春27:今、手の中にあるもの
「多項式の問題を解いていく上で大事なのは、慌てず落ち着いて同類項をまとめること。そして慌てず落ち着いて式を解けるようになるには、たくさん同じタイプの問題を解いて慣れる必要がある。どんな問題にも言えることだけど、こういう単純な問題では特に大事なことだね」
黒板の前で梢先生がクラスのみんなに向かってそこまで話すと、黒板の上にかかっているスピーカーから授業が終わるチャイムの音が鳴った。
「だからテストの時にひとつの問題にムダに時間をかけてつまずいたりしないように、授業だけじゃなくって、家でもちゃんと復習して繰り返し解いて素早く正確に答えを出せるようになってほしいな。次回は問五の答え合わせから始めるから、五、六、七の問題を宿題にするねー」
授業が終わってクラスのみんながいっせいに立ち上がると、日直の「ありがとうございました」の声に続いて、みんなが「ありがとうございました」と言って梢先生に向かって礼をした。
「黛くんと奥寺さん、こっち来て。ちょいちょい」
みんなが机の上の教科書やノートをしまって次の授業の準備をはじめているなかで、おれと夏希が急に先生に声をかけられた。おれは遠くの席にいる夏希と顔を合わせると、先生のいるところまで向かった。
なんだろう。昨日の騒ぎのコトなら、昨日帰る前に話したはずだけど。
「ねえふたりとも、鵜野森さん見てない?」
「凛音さんですか?」
教科書や資料をまとめている先生に訊かれると、おれは首をかしげて言った。
「おれら、今日はまだ会ってないですけど、凛音さんがどうかしたんですか」
「いやね、きのう帰りに部の日誌もらってなくってさ。多分きのうは色々ゴタゴタがあって書くヒマなくて出しそびれちゃったと思うんだけど、見つけたら日誌持ってくるように言って──」
先生がそこまで言った時、先生の言葉にかぶさって教室の引き戸がガラガラと開く音が鳴った。
扉を見ると、そこには部日誌を手に持った凛音さんが立っていた。
「あっ、黛くん、夏希さん」
「おはよう、凛音さん」
「凛さんおはよー。ちょうど先生と凛さんのハナシしてたとこ」
凛音さんは部日誌を持ったまま教室の中に入ると、おれと夏希と梢先生のいるところまで来た。
「すみません、西御門先生。きのうは部日誌を出しそびれてしまって。今日は朝から探したんですけど、なかなか捕まえられなくて」
「いいよー、気にしなくても。わざわざご苦労様」
梢先生は凛音さんから部日誌を受け取ると、きのうの日付が入ったページを開いた。
「前日に引き続き人生相談。そしてその時に体育館の調整室の機械にうっかり触っちゃって藤堂先生から注意を受けた、と」
先生は凛音さんの書いた記録に目を通すと、開いていた日誌を閉じた。
「体育館のスピーカーから流れたっていう話の内容から、キミらがどんな相談を受けたのかはだいたい把握してるよ。恋愛相談か。確かに親にも先生にも、身近にいる友達にも相談しづらい話だね」
梢先生は日誌を脇に挟むと、軽く腕を組んだ。
夏希がちらっとおれのほうを見て、おれはそれに続いて凛音さんのほうを向いた。凛音さんもおれの視線に気がついてアイコンタクトをした。
先生が知ってる話には藤堂先生のコトとか肝心なところが入っていないんだろうけど、おれたちは黙って何も言わないでおいた。
「ま、ここじゃ周りに人が大勢いるから、その子がどんな悩みを抱えてるのか詳しくは訊かないでおくけどね、キミらはここからどうすることが彼女のためになると思う?」
梢先生はじっとおれの目を見ながら言った。
「どうって、あやみ先ぱ……ええと、相談者のことを助ける」
「そこまで名前言っちゃったところで言い換えてもあんまイミないと思うんだけど、まあいいや。黛くんはその相談者にラブレターを書いて、好きな人に対する自分の気持ちを確かめろって言ったんだよね?」
「……はい」
実はもっといろんなコト言ったんだけど。
「で、確かめた後はどうすんの? 告白しないんだったらそれでいいけど、もし告白するとなったら、キミたちはそれを手伝うの?」
「手伝いますよ。だからここまで相談に乗ってきたんです」
「なるほど。でも、それが本当にその相談者のためになるのかな?」
先生は教壇の上にある教科書やノートの上に部日誌を乗せると、それを脇に抱えて教室の外に足を向けた。
おれたちは廊下に出た梢先生に、後ろからついていった。
「相談者がどんな恋の悩みを抱えているかは私には判らない。親友みたいに思ってた男友だちに恋したのか、遠くから見ているだけで幸せだった憧れの人を好きになったのか、はたまた実のきょうだいのことが好きになったとか、慕ってる先生を好きになったのか」
梢先生がピンポイントで答えを当ててきて、おれはぎくっとなって冷や汗をかいた。
横にいる夏希と凛音さんの顔を見ると、ふたりとも半笑いになってた。もしかしたら、おれもそんな顔してるかもしれない。
……エスパーかよ、この人!
まさか先生に全部見抜かれているんじゃないかと思ったけど、それを聞き出す勇気はおれにはなかった。
そんなおれたちに背を向けたまま、先生は話を続けた。
「”彼女”は何かを手に入れるために今ある何かを手放そうとしている。でなきゃそんなに悩むはずなんかないからね」
先生はそう言っていったん立ち止まると、後ろにいるおれたちのほうを向いた。
「キミたちは一度、彼女が手放そうとしているもののイミを考えてみたほうがいい。本当に彼女が手放してしまって、二度ともとに戻らなくなってしまう前にね」
先生はそう言ってまた歩き出すと、「それじゃ、次の授業に遅れるなよ」と言っておれたちに軽く手を振ってそのまま別の教室に行ってしまった。
おれたちはただ、何も言えないままお互いの顔を見ることしかできなかった。




