プロローグ2:門出の日
おれを夢から覚まさせたのは、携帯電話のスピーカーから出るアラームの音だった。
枕もとで鳴るピピピッという音と、携帯が小刻みに振動する音が耳に届いた瞬間、何時間も閉じていたおれのまぶたはパッと一気に開いた。
寝起きの身体をバッと勢いよく起こすと、おれはカーテンに遮られながら部屋を弱々しく照らしている朝日の差し込む窓に目をやった。そしてついさっきまで見ていたのとはまったく違う光景を見ると、おれは小さくため息をついた。
「……夢に決まってるよな」
誰かが聞いているわけでもないのに、おれは自分に言い聞かせるように声に出して呟いた。
夢を見ている時、自分が夢の中にいると気付けることはめったにない。たとえ夢の内容が無茶苦茶で、現実に起こるはずのないような出来事が目の前で起こっていようと、どういうわけか眠っている間の自分はそれを現実だと信じて疑ったりすることはできない。
それも、本当に現実だったらいいのにと思うような夢だったら、本当に夢だと疑うことなんてできないんだ。
さっきまでおれが見ていた夢は、まさしくそういう夢だった。現実に起こるはずのない夢、そして、現実であってほしいと願うような、そんな夢だった。
おれは首を横に振った。やめよう! 昔のことに頭を引っ張られるなんて! おれはいま、まさに新しい未来への第一歩を踏み出そうとしているところなんだから──
さっきまで見ていた夢のことを全力で忘れようとすると、おれは枕もとにある携帯を手に取って、通知が届いていないか確認をした。
画面を見ると、中学のクラスメイトだった雅臣からラインでメッセージが届いているようだった。
“おはよう。何時にどこに集合する?”
“早く返事しろよ、黛。いつまで寝てるんだ”
雅臣からのメッセージは一時間前に一つと、そして数十分開いてもうひとつ届いていた。
早起きなヤツ! どうせ合格発表は十時からなんだから、もう少し寝てたっていいのに!
おれは携帯を操作して雅臣に返信をすると、布団をとってベットから降りた。そして洗面所で顔を洗って寝癖を治すと、家族のいる下の階のリビングに降りた。
リビングで家族と一緒に、バターを乗せたトーストと母親の焼いた目玉焼きとベーコン、そして胡麻ドレッシングをかけたカット野菜のサラダを腹に収めて朝食を済ませると、おれは自分の部屋に戻って中学校の制服に袖を通した。
学校指定のワイシャツの上に学ランを羽織り、そして学ランのカラーのホックを留めたところで、この制服を着るのは、今日が最後だということにおれは気がついた。
おれは支度を済ませると、家の玄関を開けて庭に留めてある自転車に乗り、そのまま車道に出ていった。
三月某日。おれは数週間前に受けた公立高校の入試の合格発表を見届けるため、志望校である公立西吾妻高校へ自転車のサドルから腰を浮かせ、ペダルを力一杯漕いで、全速力で安全に十分気をつけながら向かっていた。こんなところで事故ったら合格発表どころじゃないもんな。
自転車を走らせながらまわりの景色を見ていると、並木通りに植えられた桜の樹があるのが見えた。まだ桜は開花していない。今年は気温が上がるのが遅い。高校の入学式の頃には、桜は満開になっているのだろうか?
道中の赤信号で停まって待っている間、おれは先週末買ってもらったばかりの携帯電話で現在時刻を確認した。雅臣との約束の時間には間に合いそうだ。
十五分ほどかけて坂道を降ったり下がったりしながら西吾妻高校に着くと、学校にはおれと同じ歳の中学生たちが大勢集まっていた。
学校の正面玄関の近くに据えられた、合格した受験番号を掲示する複数のボードのあたりには受験票を手にした人々が大勢ひしめき合っている。
まだ発表前で掲示板には何も張り出されていないけれど、それでもみんなまだかまだかと友だち同士のグループで集まってボードをじっと見つめて、受験票を握りしめている。
ネットでも合格発表は確認できるとはいえ、みんなやっぱりこうして友だちやクラスメイトと一緒に現地に集まって、運命の時を迎えたいものなのかもしれない。実際、おれもそのひとりなんだから。
さて、ここで待ち合わせをした雅臣はどこにいるのかな? きょろきょろと辺りを見ていると、後ろからポンと誰かがおれの肩を叩いた。
「よっ、おはよ、央士」
声のしたほうを振り向くと、そこにはおれと同じ学校の制服を着た女子、奥寺夏希の姿があった。
おれに向かって歯を見せて笑う、さっぱりとしたショートカットが特徴的な夏希はおれとは小学校一年生のころからの付き合いだ。だから初めて知り合ってからもう九年以上経っていることになる。
好きな遊びや、嫌いな勉強も一緒にやってきた、これまでの人生の半分以上の時間をおれと共に過ごしてきた存在だ。
夏希もおれと同じく、数週間前に一緒に入試を受けて、この高校を第一志望にしている。
「おはよう、夏希……あれ、雅臣も一緒にいたのか?」
おれが夏希の姿を見ると、夏希の隣に雅臣がいたのに気がついた。
「先に俺が来てお前を探してたところで、奥寺と合流したんだ。お前を探すことにかけては、俺より長い付き合いの奥寺の方がずっと上手だからな」
「ふふ、まーね。長年幼なじみやってたらこんなモンよ。年季が違うからね」
そういって得意げな顔をする夏希を見て、隣にいる雅臣は「何を言ってるんだか」と呆れて肩をすくめた。
蓮雅臣、鋭い切れ目にメガネをかけたいかにも頭の良さそうな男だ。
実際、かなり頭がいい。成績はいいし、なんと趣味でミステリ小説を書いているらしい。複雑なアリバイトリックや密室トリックのアイデアを思いつけるなんて、どういう頭の作りをすればできるのか、おれにはとても不思議だ。
雅臣とは中学に入ってから知り合った。我ながらあんまり人様に言えないくらい成績の悪いおれを無理やり塾に通わせようとする両親を思いとどまらせるために、雅臣にはおれと、ついでに夏希の個人教師になってもらった。
おかげでおれは行きたくない塾に通わずに済んで、それどころかこの地区でもかなりレベルの高い進学校であるこの西吾妻高に受かる見込みが立つところまで来れた。雅臣には感謝してもしきれない。
「ありがとう、雅臣。今日ここまで来れたのは雅臣のおかげだよ」
「そうそう。アタシもマサには感謝してる。でなきゃこんな偏差値高めの学校になんか受けられなかったからさ」
夏希がおれに続けて雅臣にいった。すると雅臣はおれたちから目線を逸らして、ほっぺたを少し赤くしながら照れくさそうな顔をした。
「……感謝するのは早いだろ。まだ受かったかどうかも判らないんだから」
雅臣はそう言って、おれたちから目線を逸らしたまま掲示板のほうを見た。雅臣の言う通り、掲示板にはまだ何も張り出されていないようだった。
「そうだな。改めてそう言われるとちゃんと受かったのか、ちょっと不安になってきたな」
マークシートの回答が全部ズレていたら? 面接で何かヘマをしたか? あと、中学でやったあれやこれやのムチャのせいで内申点が最悪だったら……? もしそんなことになったら、ずっと勉強を見てくれた雅臣に合わせる顔がない。
「まあ、不安になっても仕方ない」
おれの顔を見て、なだめるように雅臣が言った。
「大事なのは頑張ってきたことだ。たとえ結果がダメだったとしても、お前らが努力してきた事実は変わらない。あまり気にするな」
……雅臣。
「落ちる前提でそんな話しないでくれるかな」
「冗談だ。少しは不安が紛れただろ」
雅臣はニヤリと笑って言った。そうか。冗談か。
それでも、一度「落ちたらどうしよう」と考えてしまうと、そのことが頭から離れられなくなる。
だけどそんなおれのことを見抜いているかのように、夏希が後ろから「大丈夫だよ」と声をかけてきた。
「もし央士がダメだったとしても、アタシ、央士と一緒の学校に行ってあげるからさ」
「……夏希」
おれは自分に向かって、人なつっこい笑顔みを浮かべる夏希の顔を見た。
「お前もおれが落ちる前提で話をしないでくれないかな!」
「おい! くっちゃべってないで前見ろ! 張り出されたぞ」
雅臣の声が耳に届くと、おれは慌てて前の掲示板を向いた。
この学校の先生たちが、合格者の番号が書かれている用紙を掲示板に貼り付けていて、みんなそれと手元の受験票と交互に見て自分の番号がないか大量の数字の中から探している。早いやつはもう自分の番号を見つけたのか、叫び声をあげて両腕を天高く突き上げている。
「おれたちの番号の列が載ってる掲示板は?」
「あっちだ」
雅臣がいくつもある掲示板の中の一つを指さした。おれたちは一斉に手に受験票を広げて、互いに顔を見合わせた。
「それじゃ、いっせーので一緒に見ようか」
夏希が言うと、おれと雅臣はうなずいた。おれたちは前を向いて目を閉じ、顔を下げると、夏希の合図を待った。どくどくと胸が高鳴り、見たいような見たくないような気持ちが混ざり合った感じになる。
「いくよ……いっせーので!」
おれたちは夏希の合図に合わせて目を開け、前を向いた。掲示板の中のたくさんの数字と頭の中に焼き付いている自分の受験番号とを照らし合わせながら、おれはごくりとつばを飲んだ。
おれの受験番号は4793。受験票を握る手が震えているのを感じながら合格者の番号を順番に見ていく。4779、4780、4785、4786、4787、4789、4791、4792、そして……
4793。そこにはおれの受験番号があった。
「やったぞっ!」
おれは思わずガッツポーズをして隣にいる雅臣に向かって叫んだ。
「雅臣は?」
おれが訊くと、雅臣は落ち着きながらも得意げな顔を浮かべて、おれに”4785”と受験番号が書かれた受験票をちらりと見せた。受験番号4785、ということは……
「おめでとう! おれたち一緒に合格だ!」
「受かって当然だろ。お前が合格できたんだからな。でなきゃお笑いだ」
こうは言う雅臣だったけれど、自分の合格を知った雅臣には発表の前と比べて少しリラックスした顔を浮かべていた。こんなことを言いながらも、やっぱり雅臣も内心は少し怖かったのかもしれない。
「そうだ、夏希はどう? 夏希も受かって──」
おれはそう言いながら夏希のほうを見た。すると夏希は受験票を持つ手を力なくだらんと下げてうつむいていて、黙ったまま口を閉じていた。
「えっ……」
夏希の様子を見て、おれは言葉を失った。そんな、夏希もおれと一緒に頑張って受験勉強をしていたのに。そして、おれと一緒にこの学校に受かろうって約束したのに。
「……まあ、気を落とすなよ、奥寺」
何も言えないままでいるおれに代わって、雅臣が気まずそうに言葉を発した。
「お前はすごく頑張ったし、落ちたからと言ってそれが全部ムダになったわけじゃないはずだ。この一年間、お前の努力するところを間近で見てきた俺が断言する。黛も、俺と同じ気持ちだよな」
「……夏希」
おれはなんて声をかければいいのか判らなかった。夏希とはいつも一緒で、離れ離れになることなんて考えたことがなかった。それが、こんな終わりになるなんて。
これでもうおれと夏希の、小学校からの長い付き合いも終わってしまうのだろうか──
「そんなの、イヤだ」
おれは思わず声を漏らした。
「夏希、言ったろ、おれがこの学校落ちてたら、一緒の学校行くって。おれ、夏希と同じ高校に行く」
「よせ、黛! そんなことがお前と奥寺のためになると思うのかっ」
「止めないでくれ! ここで夏希と離れ離れなんて、おれはイヤだ──」
おれを止めようとする雅臣だったけれど、おれの気持ちは変わらない。すると夏希の肩がぴくぴくと震え始めた。
「……〜っ、もう、ダメ!」
夏希は弾けたように大きな声をあげると、お腹のあたりを抱えて「あははは!」と笑い始めた。
「か、夏希?」
「こいつ……落ちたショックでおかしくなっちまったのか」
急に様子の変わった夏希におれたちが困惑していると、夏希は「違う違う!」といって笑った。
「二人ともあっさりダマされちゃって! これ見て!」
夏希はおれたちに自分の受験票を見せた。夏希の受験票の受験番号は”4769”……おれと雅臣はすぐさま掲示板のなかの番号を探した。
すると……その番号は確かに掲示板の中にあった。夏希はちゃんと合格していたんだ。そしてそれを隠して、おれと雅臣をからかったんだ!
「コ……コイツ!」
雅臣が握り拳を固めて叫んだ。
「騙したな! 嘘をついて俺たちの気持ちを弄びやがってっ」
「えー? アタシ、嘘なんてヒトツもついてないけど? マサたちがアタシ見て勝手にそう思っただけじゃーん!」
「返せ! 本気で心配してお前を慰めようとしたあの時間を返せ!」
雅臣はギャーギャー叫びながら飄々とした様子の夏希に向かって問い詰めた。
まあ、確かに夏希に一杯食わされて怒りたくなる雅臣の気持ちは判らなくもない。でも、おれは……
おれは両腕を広げると、目の前にいる夏希と雅臣を力いっぱい抱きしめた。
「ちょっ、央士っ?」
「良かった」
また夏希と一緒に学校に通える。それもお互いの第一志望の学校で。この先も離れ離れにならないで済む。おれはそれだけで嬉しかった。
「合格おめでとう、夏希。これからもよろしくな」
おれがそう言うと、夏希もおれの背中にゆっくりと腕を回した。
「うん、こちらこそ。合格おめでとう、央士。心配させてごめんね」
おれたちはそのまましばらく抱き合った。すると耳元で「ゴホン!」と雅臣が咳払いをするのが聞こえた。
「感傷に浸るのはいいけどな、公衆の面前だぞ。目立ってしかたない」
雅臣の言葉におれと夏希は周りを見回すと、恥ずかしくなって慌てて腕を離した。みんな自分の合否に夢中で、おれたちのことなんか気にしてなんかいなさそうだったけれど、急に照れ臭くなってしまった。
近くから歓声が聞こえてくる。掲示板に自分の受験番号を見つけた人たちが自分や、友だちの合格を喜んでいるんだろう。つまり春からはおれの同級生になる人たちってことだ。
今は学校が違ってお互い全く知らない相手だれど、この学校に入学したら、仲のいい友だちになれるかもしれない。それを想像すると、おれは無性にわくわくしてしまった。
もちろん、みんながみんなそういうわけでもなさそうだった。周りを見回すと、自分の受験番号を見つけられず、泣き出して一緒にきた友だちに慰められている女子がいたし、期待した結果じゃなかったことに落ち込んだ様子を見せずに強がりながらも、心の中で悔しい気持ちを表に出さないように必死に堪えているような人もいた。
「……なんかアタシ、不謹慎なことしちゃったかもな」
「だろうな」
少し落ち込む夏希に、雅臣が腕を組みながら言った。
「おれも、あの人たちに失礼なこと言ったかもしれない」
おれは近くにいる人たちを見ながら、顔がかーっと熱くなった。。
「みんな、今まで頑張ってきたんだよな。自分で難しい勉強をしたくてここを受けた人や、親に言われて受けた人、理由はたくさん、人それぞれあるんだとは思う。でもどっちにしろ、おれたちは誰かを蹴落として、いまこの場所にいる。だから……」
おれは自分の頭の中にある色々なことを、ゆっくりと言葉にしながら口に出した。
「だから、たとえ大切な友だちと離れ離れになるのがイヤでも、この学校に通うのをやめるなんて、そんなことをするのは、他の人たちに失礼だ」
なんとか自分の思っていることを形にすると、おれはこれからの三年間を過ごす友だち二人のほうを向いた。
「高校生活、大事に過ごしていこう。いろんな人たちに誇れるような、おれたちにとって、大切な三年間になるように」
おれが言うと、夏希と雅臣は静かに微笑みながら小さくうなずいた。
「まあ、いい意気込みだとは思うがな」
雅臣が口を開いた。
「未来について語る前に、過去とさよならをしないとな。中学に合格報告に行くぞ」
そうだ。このあと中学校に行くため中学の制服でここに来たんだ。おれは雅臣に向かってうなずいた。
「ああ、卒業式はとっくに終わったけど、今度が本当に最後の登校だ」
「中学に行く道でどっか寄る? クラス会あるし、コンビニでお昼ごはん買っちゃおうよ」
夏希がおれと雅臣の間に挟まっていった。午後からは中学のクラスメイトとボウリング大会をしたり、夕食に焼肉屋に行くことになっている。
「いいけど、奥寺、ちゃんと金持ってんのかよ」
雅臣が夏希に言った。
「前のファミレスの勉強会の時みたいに奢るのはナシだからな。ていうかあの時の金返せよ」
「やー、もうじきおじいちゃんとおばあちゃんから卒業と入学祝いもらえるからさ、それまで待ってもらって……」
夏希と雅臣は掲示板に背を向けると、話しながら高校の自転車置き場の方へ向かっていった。
おれもそんな二人を追うようについていこうとした──その時。そばにある人影がおれの目に入った。
おれのすぐ近くに、ひとりで掲示板に向かって立つ、女子中学生の姿があった。
彼女はおれたちの通っていた中学校とは違う制服を着ていて、長い後ろ髪に短く切りそろえた前髪に、そしてきりっとした太い眉に力強さを感じさせるまなざしを目の前に向けていた。そして──
彼女は、静かに、声も出さずに涙を流していた。
なぜ彼女の姿が目に留まったのか、おれには判らなかった。
あの人、掲示板に自分の受験番号が無かったのか? それとも、何か他に別の理由が……?
とにかく、ひとりきりで涙を流している彼女に声をかけるべきか迷っていると、遠くから夏希と雅臣がおれを呼ぶ声が聞こえてきた。
「ねえ央士、何してんの。早く来なよ」
「早く来いよ。早くしないと自転車置き場が混み合って面倒になるぞ」
「あ、ああ……うん、すぐ行くよ」
おれは慌ててその場から立ち去ると、雅臣と夏希のいるほうへ駆け出した。
そして自転車に乗って中学校に向かっている間──おれの頭には泣いていたあの彼女のことが、ずっと頭に残り続けていた。