桃は「うーん」と唸った。
「ほら、アレよ。妹のアナを傷つけたくないからって、あれこれ悩んで一人相撲してさ。で、とうとうそれが爆発して雪山の中で引きこもり女王に。今の凛音見てると、それ思い出しちゃって」
胡桃の言葉に、わたしは呆然としているしかなかった。急に映画の登場人物に自分をなぞなえられたら、誰だって同じ反応をするしかないと思う。
そんなわたしを見ながら、胡桃は小さく微笑んだ。
「別にさ。凛音って、凛音が思ってるほど嫌なヤツじゃないと思うよ」
ぼんやりと自分を見るわたしの目を、胡桃は見つめ返しながら言った。
「恋のライバルがいたら警戒して、出し抜きたいって思う気持ちなんて、あって当たり前じゃん。好きな人のことが本当にどうしようにもなく好きなら、当然ね。だから凛音がそんなに落ち込んだり、自分のことを嫌いにならなくたっていいんだよ」
すると胡桃は深く息を吐いて、しゃがんだまま図書室の窓の外に目を向けた。空は赤く灼けて、その明かりが胡桃のそばかすが浮かぶ顔を照らしていた。
「いきなりだけどさ。今日教室で授業受けてた時、教室の外で夏希と中学校の子が央士くん取り合ってわちゃわちゃしてたじゃん。覚えてる?」
「……覚えてるけど、急になんの話?」
「あたしたちもさ、ああいう風になれれば良かったのかな。夏希とあの子みたいに、お互いライバルとして渚のこと取り合って戦う恋ってのはさ」
そう話す胡桃の言葉を聞いて、わたしは胡桃の言った通りにその情景を思い浮かべた。
自分こそが恋人に相応しいと渚の腕を抱き寄せる自分に、そしてそれに対抗して腕を引き寄せる胡桃。そして自分に恋するふたりの間に挟まって、渚の感情は揺れて──
「いや、どうかな、それは」
奇妙な思考を止めると、わたしは肩をすくめた。
「結局わたし、脈なしだったし。鬱陶しがられてふたりで一緒に仲良く振られるだけだったと思うよ」
そう言うと、わたしは思わずにやりと笑みを漏らした。
「えー、そんなの判らないじゃん」
わたしの意見に対して胡桃が不満を漏らした。
「凛音がダメでも、あたしならギリ脈あったって可能性あるかもじゃん!」
「ないない。わたしに無いなら、全人類に無いって」
「フラれた人がよくそんな自信もって言えるね!? なんなら文化祭で渚に見当違いのこと散々言って、本人に真っ向から否定されたのに!?」
「今はその話、関係ないでしょう! わたしが言ってるのは、わたしは渚とずっと一緒にいたから渚はそういう子だって思ってるって話で……」
「いーや大アリだね。だいたいその思い込みのせいでこんなことになったんじゃ……」
わたしと胡桃の言い争いが延々と続いていく。だけど不思議と、嫌な気持ちはしなかった。
本当はもっと早くこうするべきだったかもしれない。なっちゃんと港さんみたいにとはいわないけど、恋のライバルとして胡桃とこうやってやり合ってお互いの気持ちを確かめ合って、正々堂々と勝負に挑むべきだったんだろう。
今となってはそれはもう叶わない。だけど、まだ失ってないものはまだある。
少なくともいまわたしと口喧嘩してる胡桃は、わたしが好きになった人を好きになるようなセンスのいい、失い難い友だちなんだから……




