プロローグ3:今夜、宇宙の片隅で
「次何頼む? おれ、サラダ頼もうと思うんだけど」
「えー! 別に野菜頼まなくてもいいじゃん! もっと肉頼もうぜ。ウインナーと牛タン入れといてよ」
「肉だけなんて身体に悪いだろ。ちゃんと野菜も頼めよ」
「黛、かーちゃんみたいなこと言うなよ!」
焼肉屋の注文用のタブレットを手に持つおれに、同じテーブルに向かい合って座っている、中学のクラスメイトだったイチローが叫んだ。
クラス会で第一部のボウリング大会を終えたおれたちは、次なる会場の焼肉屋で、事前に予約した食べ放題コースを使ってみんな大量の肉を食らっていた。
「そうそう、男は肉だろ、肉。それと米。サラダなんて、肌荒れ気にする女子じゃないんだからさ」
中央に金網のある、男だらけの六人掛けのこのテーブルで、イチローの隣に座るジローがドリンクバーで注いできたメロンソーダの入ったカップに口をつけながらいった。女子に聞かれたら軽蔑されるぞ。そう思いながらおれは女子の集まっているテーブルの方に目を向けた。
そこでは夏希が、クラスメイトの女子たちと集まって談笑しながら肉を焼いて、金網から出る煙に包まれていた。
女子は学校での報告会を終えた後、ほぼ全員一旦家に帰ってメイクをしてクラス会に来たらしい。だからみんな今まで学校で見てきたのとは雰囲気がなんだか違って、ちょっと不思議な感じがする。夏希もいつもと違って口紅とマスカラをしていて、おれのよく知っている、いつも見ている夏希とちょっと違う人のように見えてしまう。
「彼女の化粧姿にメロメロか? 黛」
「は?」
おれと同じテーブルにいる、イチローとジローといつもつるんでいるサブローがニヤけた顔をしながらおれにいった。
「奥寺だよ。いつもベッタリしてる彼女のいつもと違う姿にクラッと来てるんじゃないか?」
「よせよ、夏希のことそうやって言うの……なあ、雅臣はなんか他に頼むか?」
おれはさっさと話題を変えて、隣の席にいる雅臣のほうを見た。
「……白米を、追加で頼む」
雅臣はぼそっと呟くようにいった。あまり大人数が集まるところが得意じゃない雅臣だけれど、今日はみんなが集まる最後の機会なんだからとおれが頼んでここに来てもらった。無理をさせてしまったかもしれない。あとでちゃんと謝らないと。
「つっても、ぶっちゃけみんな全然化粧なんか似合ってねーけどな。なんか無理してる感があって、オバさん臭いぜ」
イチローが言うと、近くにいるジローとサブローがその通りと言わんばかりにうんうんと頷いた。よせよ、そういうコト言うの……
と、思っていると、すぐさま遠くから「陰口、聞こえてるからねー!」という女子の声が飛んできて、デリカシーゼロの三人組はぎくっ! と身体を縮こませた。
物音がうるさい場所なのに、遠くからよく聞こえたな……
「でも実際のところ、央士的にどーなのよ」
イチローがこっちをじっと見ていった。
「今日の奥寺。いつもよりキレイって思うか?」
そんなコト言われても……おれは改めて別のテーブルにいる夏希を見た。
「……そりゃあ、いつもと違う夏希だとは思うけどさ」
「つまんねーなあ。もっとこう、ないのかよ。大人っぽくってエロいとかさ」
「やめろよ! 思うわけないだろ、そんなの」
おれは思わず声をあげて返事をした。
「そりゃあ、おれとしてはいつもの夏希のほうがしっくりきて、好きだとは思うけどさ……」
おれが続けてそこまで言った時、思わず”好き”という言葉を口にしてしまったことに気づいてどきりとした。すると目の前のいる三人衆はおれを見ながらニヤニヤと意地悪そうな顔をしていた。
「やっぱり好きなんだな、奥寺のこと」
「違う! おれは夏希のこと、好きとかそういうのは無いからな! それに、おれは……」
そこまで言いかけると、おれは次に言う言葉が見つからずに、口を閉じてしまった。
「それに? それに何だよ?」
三人衆のひとりのサブローがおれを見つめながら訊いてくる。するとおれの隣で黙々と焼き網の上の玉ねぎをひっくり返していた雅臣がぽつりとつぶやいた。
「……例の、昔会った女の子のことか」
「ふーん? 誰だよ、それ」
ジローが言うと、このテーブルにいる全員がおれをじっと見つめてきた。おれはしかたない、とため息をつくと、おれは昔話をすることにした。
「……小学校に上がる前、幼稚園の卒園式の後の春休みの時に、家族で遠くに旅行に行ったんだ。安曇野ってところだ」
おれがそう話すと、周りのみんなは顔をかしげた。
「あずみの? 聞いたことないな」
「いや、俺は去年行ったぜ。わさび農園とか見に行ったんだよ」
「で、そこでその例の女の子と会ったってのか?」
「……うん」
おれは小さくうなずいた。
「家族で停まった宿で、ちょうど別の家族が泊まりに来てたんだ。その家族にはちょうどおれとお互い同じ歳の女の子がいて、その子と一緒に仲良くなったんだ。安曇野には悪いけど、親に連れられてくる小さい頃の家族旅行なんて、ディズニーランドとかじゃなきゃ全然楽しくなかったしさ」
「確かに。おれが安曇野行った時はわさび農園とかボート漕いだり、わさび農園のわさび使ったソバ食ったりして超満喫したけど、ガキンチョの頃じゃだいぶツラいよなあ」
「その時その子と一緒に旅館に置いてあった卓球台で卓球とかゲームしたり、宿の中を探検したりして、そうして遊んでいるうちに仲良くなって……それで、宿を出て家に帰って別れる時に約束したんだ。またいつかもう一度会って、結婚しようって。これがその女の子との話」
おれが昔話を話し終えると、テーブルは少しのあいだ、しいんとみんなが黙って静かになった。
そこからもう一度おれに話しかけたのはイチローだった。
「で……その子とはそれでおしまいか?」
「まあな。それから一度も会ってない。今どこでどうしてるかも知らないし、そもそも生きているのかってことすら判らない。でも……どうしても忘れられないんだ」
「結婚の約束をした運命の女の子、ねえ」
向かいにいるジローが頬杖をつきながらぼそっといった。
「おめーはまだ好きなのかよ、その子のこと」
ジローがおれに訊く。おれはなんて答えればいいのか判らなかった。
遠い昔、ほんの二、三日一緒にいただけの女の子。なのに今もおれの心にその子と、その子とした約束はずっと残っている。だから、きっと……
「好き、なのかもしれないな」
おれは頭の中にぼんやりとあった気持ちを、口にして続けた。
「だからあの子とした約束をちゃんと守りたいって思ってる。あの子とした結婚の約束。それがあるのに、夏希と──いや、夏希ってわけじゃないけど、あの子以外の他の誰かのことを好きになったり、付き合ったりすることなんて、おれにはできない」
できない、と言うと、その言葉が重くおれの頭の上にのっかかったような気がした。
約束を破るなんて許されない。それも、好きになった子の気持ちを裏切るなんて。そんなこと、できない……
「……ふうん。なあ、今のその子の話、幼稚園と小学校に入る間のことって言ったよな」
イチローが金網の上の焼けた肉を取りながら、おれに向かっていった。
「そん時、おめーとその子、いくつだよ。ふたりともまだおチビさんだぜ。まさかお前、その小さい女の子のことがまだ好きなんて言うんじゃないだろうな。そんなのロリコンの変態じゃねーか」
イチローが言うと、隣にいるジローとサブローと一緒に笑った。
「言えてるな! 黛、お前そりゃきついぜー! 五歳とか六歳の時に好きになった子のこと、十年以上もずっと好きなままなんてさ!」
「そうそう! 通りで同い年の奥寺と付き合わないわけだよ!」
イチローたちに笑われる中、おれはやめろよ、と言い返すことができなかった。
本当のところ、みんなが言っていることは正しかった。ずっと昔にあったきりの女の子のことがずっと忘れられないままでいるなんて、どう考えてもバカみたいだ。もう二度と会うことはできないだろうし、向こうもおれのことを覚えていないのかもしれないのに。
「……悪かったな。俺が話題に出して」
隣にいる雅臣が、眉と眉の間に皺を寄せながら小さく言った。
「いいんだよ、雅臣。間違ってるのはおれのほうなんだから──」
「ふーん? アタシは間違ってるなんて思わないけど?」
誰かがいきなりそう言っておれたちのテーブルに誰かが割り込んできた。夏希だ。別のテーブルから出てきてこっちに来たみたいだ。
「ヒドいねー、アンタら。恋に真剣に悩んでるヒトをそうやって笑うなんて」
夏希はおれと雅臣の間に入ると、目の前にいるイチローたちのほうをまっすぐ見た。
「央士はさ。何年前も前に一瞬だけ一緒だった子とした約束をしっかり覚えてて、それを必死に守ろうとしてるんだよ? そんな真剣に恋で悩んでいるヤツのことバカにするなんて、サイッテーだから」
夏希がそう言うと、遠くのテーブルにいる女子たちが夏希の言葉に反応して「夏希に賛成!」「なっつーの言う通り!」「ロマン無し夫!」「だからアンタらモテないんだよ!」と次々に声をあげはじめた。
「う、うるさいな! ちょっとからかっただけなのに、なんでここまで言われなきゃいけないんだよお」
女子からの総攻撃を受けてイチローが涙目になりながら叫んだ。まあ、正直おれもやりすぎだと思う……
信じられない勢いで女子に怒られて落ち込むイチローの肩を、隣にいるジローがぽんぽんと叩いた。
「まあ、おれたちが言いたいのはさ」
そしてジローはおれのほうを見て口を開いた。
「おれらみたいに大して女子に人気のない連中にとって、お前がそうやってずっと昔のことにこだわり続けるなんて、バカみたいだってことだよ。奥寺みたいなやつが、ずっとそばにいるってのにさ……」
ジローはイチローの肩を撫でながら、おれと夏希を見て言った。そしてイチローも、こっちを見るジローと同じ目をしていた。
クラス会がお開きになり、おれと夏希はふたりで横並びになって歩道を歩いていた。雅臣とは家の方向が違うので、店で別れたところで解散となった。
おれはとなりにいる夏希の横顔を見た。リップをつけて、目もとが深く見えるようなメイクをしている。
夏希は子どもみたいに、歩道と車道の間にある小さいブロックの上で平均台に乗っている時のようにバランスをとって歩いていたけれど、それでも今は、夏希のことがおれには少し大人のように思えた。
「いつもと違うアタシに見惚れちゃった?」
おれが見つめていたのに気がついたのか、夏希がブロックに乗ったままからかうように言った。おれはあわてて夏希の横顔から目を逸らした。
「やめろよ、夏希までそういうこと言うの」
「スナオじゃないねー、央士クンは。似合わないなら似合わないってそう言えばいいのに。無理しておめかしするんじゃなかったなー」
「別に、似合わないなんて一言も言ってないだろ。ただ……」
「ただ?」
「……慣れないってだけだよ」
おれは思わず立ち止まって両手の拳を軽くにぎった。
「いつもと全然違う感じだし、何て言うか、いつものかりんと違ってて戸惑ってて、どう感じればいいのかよく判らない。だからさ」
おれはもう一度夏希の横顔を見た。
「またそうやってメイクしたところ、おれに見せてよ。そしたら……その時は何か、気の利いたこと言えるかもしれないからさ」
おれがそう言うと、夏希は少しだけぽかんとした。だけど次の瞬間には、夏希はほっぺたを浮かべておれに笑顔を見せた。
「次までにメイクの勉強、もっとしないとね」
夏希が照れ笑いを浮かべると、お互い恥ずかしくなったのか、目を逸らして夜空を見上げた。
「ねえ央士」
次に話しかけたのは夏希だった。
「もし昔約束した女の子がいなかったら、アタシたち、付き合ってたかもね」
何を急に。夏希がそんなことを言い出したのは、さっきの焼き肉屋でのことがあったからか? おれは夏希に振り向かないまま、息を吐いた。
「判るわけないだろ、そんなの」
おれはもう一度夜空の星々を見上げた。
もし、今もあの子が元気でどこかにいるのだとしたら、今おれの見ているこの夜空を、同じようにどこかで見ているのだろうか?
そしておれのように、ずっと昔に会ったきりのおれのことを、覚えてくれているんだろうか?
教えてくれ。キミは今、どこにいるんだ?
◆◆◆
ベランダに出ると冷たい風を感じた。昼の間は日差しが強くて暖かく感じるけれど、夜はまだ寒気を感じる季節だ。
わたしはひとりで静かに夜空を見上げていた。地方都市の明かりは空に浮かぶ星々の光をくもらせてしまうけれど、それでもしばらくじっと空を見つめていると、空の暗さに目が慣れて、少しずつ星が浮かぶように見えてくる。
理科の授業で星座の勉強はしたつもりだけど、それでもあの星とあの星は何の星座で、と思い返す気にはならなかった。
わたしは星と星の間の真っ暗で果てしない空間を見ながら、世界は気が遠くなるほど大きいことを感じて、そしてその大きな世界で、わたしはひとりぼっちのような気がした。
「お姉ちゃーん! もうご飯できたよー!」
物思いにふけっていたわたしを呼び戻したのは、下の階のリビングにいる妹の琴音の声だった。
わたしがリビングに降りると、ローストチキンやサーモンのカルパッチョなどの豪華な料理が載せられたテーブルに、天井に”合格おめでとう”という横断幕が架けられているのがみえた。
「それでは改めまして、合格おめでとう、凛音」
お母さんが言うと、わたしたちは一斉に手に持っているグラスを合わせてチリンと鳴らした。お父さんとお母さんのグラスにはワインが、わたしと琴音のグラスのなかには冷たいレモネードが入っていて、乾杯に合わせてなかの液体がぐらっと揺らめいた。
「お姉ちゃんは第一志望に合格。琴音も、ちゃんと自分の行きたい学校に行けるようにしっかり勉強するんだぞ」
「ちぇっ、いまわたしの勉強の話しなくてもいーじゃん」
チキンをナイフで切り始めたお父さんに向かって、琴音が露骨に嫌な顔をした。二つ年下の琴音は次の四月からは中学校二年生だ。
わたしも勉強が好きなわけじゃないけど、琴音は輪にかけての勉強ぎらい。いつも宿題を平気でサボって先生に叱られているらしい。ちゃんとやればできる子だとは思うんだけどな……
「そういえば仲の良かった友だちの渚君はどこの学校に進学したんだ? 同じ西吾妻校には進学しないのか?」
お父さんはわたしに言うと、ナイフに刺したチキンを口のなかに突っ込んだ。
「あれ、知らないのか? 渚君がどこの学校に行ったのか。友だちなんだから聞いているもんだと思ってたのに」
口の中のチキンを飲み込むと、お父さんはわたしたちを見回した。みんな黙って静かになって、気まずいよどんだ空気がこの部屋に満ちる中、お父さんだけがその理由を判っていないようだった。
そして沈黙に耐えられなくなったわたしは、テーブルからさっと立ち上がった。
「……ごめん、お母さん。わたし、今日ちょっと食欲ないから。残りは明日食べる」
わたしがそう言うと、お母さんは全く中身の減っていないわたしのお皿の上をみた。
「判った。夜の間にお腹空いたら言ってね、温めておくから」
「ありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
わたしはみんなに背を向けると、そのまま逃げ出すように足早にリビングから出ていった。
「どうしたんだ? 凛音、急にぐったりしだして。全然料理に手付けてないじゃないか」
「お父さんのせいだよ! お姉ちゃんの前でアイツの話なんかするから!」
壁の向こう側から、琴音の声がこもって聞こえてきた。お父さんは怒りだした琴音の態度に明らかに戸惑っているみたいだった。
「そんなこと言われても……だって渚君、凛音と仲良かったじゃないか。よく一緒に遊んだりしてたのに」
「とにかく! アイツのことはもう話題に出さないで!」
「やめなさい、琴音。お父さんだって、何も知らなくて困ってるんだから」
「だってお姉ちゃん可哀想だもん! ずっと昔から好きだった人に、あんなひどいフラれかたして──」
階段を上がっても、琴音やお父さんたちの声が聞こえてくる。
わたし、何やってるんだろう。家族がお祝いしているのに、それをぶち壊しにして、心配させて。
わたしは自分の部屋に飛び込んで部屋の鍵を閉めると、ベッドの上のブランケットにしがみついた。そしてブランケットにしがみついていると、いつの間にか涙を流していたことに気がついた。昼間、ひとりで高校で合格発表を見に行った時みたいに。
もういやだ。高校なんかどうでもいい。いままでや、これからのことも、渚のことも、そして、わたし自身のことも──