春33:君は希望という名の絶望に微笑む
おれは掃除をしながら凛音さんに、おれが昔家族旅行に行った時に会った子の話をした。
今磨いているところの汚れをブラシと洗剤を使って落としたら、三人そろって少しずつ横へ移っていって、そんな感じで話している間に数メートルくらい壁を磨き終わっていた。
「……わたしが想像してたのはね、央士くんには昔好きな人がいたけど、想いを伝える前に亡くなってしまったとか、そういう話だと思ってた」
おれの話を聞き終えて、凛音さんは緑色ににごった水面を向きながら話しかけてきた。
「とまあ、この話をアタシは央士が誰かに説明してる横で何遍も聞いてるワケだよ」
それまで黙っていた夏希がケラケラと笑った。
「あるイミもっとヒドいよね。確実に死んでるって決まってるよりさ」
夏希のその言葉で、凛音さんが水面から夏希のほうに顔を向けた。するとさっきまで軽く笑っていた夏希の顔は無表情になっていた。
「どこにいるのか、生きてるか死んでるかも判らない……もしかしたら会えるかもって望みがほんのちょっと残ってるから、諦めがつかないんだよ。本当に死に別れたりしたんだったら、完璧に諦めがつくのにさ」
「待ってよ、そんな言いかた──」
「さすが、夏希はおれのコトよく判ってる」
夏希に言い返そうとした凛音さんの言葉をおれは止めた。
「おれだって判ってるんだよ。十年も前に一度会っただけのヤツにまた会うなんて絶対無理だってコトくらい。向こうだっておれのコト覚えちゃいないのかもしれない。でも……」
もしかしたらって思わずにはいられない。
あの子がおれのコトをずっと覚えていてくれているのかもしれない。そんでもって、運命の再会ってヤツもできるのかもしれない。もう諦めたらいいのかなって思うたびに、頭にそんな考えが浮かんでくる。
「ときどき思うんだ。おれはいつまでこうしてなきゃいけないんだろう。だからあやみ先輩が羨ましかった。どんな終わりかたをするにしても、決着をつけるコトができたんだから」
いつの間にかおれのブラシを磨く手が止まって、ぼんやりと水面に浮かぶ自分の顔を見つめていた。そもそもの水が汚いからそう見えるだけかもしれないけど、水面に映っているおれはカゼでもひいたみたいにひどい顔をしていた。
「凛音さんがあやみ先輩を止めたのって、その前に胡桃さんの話を聞いたのがキッカケだろ。あやみ先輩と胡桃さんたち一年生が恋バナできるようになるくらい、お互い分かり合えるようになるまで部活からいなくならないように」
「あ、黛くん判ったんだね。わたしが先輩を止めた理由」
おれが水面から顔をあげて凛音さんの顔を向くと、凛音さんもおれのほうを向いていたのに気がついた。
「まあ、それ以外に思いつかなかったし」
おれが肩をすくめると凛音さんは横に移動して、プールの壁のまだ磨いていないところを磨きはじめた。
「朝比奈先輩はもともと藤堂先生のコトを厳しい人だって苦手に思ってた。次第に認められて、先生のもとでもっと褒められたいって部活を頑張っていくなかで、先輩は先生を好きになっていった」
おれはそう話す凛音さんの横顔を、黙って見つめた。
「先輩が本当に藤堂先生のコトが好きなら、今度は先生が自分にしてくれたコトを今度は後輩とか、他の誰かにしなきゃいけないってわたしは思う」
「それが先輩のやらなきゃいけないコト……」
おれがそう言うと、横から夏希がおれの言葉を付け足した、
「で、それに気づかずに告白して失敗したら部活から逃げるなんて、ありえないってハナシ?」
夏希が挟んできた言葉に、凛音さんは黙って首を小さく縦に振った。
「もったいないでしょ? 誰かと仲良くなるチャンスがあるのに、それに気づかないで終わっちゃうなんて。さすがに胡桃たちに告白されるところまで行けとは微塵も思わないけどね。それに、退部届まで用意して、最初から負けるつもりで藤堂先生に勝負を仕掛けにいったその態度も気に入らなかったし」
そうやって冗談っぽく言うと、凛音さんはふふっと笑った。
「朝比奈先輩にはまだやれるコトがある。黛くんがもし昔好きな子とまた会えて、改めて告白したところで失うものは何もないかもしれないけど、朝比奈先輩はそうじゃない。やっぱり黛くんは黛くんで、先輩は先輩なんだよ」
凛音さんはそう言って手を止めて、もう一度こっちを見た。
「わたしたちは朝比奈先輩の悩みを解決するために、先輩にどうしたらいいかずっと悩んできた。だからわたしは先輩のために、先輩にとって一番いいコタエを出したつもり。我ながら、けっこう乱暴なやり口だったけどね」
「……確かに、ジェットコースターくらい乱暴だったかもね」
おれはそう言って凛音さんから目線を外すと、また水面に映る自分の顔を見た。
今さら引き返せないって、あやみ先輩にあのまま告白させようとしていたおれと、ギリギリのところでキラわれるようなコトをしてまで無理やり先輩を引き留めた凛音さん。どっちが先輩のコトをちゃんと考えてたって言えるんだろう。
それはやっぱり……
「おーい! 喋るのもいいけど、口より手ェ動かせよーっ」
おれが黙って手を止めて考え事をしていると、急に遠くのほうからおれたちに向かって叫ぶような声が聞こえてきた。水泳部の先輩からみたいだ。
「あっ、はい! すみませんっ」
おれは飛んできた声に反応して、思わずその場で立ち上がった。すると……
あれ、急に頭がクラクラしだしたぞ。
立ち上がったおれは目の前がかすんで、チカチカしだしたのを感じた。
あ、そうか。ずっとしゃがんでて足もとに血が回ってたから、急に立ち上がって頭に血が来てないんだ……
立ちくらみで頭がクラクラしたまま足もとがふらつくと、おれはバランスが崩れて身体がプールのふちから、プールのなかへと傾いていったのに気がついた。
「う、うわあっ」
「央士!」
「黛くんっ」
夏希と凛音さんがプールサイドから落ちそうになっているおれに同時に手を伸ばした。
おれはふたりの手を掴んだ。けど……
「え、ちょっと待って、コレ、マズい」
夏希がそう口走った時にはもう手遅れだった。
「う、うああっ」
「いやああああっ」
おれはふたりの手を掴んだまま、おれはふたりと一緒にプールのなかへバシャーン! 引きずり落としてしまったのだった。
「つ、冷たっ!」
汚いプールに沈んですぐさま顔を出すと、あまりの水の冷たさでおれは肌にハリで刺されたような痛みと、骨の芯まで凍ってしまいそうな寒気を感じた。
「だ、大丈夫かーっ!?」
水泳部の人たちがプールに落っこちたおれたちを拾い上げるために長い棒を持って、近くまで走ってきた。
「ささささ寒いよ黛くん」
びしょ濡れになった凛音さんが身を歯をガタガタいわせながら腕をさすっている横で、夏希は水面をバシャン!と叩いた。
「あー! もう、サイアク! 下着の替えとかないんですけど!」
夏希が叫ぶように言うと、凛音さんが「あ、わたしも……」とつぶやいた。
「しょーがない」
夏希は大きいため息をついた。
「アタシら、今日はもうノーパンノーブラで帰るわ」
「え」
夏希の発言に、凛音さんが目を丸くした。
「とゆーワケで女子にこんなコトさせた罰として、央士は全裸で帰ってもらうからね」
「できるワケないだろっ」
おれが夏希にそうツッこむと、夏希が「当然の報いだっ」と言っておれに水をかけてきた。
「あっ、やったなっ、このっ」
おれがお返しとばかりに夏希にバシャバシャ水をかけると、夏希がさらに反撃しておれにさらに水をかけてきた。
「冷たっ! あー! もう怒ったからねー!」
おれと夏希がお互いに水を掛け合っていると、おれたちの間に凛音さんが入って止めようとした。
「もう! やめなよ、ふたりとも──ひゃっ!」
「あ」
「あ」
気づいた時には手遅れだった。
おれたちのかけた水を思いっきり浴びた凛音さんは、さっきにもましてびしょ濡れになって、グズグズになった長い髪からポタポタと水が垂れた。
「……今の、央士だよね」
夏希がおれに罪をなすりつけた。
「待てよ! そもそもこうなったのは夏希のせいで──」
「いい加減にして!」
凛音さんはおれと夏希の両方を突き飛ばすと、おれたちはそのまま、また水の中に沈んでしまった。
おれと夏希が水から顔を出すと、凛音さんは眉を寄せておれたちのことを睨んで言った。
だけどその顔はすぐに崩れはじめて、ニマニマしたにやけ顔になった。
「ぷっ……ふたりとも、グチャグチャになってヘンなの! あはははは!」
凛音さんが吹き出して笑いだすと、おれと夏希はお互いの顔を見て、そして大笑いする凛音さんに目をやった。
「……っ! 笑うなって! この! このっ!」
おれがこっちに指をさして笑う凛音さんに水をかけると、思わずおれも凛音さんみたいに笑いだしてしまった。
「もーっ! やめてよ! 仕返し!」
凛音さんは起こったようなセリフを吐きながらも、相変わらず笑いながらおれと夏希に冷たい水を浴びせかけた。
「へー! 凛さんまでそのつもりなら、そっちまで!」
夏希までこの合戦に参戦すると、おれたちはお互い赤く染まりはじめた空に響くような笑い声をあげた。
そうやってプールから上がらないまま水をバシャバシャさせているおれたちに、プールサイドから水泳部の先輩の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おめーら、楽しげにハシャいでないで早よう上がれや!」
……そのあと、幸い替えの下着は保健室で借りるコトができて、おかげでおれは全裸で帰らずに済んだ。
で、次の日、トーゼンかもしれないけど、おれはカゼをひいて学校を休んだ。
ラインでそのコトを夏希と凛音さんに報告したら、ふたりもおれみたいにカゼをひいて学校を休んだみたいだった。
そしておれたちがカゼから立ち直ってすぐのある日……部活が終わって、おれと凛音さんが部日誌を梢先生のところへ出しに職員室に向かっている時のコトだった。
おれたちは廊下で、部活のユニフォームを着たあやみ先輩に遭遇した。
「あ……」
おれと凛音さんが思わず立ち止まると、あやみ先輩も同じようにその場で立ち止まった。
おたがい、しばらく気まずい感じで何も言えないでいた。
「……あの」
先に言葉を発したのは凛音さんだった。
「あの日はすみませんでした。ヒドい振り回しかたして」
凛音さんはそう言うと、先輩に向かって深く頭を下げた。
「それで、わたしにこんなコト訊く権利ないかもしれませんけど……あのあと、先輩はどんな感じでしたか。藤堂先生と、なにかお話しとかしましたか」
自分にそう訊いてきた凛音さんに、先輩はため息をつくと首をゆっくりと横に振った。
「全然。なんにもしてない。やっぱりダメだね。一度下がったテンションは簡単には戻らない。いまの私には先生に告る勇気とか、無いな」
「……そうですか」
おれは腕から下がる両手を軽く握った。
「じゃあ先輩はもう、藤堂先生のコト……」
「いや? 違うけど?」
おれが最後まで言い切る前に、あやみ先輩はさっぱりした口調で否定した。
「ベツに私、先生のコト諦めたってワケじゃないからね。むしろ燃えてるから」
「燃えてる……?」
おれの隣で、凛音さんはぽかんとして首をかしげた。
「張り切ってるってコト。前は短期決戦で仕掛けるつもりだったけど、今度はじっくりと先生にアプローチしていくから。そう、例えば先生と積極的にスキンシップしていくとか」
「すきんしっぷ……」
凛音さんがカタコトになって先輩の言った言葉を繰り返した。
「肌と肌のふれあい。ふとした瞬間に先生の腕に私の手が当たったりしてさ、そうやってちょっとずつ先生に私のことを異性として意識させていくって寸法だよ」
「はあ」
なんかオトナな話になってきたな。
「私、こっちから告白する勇気はもうない。だけど、今度は先生のほうから私に告白させたいって思ってる。自分から告白できなくても、それならまだちょっとイケる気がするから」
「それは……その、ガンバってください」
凛音さんがちょっと、いやだいぶ引き気味に答えた。
「いや、あなたたちにも協力してもらうからね?」
「はい?」
うまくやりすごそうとした凛音さんが、先輩の言葉にまた困惑した。
「あなた言ったでしょ、私が女バレでやるべきコトをやったら、あの手紙を返すって。だから私がやるべきコトを自分で見つけて達成できたら手紙を返してくれる、つまり私の恋路に協力してくれるってコトでしょ?」
「えっ? えっと……そうなるのかな?」
凛音さんが困った顔でおれのほうを向いた。
……おれに訊かれても。
「教えてくれないんだよね、私が女バレで何をしなきゃいけないか」
「……はい」
凛音さんは先輩の言葉にうなずいた。
「判った。じゃあ、またそのうちまた会いましょう。ちゃんと目標を達成できたか、あなたたちに尋ねなきゃいけないからね」
先輩は「お疲れ様」と言い残すと、そのままおれたちの横を通り過ぎていった。
「黛くん」
先輩の後ろ姿を見ながら、凛音さんがおれに呼びかけた。
「わたし、最初からうまくいくわけないって思いながら告白しに行く先輩のコトを応援する気になれなかった。わたしが好きな人に告白した時は、絶対に行けるってつもりで行ったから。だからダメでもいいやなんて考え方してる先輩のコトがイヤだった。そして、そんな先輩とわたしを一緒くたにした君のコトもね」
「……その節は、本当にすみません」
だいぶ前のことをいきなり突かれたおれは縮こまって凛音さんに言った。
「でもわたし、今の先輩なら応援してもいいかなって思う」
凛音さんがそう言うと、おれは改めてあやみ先輩の後ろ姿に目をやった。これから体育館へ、藤堂先生がいるところに戻るんだろう。大好きな人のいるところへ。
もしあのまま先輩が告白してたら、どんな結果になったのかおれは判らない。予想通りダメだったかもしれないし、もしかしたら、本当にもしかするかもしれないけど、上手くいっちゃったりしたのかもしれない。
でも少なくとも、ああやって一生懸命に好きな人を振り向かせようとする、幸せそうな先輩の姿を見ることはできなかったと思う。
「……おれたち、先輩には散々迷惑をかけたけれど、これで良かったのかもしれないな。先輩にとっても、おれたちにとっても。そしてもし凛音さんがいなかったら、こうはならなかったんだろうな」
おれは先輩から目を離して、「ねえ、凛音さん」と言った。
「もしまたおれが間違えそうになったら、また、おれを止めてほしい。だからこれからもよろしく、凛音さん」
おれがそう呼びかけると、凛音さんは小さく頷いた。
「……判った。わたしこそ、これからもよろしく、黛くん」
そう言うと凛音さんはおれに向かって、温かい笑顔を浮かべた。
「あ、そういえば忘れてたんだけどさ」
先輩の後ろ姿が見えなくなると、おれはふとあるコトを思い出した。
「あやみ先輩から盗ったラブレターって、今どこに置いてあるの?」
先輩の告白を止めた日、凛音さんはあやみ先輩のロッカーからラブレターを盗んで、別の場所に隠したって言ってたけど……
「ああ、あの手紙、あの日からわたしのカバンのなかに入れっぱなしだったっけ」
「え、カバン?」
おれはぽかんと口を開けた。
「ってあの日からコトは、もしかしてあの日も……」
おれがそう口にすると、凛音さんは「うん」とうなずいた。
「あの日ロッカーに行って取ってきてから、よその場所に隠すヒマなんてなかったからね。現にすぐ先輩に気づかれちゃったし。だからあの時先輩に言ったのは、ちょっとしたハッタリ、かな?」
「は、ハッタリ……」
おれは全身の力が抜けていくのを感じた。
よくあの時、あんな状況でそんなコトできたな……
「もし真っ先に先輩があそこに置いてあったわたしのカバンの中身を漁ったりしたら、ちょっとマズいコトになってたかもねー。バレなくてよかったよかった」
凛音さんは軽い調子でそう言うと、そのまま職員室に向かって歩きはじめた。
「……凛音さんって、いつの間にすごいワルいヤツになったよな」
おれを置いてさっさと歩いていこうとする凛音を、おれは早足で追いかけた。
「さあ、誰のせいなのかな?」
振り向かずにそう言って笑ってみせた凛音さんの笑顔は、たぶんさっきと違うカンジの笑顔な気がした……




