春52:君のなかの僕-前編
「腹を割って話そう」
部屋の扉に立つ渚は、わたしだけを見つめてそう言った。
ここから外の廊下には渚の姿しか見えなかったけど、この学校の生徒でもなんでもない渚がひとりでここまで来れるわけがない。きっとすぐ近くにはなっちゃんや央士くんがいて、渚はふたりに案内されて来たんだろう。
「な、ぎさ」
ベンチに座る胡桃が、電波が途切れかけてる無線のスピーカーみたいにぷつぷつと短く音を発した。
「僕は何も知らない」
渚はわたしから胡桃に視線を移した。
「なぜ胡桃が僕に殴りかかったのか、なぜそこまで僕に憎悪を滾らせたのか。キミの口から明かされていない以上、僕には真相を知りようがない。でもなんとなく推測はできる。胡桃はきっと──」
胡桃が膝の上に置いてある両手を堅く握り、渚の顔から視線を逸らして目を瞑った。
渚に全てを見破られた。これまで隠し続けていた事実を暴かれるのを堪えるように、胡桃は身を縮こませた。
だけれど次に渚が発した言葉は、わたしたちにとって意外なものだった。
「胡桃は僕に怒ってる。理由は単純だ。凛音を拒絶して、そして凛音がいる場所にノコノコと無神経に別の女性を連れてやって来た僕を見て、友だちとして我慢ならなくなった。だから僕に殴りかかった。そうだろ」
渚はわたしたちに向かって、きっぱりと言い切ってみせた。
嘘だ。
わたしは知ってる。渚はこうやって自分の憶測を事実のように決めつけたりはしない。渚が自分の考えを口にするときは必ず「僕はこう思うけど、凛音はどう思うかな」と最後に付け加える。
よく言えば謙虚で控えめな性格、悪く言えば自信不足で引っ込み思案。それがわたしの知る不知火渚という男の子だ。
だから渚がこんな物言いをするのは不自然だ。なら、どうして今回はらしくないことをしたのか。
逆なんだ。「きっと当たっているだろう」や「当たっているかもしれない」ではなく、「きっと、あるいは確実に間違っている」と思っているから、間違っている事実を本当のことのように仕立て上げるためにあえて強い言葉を使ったんだ。
ということはつまり、渚の実際の考えは別のところにあるのだ。
「そう。渚はそう信じたいんだね」
自分で気がついたのか、それともなっちゃんや別の誰かに入れ知恵されたのかは判らないけれど、渚は「別の可能性」を受け入れられないでいる。
「朝比奈さん、ですよね」
渚はわたしの言葉に答えずに朝比奈先輩に向かって呼びかけた。
「すみません、この部屋を使わせてください。僕と凛音でふたりにさせてくれませんか。お願いします」
今日初めて顔を見た相手に頭を下げられて、朝比奈先輩は目を白黒させて微かに戸惑うような素振りを見せた。
そしてため息をつくと、朝比奈先輩が胡桃を見下ろした。
「来な」
先輩に言われると、胡桃はわたしと渚を交互に見た。
そんな胡桃にわたしが黙って見つめ返すと、胡桃はゆっくりと立ち上がった。
「あんまり部屋の中身じろじろ見ないでよ」
朝比奈先輩が部屋の扉のところにいる渚にすれ違いさまに言った。
先輩に続いて胡桃も渚とすれ違った。胡桃がほんの少しだけ立ち止まって渚とお互いに視線を交わしたけれど、ふたりともなにも言わずにそのまま胡桃がまた歩き出して部屋から出て行った。
そして部屋の扉が閉まると、この大して広くない閉鎖的な空間にわたしと渚だけが取り残される形になった。
「変わったね、渚。初めて会う人にああやって面と向き合えるなんて。いつもああいうのは恥ずかしがって、わたしが代わりにやってたのに」
「必要だと思ったら自分でやるよ。そんなことができないほど僕はシャイじゃない」
わたしは冗談のつもりで言ったけれど、渚は微笑みも浮かべずにわたしに硬い表情を向けた。
「それで? わざわざこうやってわたしと二人きりにしたからには、それなりの理由があるってことでしょう? 他の人に聞かれたくない話をするために」
わたしはさっきまで胡桃が座っていたベンチに腰掛けて、渚の顔を見上げた。
「気付いたんだね。わたしの考えていたこと全部、何もかも」
「気づいた……じゃないよ。自分ではまったく思い至らなかったから」
「答え合わせといきましょう、来て」
わたしは座っていた位置を横にずらして、もうひとり座れるだけの空きを作った。
だけど渚はそこにほんの少しだけ目をやるだけで、座らずに立ったまま口を開いた。
「まずひとつ。胡桃が僕のこと好きだって君は思ってる」
「そうね。実際そうみたいだけど」
「胡桃から僕に伝えられていない以上、僕に決めつける権利はない。あくまで凛音の頭のなかでの話だ。とにかく、そういうことでいいよな」
「そう。続けて」
わたしはベンチの下に置いておいたスポーツドリンクの入ったペットボトルに再び口をつけた。中身はとっくにぬるくなっていた。
「それでもうひとつ……これが一番の問題で、こんなことになった一番の原因だ」
相変わらず渚はわたしの隣に座らないまま、立ってズボンのポケットに両手を入れた。
「凛音、ここに来てから一度も僕を胡桃に会わせようとしなかったよな。それどころか僕が胡桃の話をしようとしたら、急に話題を変えて話を打ち切った」
「そうだったかな? 覚えてない」
「証明する手段は何もない。いちいち凛音との話を録音なんかしてないから」
渚は何も持ってない両手をひらひらさせた。
「確かに中学を卒業する前、僕と胡桃はちょっと気まずい感じになってた。だけど僕をここに誘ったからには、胡桃に心配かけないために前もって話してるって思ってた。でも話してたらこんなことになってない。つまり凛音はわざと胡桃に僕がここに来ることを話さなかった。どうしてだ? さっきの話と合わせて考えるとするなら──」
ここまでずっと足もとに目線を向けていた渚が、わたしの顔を見た。
「凛音は僕がここに来ることを胡桃に知られたくなかった。胡桃と僕を会わせたくなかった。自分と同じ男を狙ってるライバルを、僕から遠ざけたかったんだ」
わたしは両足を伸ばすと、足首を軽く回して関節をほぐした。
スポーツドリンクの中身はなくなっていた。人差し指と中指の間にボトルの首を挟んで、わたしは内側に雫が垂れているボトルを振って弄ぶ。
「そして、これにもうひとつ付け加えるなら。付け加えるなら」
そう言って同じ言葉を繰り返したところで。渚が急に口をつぐんだ。
「どうしたの、言ってみてよ」
わたしが言うと渚はわたしの目を見て、そして目線を戻してため息をついた。
「凛音が胡桃と僕を遠ざけようとしたのは、僕が好きなのは自分じゃなくて胡桃だって思ってたからだ。そして片想いの自分には勝ち目がないと思って、君は胡桃に僕が来たことを隠したんだ」
最初震えて聞こえた渚の声色は、話すにつれ強いものになっていった。
そしてその響きはこの空間の空気を鉛のように重くて冷たいものにさせた。




