春5:I.G.Y.
豊田市駅から歩いて五分か十分くらいの場所に、豊田市産業文化センターという建物がある。
名前からなんとなく想像はつくだろうけど、この建物には地域の行事とか講演会で使うようなホールがあったり、市の青少年センターのなどの事務所が入っている。
そしてこの建物でいちばん大きな施設が”とよた科学体験館”だ。
この科学館には触って遊べる装置で科学の原理を勉強できるコーナーに、週末にはサイエンスショーが行われるステージ、そして一番の目玉であるプラネタリウムがある。
実を言うと、おれが最後にこの科学館に来たのは小学校の理科の時間の課外授業で、つい最近までそんな場所があることをすっかり忘れてしまっていた。昔はよく行っていた気がするんだけど、中学校に上がってからは縁がなくなってしまっていた。
この場所のことを思い出すきっかけになったのは、凛音さんとデートでどこに行くかラインでやりとりしていたときに、凛音さんから好きだった人とよく行っていた場所だと教えてもらったからだった。
そういえばそんな場所あったな。久しぶりに行ってみようか、ということでおれたちはカフェでティータイムを過ごしたあと、科学体験館でプラネタリウムを観に行くことにした。
「懐かしいなあ。こんな感じのところだったなあ」
産業文化センターに入って、さらにその中にある科学体験館の入り口を通ると、そこには一階から二階まで吹き抜けになっている輪の形をした通路があった。
入り口の右側には工作体験ができるワークショップのコーナーが、左側には地下一階の展示コーナーと地下二階のステージに繋がるらせん状のスロープがあって、そして正面にある二階につながる階段の先には、プラネタリウムの入り口がある。
「すごいな、本当に高校生までプラネタリウムのチケット代、無料なんだ」
なんと、豊田市在住の高校生までと七十歳以上の人はプラネタリウムを無料で観ることができるのだ。これは凛音さんに教えてもらえるまで本当に知らなかった。
入り口の受付にいる係員さんに学校の学生証を出すと、おれと凛音さんはそのままプラネタリウムのチケットを二枚もらうことができた。
「市民プールをタダで入れさせてくれるのは知ってたけど、プラネタリウムもタダで見れるんだなあ」
「中学生までは美術館とか博物館の入館料も無料だったんだよ。さすが、世界一車を売っている会社がある市の税収は違うよね」
へえ、全然行ったことないから知らなかった。そりゃ損したなあ。
「凛音さんはよく美術館とか博物館とか行ってたの?」
「彼が好きだったからね」
どうやら好きな人の影響らしい。美術館とか博物館が好きだなんて、勉強が好きで、頭のいい人だったのかな。そりゃそうか、高専に進学するくらいだし。
スターバックスで凛音さんから聞いた話で、凛音さんが好きだった人のことをどのくらい知れたのかというと、正直、どんな人だったのかあまり掴めないでいた。
女手一つで育てられたこと、建築家を夢見ていたこと、凛音さんとは家族ぐるみの付き合いをしていたこと、凛音さんと中学までずっと一緒だったこと。
そして結局、ずっと一緒だった凛音さんと離れ離れになってしまったこと。これが凛音さんが話してくれたその人についての全てだ。
「彼と一緒にいると、いままで知らなかったことが知れたような気がするんだ。普段通らない道を歩いて近道を発見したり、森の中を探検して誰もその存在を知らなかった洞窟を見つけたようにね」
プラネタリウムが始まるまでの間、展示スペースを見て回ったりしながら、おれは凛音さんから思い出話を聞いていた。
いま見ている展示は鏡の前に置かれた自分の手で回せる円盤だ。いくつも穴の空いている円盤の中央にある芯に、それぞれがちょっとだけ違う絵がたくさん描かれているディスクをはめ込んで回転させて、円盤の穴から鏡に映る回転するディスクを見ると、まるでディスクに描かれた絵が動いているように見えるという仕掛けだ。
「これがアニメが動いて見える理由。ほんの少しだけ違う絵を高速で次々と見せることで脳が錯覚して一枚一枚の絵としてじゃなくって、まるで絵自体が動いているように見える」
動いている絵を見て面白がっているおれに、凛音さんがその原理を教えてくれた。
「それもその人と一緒にいて知ったこと?」
「そう」
おれが凛音さんのほうを見ると、凛音さんは少し寂しそうな顔をしていた。
展示コーナーを見終わって一階に戻ると、ワークショップのコーナーでは小学生やこども園に通うくらいの子が親と一緒になって椅子の前に座って工作をしていた。牛乳パックを使って竹とんぼを作っているらしい。
「竹とんぼか。おれ、昔、竹とんぼでちょっと痛い目にあってさ」
おれは竹とんぼを作る子供たちを見ながら苦笑いをした。
「痛いって、どんな目にあったの?」
「小学校の時、本当の竹で作った竹とんぼを飛ばして遊んでたんだよ。そしたら顔にうっかり羽が当たって、頬の辺りがザクっとやられちゃってさ」
「うわあ、それは本当に痛い目にあったね。でも言葉通り目に”当たって"たら……」
「うっ、確かに。マジでヤバいことになってたかも」
おれは思わずどきっとして背筋が凍らせた。
「それを考えると牛乳パックで作るのはいいよな。竹を飛ばすより危なくないだろうしさ」
おれは牛乳パックをはさみで切って作る子どもたちの姿を眺めながら言った。
そして出来上がった子は竹とんぼを飛ばしたり、一緒にいる親に誇らしそうに見せつけていて、親も自分で少し手伝いながらも、竹とんぼを完成させた子どもに小さく拍手をしていた。
「わたしの昔の将来の夢、言っていい?」
プラネタリウムにつながる階段で、開演時間を待ちながら凛音さんが言った。
「大好きな人のお嫁さん。毎日旦那さんが仕事から帰ってくるのを待ちながら晩ごはんを作って、週末は子どもの時みたいに一緒にピクニックやプラネタリウムに行くの。今度は自分の子どもを連れてね」
凛音さんはそう言いながら小さく笑った。突然そんなことを言い出したのは、竹とんぼを楽しそうに作る親子たちを大勢見たからだろうか。
「改めて考えると、ものすごく時代に逆行した人生観だよね! ……でも、それがわたしの想像する最高に幸せな未来だった。そしてただ待ってれば、そんな未来が必ずやってくるって信じてた。ほんの少し前までは、ね」
凛音さんは天井から吊り下げられた、火星の写真が写った垂れ幕を見ながら言った。
“ほんの少し前”まではうまくいっていたはずのふたりに、いったい何があったっていうんだろう? おれはずっとそのことが気になってしかたなかった。
でも凛音さんに話さなくていいって言ったのはおれ自身だ。結局、このことは凛音さんの胸にしまっておくべきなんだろうなとおれは思った。
開場時間になってプラネタリウムに入ると、おれたちは後ろのほうの座席に座った。凛音さんがプラネタリウムを見るときは、だいたいこのあたりの席を選ぶらしい。
天井のスクリーンにプラネタリウム内の注意事項や科学館のイベントの案内の映像が十分くらい繰り返し流れると、ショーの始まる時間になった。
今日おれたちが選んだプログラムは、まず前半に二十分くらい科学館の職員さんによる春の星座の解説のコーナーがあったあと、”惑星”というクラシックの曲を流しながら太陽系の惑星について俳優さんが解説する映像が流れるというものだったらしい。
……なんで”らしい”というコトバを使ったかというと、最初の星座の解説のコーナーがはじまってから五分くらいで思いっきし爆睡してしまったからだ。
「終わったよ、黛くん」
明るくなったプラネタリウムで隣の席の凛音さんに起こされた瞬間、おれは眠気が一気に吹き飛んだのを感じた。
「……うわあっ! 完全に寝に入ってたっ」
おれが思わず大声をあげると、周りにいた人々がいっせいにこっちを振り向いた。
「す、すみませんっ! うわあ……完璧にやらかした」
おれは気が抜けてぐてーっと席にもたれかかると、隣で凛音さんがくすくすと笑うのが聞こえた。
「いいよ、気にしないで。実を言うとわたしも、ちょっとうとうとしてたから」
凛音さんも? 意外だな。プラネタリウムが好きだから、ずっと釘付けになって見ているものだと思っていたけど。
「こんなこと初めて。ぐっすり眠ってる黛くんを見て、眠気を誘われちゃったからかな?」
凛音さんが首をかしげながら言った。うーん、おれのせいか。
「だとすると悪いことしちゃったな。おれが寝ちゃったせいで凛音さんも寝ちゃって……」
「いいのいいの、気にしないで。最近、ちょっと睡眠不足ぎみだったし」
「じゃあ、余計に今夜は寝れなくなっちゃうかもな。夜に寝るぶんここで寝ちゃったから」
「そうだね、明日は学校があるのに!」
凛音さんがそう言うと、おれたちは思わず吹き出して、一緒に笑い声をあげた。
「凛音さんの家まで送っていくよ」
科学館を出て、駅のバス乗り場に向かう道中でおれは凛音さんに言った。
「うちまでって、黛くんもバスに乗っていくの? いいよ、バス代がもったいないし」
「いいって。これから暗くなるし、それにおれは帰りは歩きでいいから」
「歩きって、徒歩で帰るってこと? 黛くん、日暮中の学区だよね。そこまで歩いて帰るの、しんどくないの?」
「大丈夫。中学の時に夏休みに夏希と雅臣と一緒に二四八号線を歩いて岡崎城まで行ったことあるんだ。それに比べたら大したことないよ」
「ここから岡崎まで!? それ、ちゃんと最後まで行けたの?」
「いやあ、流石に着く頃には全員ヘトヘトでさ。帰りは愛環に乗って帰ったよ」
「そりゃあそうだよ。だって、十何キロも歩いて行ったんだから」
「それで電車で帰ったわけだけど、全員寝てたせいで気がついたら瀬戸市まで来ちゃってさ」
駅のデッキの下で来てそこまで話したところで、おれは隣で一緒に歩いている凛音さんのほうを向いた。
すると、そこにいるはずの凛音さんの姿はなかった。
「……凛音さん?」
おれは思わず後ろを振り向くと、ここから五メートルくらい離れたところに凛音さんが足を止めてその場に立っているのが見えた。
「凛音さん、どうしたの? プラネタリウムに忘れ物でもあった?」
おれは凛音さんのもとに駆け寄ると、凛音さんがじっと前を見ていることに気がついた。そしておれは凛音さんの視線が向いているのと同じところに目をやった。
そこには駅に向かう人や、駅から出てきた人、T-FACEに出入りする人たちが大勢いて、道路沿いにあるバスの停留所にもたくさんの人が立ってバスが来るのを待っていた。
さらにそのなかから凛音さんの視線をたどると、そこには、おれたちと同じくらいの年齢の、背が低くて細身で髪の長い少年がいた。少年は携帯電話の画面を眺めながら、バスの停留所の列に並んでいた。
「……渚」
凛音さんがぼつりと声を漏らした。
渚……いま凛音さんの目線の先にいる人物が誰なのか、おれは直感だけですぐに理解できた気がした。
あの人が、凛音さんの好きだった人だ。
その時、いきなり”渚”のいるほうがから女の人の声が聞こえた。
「不知火くーん!」
声のするほうを見ると、高校生っぽい感じのお団子頭の女子が手を振りながら”渚”に駆け寄るのが見えた。
”渚”は女の子の声に気がつくと、携帯の画面から目を離して、自分のところに来た女子と楽しそうに話を始めた。
おれは隣にいる凛音さんを見た。
「渚……なんで」
凛音さんは”渚”たちのことをじっと見つめながら、目の光を揺らめかせていた。
「き、きっと人違いだよ、凛音さん」
おれは凛音さんを落ち着かせるために何か言おうとしたけれど、我ながらなんて薄っぺらい説得なんだろうと言いながら思った。
改めておれは”渚”たちのほうを見た。
すると女子と話していたはずの”渚”はおれたち……というより凛音さんを、ぽかんと口を小さく開けて呆然としながら見つめていた。
「不知火くん? どうしたの?」
“渚”と一緒にいる女の子が、さっきのおれみたいに隣にいる人に訊いた。
「……っ!」
「凛音さん?」
おれが凛音さんに声をかけた次の瞬間、彼女はその場から駆け出してデッキの上へと階段で上がって行ってしまった。
「凛音さんっ」
おれはその場からいなくなってしまった凛音さんをすぐさま追いかけようとした。
しかし、それと同時に誰かがおれの手首をぐっと掴んだ。手首を掴まれて、おれは反射的にそんなことをしたヤツの顔を見た。
そこには、おれより何十センチも背の低い”渚”の姿があった。
”渚”は両手でおれの手首を掴んで、おれを引き留めようとしていた。
「あの! 訊いてもいいですかっ」
“渚”は少し高い掠れた声で、おれに向かって声をあげた。
「あなたは、凛音の”恋人”ですか?」