春3:理由(わけ)
金曜日。うとうとしながら授業を受けていたらいつの間にか放課後になっていた。お昼に弁当を食べた記憶しかない。まあ、まだ授業でやってるのは中学の振り返りとかだし、何とかなるだろ。たぶん。
昨晩、おれはラインで凛音さんと今日の放課後に会う約束をした。
凛音さんの友だちの胡桃さんは今日も体験入部でバレー部に行っている。胡桃さん抜きで話をするならこの時間が一番だ。凛音さんから直接、自分がどうしたいのか訊かなきゃいけない。
帰りの時間のホームルームが終わって少ししてから、おれは凛音さんのいる1年6組に夏希と一緒に向かった。
最初はおれひとりで凛音さんに会いに行くつもりで、夏希には”なんでも部”の部員探しに行ってもらおうと思っていた。
だけど、女子がほぼ初対面のよく知らない男子と一対一で会うのはツラいんじゃないの? と夏希に言われて、それもそうかと考え直して一緒に行くことにした。でもどうしよう、部員探し……
1年6組の教室の扉を開けると、中には窓際の席でひとり座って、ぼんやりと外の景色を眺めていた凛音さんがいた。
教室にいたのは凛音さんだけで、おれと夏希が教室に来たのに気がつくと、凛音さんはくるっと窓からこっちに顔を向けて、椅子から立ち上がった。
「お疲れ様」
おれは教室の扉のほうを向いた凛音さんに声をかけた。
「……お疲れ様」
おれたちに軽く頭を下げる凛音さんの姿を、おれはじっと見た。
おれが合格発表の日に見たあの涙を流していた女子は、やっぱり凛音さんで間違いなかった。
長く伸ばした髪に、短く切り揃えられた前髪。太い眉とその下の鋭いまなざし。ひと月前に見た時の記憶と全く変わりない。
違うところがあるとはいえば今は涙を流していないってところだけど、でも見た感じ、今の凛音さんが元気そうに見えるかといえば、まったくそんなことはなさそうだった。
むしろ、思わず目を奪われてしまったあの時の凛音さんのことを思い出すと、今の凛音さんは弱々しくて、どこかに消えてしまいような……そんな感じがした。
「お互い立って話すのも何だし、座って話そうか。ね、央士」
夏希が凛音さんにそう言うと、おれに目配せをした。
凛音さんが席に座り直すと、おれも凛音さんの席の近くにある椅子に座って、隣で別の椅子に座った夏希と一緒に凛音さんと向き合った。
「じゃ、早速本題に入ろっか」
夏希がおれたちを引っ張るように話を始めた。
「まず最初にだけど、凛音サンはアタシや央士のコトはどれくらい知ってる? ”なんでも部”のこととか」
夏希がそう訊くと、凛音さんは小さく頷いた。
「ちょっとだけ」
「うん。そして凛音サンと同じく、アタシらのことを知ってた胡桃さんが央士に凛音サンとデートするように頼んだ。ここまでは合ってるよね?」
夏希の言葉に、凛音さんはもう一度こくりと頷いた。
「わたしからも、ふたりにひとつ訊いていいかな」
凛音さんは軽く片手を挙げて言った。
「アタシたちに? いいよ、何?」
「わたしのコトはどれくらい知ってるの?」
凛音さんにそう言われると、おれと夏希はお互いに顔を見合わせた。
「ふんわーりと、大ざっぱには」
夏希が言った。
「胡桃さんから夏希が聞いたコトで全部かな」
「そう」
おれたちが答えると、凛音さんはため息をついた。
「デートの件だけれど、あの話は無かったコトにしてもらえないかな。わざわざ付き合ってもらって、申し訳ないのだけど」
思っていた通り、やっぱり凛音さんは今回のデートの話には乗り気じゃなかったみたいだ。おれと夏希は顔を合わせると、一緒に頷いた。
「判った。アタシらもそれを確認するためにここに来たようなもんだし、気にしないで」
「ごめんなさい。わたしの個人的な問題に見ず知らずのあなたたちを巻き込んで」
「そんな、謝らなくていいのに」
凛音さんが申し訳なさそうな顔をしたので、おれは困ってそう口にした。
「今度のコトで君は何も悪いことなんかしてないだろ。むしろ君だって、ある意味巻き込まれたようなもんだし……」
「そうそう、誰が悪いかって言ったら、アナタのお友だちのほうっスよ」
おれの隣で、夏希が胡桃さんのことを挙げた。
「ま、ハッキリ言って、大きなお世話だよね。頼んでもいないのにこうやって話を進められちゃってさ」
「よせよ、夏希」
おれは胡桃さんのコトを悪く言おうとする夏希を止めようとした。
「凛音さんの友だちだぞ」
「大丈夫、どうせ凛音さんも同じこと思ってるって。ヒトリで失恋の傷に向き合ってたかったのに大ゲサに盛り上がっちゃってさ。ホント、余計なおせっかいっていうか──」
「胡桃のことを悪く言わないでっ」
夏希が喋っていたところで、凛音さんは突然大きな声をあげた。
凛音さんの声が教室の床や壁に響いたかと思うと、次の瞬間には何の音もしなくなった。
その静かさにたじろいて、おれは何も声が出せなくなってしまった。そしてそれは夏希も同じみたいだった。春の夕焼けの日差しが差し込む部屋に、冬のように冷たい空気が流れた。
「本当はわたしのせいなの」
静けさがしばらく続いたあと、凛音さんはゆっくりと口を開いた。
「ふたりが知ってる通り、わたしが中学にいた最後の頃に色々あって、それから胡桃はずっとわたしのことを気にかけてた。実際のところ、わたしがそれを鬱陶しく感じなかったといえば嘘になるけど」
凛音さんは自分から、自分の心のうちを隠さずにおれたちに話した。
普通なら人に隠すようなコトをこうやって話すのは、おれたちにココロを許しているからって……理由じゃないのはなんとなく判る。
もっと、何かよくない理由があるとは感じてはいたけれど、それが何なのかハッキリと掴むことはできないまま、おれはただ、凛音さんの話す言葉を聞き続けていた。
「だからね、わたし、これ以上胡桃に心配されないために冗談とか軽口のつもりで言ったんだ。新しい出会いを見つけたら、立ち直れるかもって。本当は立ち直れるどころか、立ち直る気もないのに。そして胡桃はあなたたちを見つけた」
話し続ける凛音さんの肩と声が震え始めていた。それでも凛音さんは、自分の胸の内をおれたちに語り続けた。
「ひどいよね、わたしって。心配してくれるヒトがいるのに、心のなかじゃうるさい、ひとりにしてって思って追い払おうとしてた。胡桃はわたしのためにあなたたちを探し出したのに。こんなだからわたし、フラれたのかな」
そうおれたちに話す凛音さんの顔は笑っていた。
どうして凛音さんが笑っているのか、誰に向かって笑っているのか、おれには判らなかった。
それでも、そうやって自分の気持ちをゴマかして、隠しているコトだけはハッキリと判った。人に見せたくない、自分自身でも向き合いたくないものから目を逸らすように……
「ひとりにさせて。そしてもう、わたしのことなんて忘れて。胡桃にはわたしから全部言うから。わたしの嫌な話なんか聞かせてごめんなさい。さよなら」
そう言うと、凛音さんはおれたちに背を向けてしまった。そんな凛音さんの後ろ姿を見ると、肩が静かに震えているみたいだった。
「帰ろう、央士。あの子のためにもさ」
耳もとで夏希が言った。そして夏希はそのまま椅子から立ち上がると、教室の出入り口の扉に足を向けた。
だけどおれはその場から動かずに、目の前にいる、見ず知らずの同級生から離れることができずにいた。
「央士?」
夏希が扉のところから声をかけてきた。だけどおれは椅子から立つと、凛音さんのいる席に数歩歩み寄って膝を曲げてかがみ、彼女に声をかけた。
「それだけ落ち込んでるってことは、凛音さんはそれだけ本当に好きな人がいたってことなんだな」
おれは思っていたことを、そのまま声に出していった。
すると凛音さんは、ゆっくりとおれのほうを向いた。魂が抜けたみたいに呆然としていた凛音さんの顔には、さっきの作り笑いはなかった。
「凛音さん、君が中学の時君に何があってどんな思いをしたのか、詳しいことはおれには判らない。でもさ、好きだった人のことを思い出して、それで悲しい気持ちになるなんて、そんなの悲しすぎるよ。好きだった人との思い出が、全部ツラいことになっちゃうなんて」
おれはずっと昔に会った、あの女の子のことを今でも何度も思い出す。
もうあの時の記憶はかなりぼんやりしてきてしまっているけれど、それでもあの子と過ごしたあの短い時間はものすごく楽しくって、幸せだったコトだけはちゃんと覚えてる。
でももしそれが失恋の悲しさに全部塗りつぶされてしまったとしたら……楽しかったコトもそのせいで全部なくなってしまうなんて、おれはそんなの絶対にイヤだ。
「凛音さん、今君は悲しい気持ちのまま、ひとりでいたいのかもしれない。でもさ、やっぱり好きな人との思い出は楽しかったものにしなきゃ。今は無理でも、これから少しずつそう思えるようになるかもしれない。だからさ──」
おれはすうと息を吸って、今目の前にいる人に何を言うべきか、頭のなかでカタチにして、彼女に向かって言葉を出した。
「おれにその人のことを教えてよ。その人のどんなところが好きだったのか、どんな思い出があったか。悲しいコトもあったかもしれないけど、幸せだったコトも、おれに教えてほしい」
おれはじっと凛音さんの目を見た。
やっぱり、あの日涙を流していた人と同じ目だ。
「……なんで」
凛音さんがうつむくと、小さな声で言った。
「なんでわたしに構おうとするの? どうしてたいして知らないわたしのために」
「君のためじゃない。おれがそうしたいからってだけだよ。おれが君を放っておきたくないからってだけだ」
おれはまた涙を流し始めた凛音さんに、ちょっと得意げな顔をして言ってみせた。
「君の友だちみたいに、おれもお節介なやつなんだよ。だから"なんでも部"をやってるんだ」
「……なにそれ」
凛音さんはそう言ってくすっと笑うと椅子から立ち上がった。かがんでいたおれも立ち上がって凛音さんと目線を合わせた。
近くで向き合って、おれと凛音さんの背の高さが少し違うことに今になって気がついた。凛音さんはおれより十センチくらい背が低かった。
それでも今の凛音さんの目には、背の高いおれに負けないような力強さを感じた。
おれは凛音さんに向かって右手を差し出した。凛音さんはそれを見て少し戸惑ったみたいだけど、すぐにおれの考えていることを感じ取って、自分の右手を差し出しておれと握手した。
「君……黛くんって名前だったっけ」
「黛央士。出身中学は日暮中学」
「そうだったね。君、日暮中の有名人だから」
そう言って微笑む凛音さんの目に、もう涙はなかった。
「わたしは鵜野森凛音。出身中学は三ツ谷中」
「三ツ谷中? あの学校まで”なんでも部”のこと広がってたの? 恥ずかしいな」
おれは少し照れ臭くなって、頭をかいた。
「早速だけど、”なんでも部”の黛くん」
顔を赤くするおれに、凛音さんが少し目線を上げながら言った。
「わたしが好きだった人の話、聞きたい?」
「もちろん。あ、でも今日はもう遅くなっちゃったしな」
おれは教室の窓の外を見た。いつの間にか、日がけっこう沈んできている。あんまり女子を遅くまで引き留めるわけにはいかない。
「帰り道に話すにも、おれの家と三ツ谷中の学区じゃ帰り道ぜんぜん違うし、帰ってからラインとかで話す? それとも週明けにまた学校で会う? ……いや、待てよ」
「どうしたの? 黛くん」
おれはふと思いついたことを言うべきか、少し迷った。だけどこっちを見つめる凛音さんのまっすぐな目を見て、思い切って口にすることにした。
「今度の日曜、おれとデートしながら話を聞くってのはどうかな。凛音さん」
◆◆◆
放課後。文芸部での活動が終わり、自宅の自室で愛読書であるアガサ・クリスティの『ナイルに死す』を読み返していた蓮雅臣の携帯電話にメッセージの通知が入った。
「いい所だったのに」
雅臣は文庫本を閉じて勉強机の上に置くと、その隣にある携帯電話をとってメッセージの内容を確認した。クラスメイトの奥寺夏希からのものだった。
“央士、結局デート行くんだってさ”
夏希からの一文を見て、雅臣は苦笑すると携帯のキーボードのローマ字入力モードで素早くメッセージの返信を行った。
“おれは何となくこうなる気がしていた”
雅臣は続けて夏希にもう一件メッセージを送信した。
“おれのほうがプロとして上手だったな”
雅臣がそのメッセージを送ってすぐ”既読”のマークが付いたものの、夏希からそれ以上メッセージが送られることはなかった。




