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春9:これから行く場所


 黛央士のいなくなった店の中で、不知火渚と犬飼千鶴は四人掛けテーブルに横並びになって座ったまま、中途半端に残ったドリンクの中身に手をつけることなく沈黙していた。


 渚が重い息を吐くと、それに合わせて彼の肩がゆっくりと大きく下がった。


「うまくいかないね」


 千鶴は澱んだ空気を打ち消すように、渚に話しかけた。


「あのふたり、どこにいるんだろうね。いっそのこと、黛くんの後をつけばよかったかな、なーんて……」


 千鶴は明るい調子で冗談っぽく言ったが、渚は彼女の言葉に何の反応も示さなかった。


 千鶴はそんな渚からテーブルの上に目をやると、彼女も渚と同じように沈んだ表情を浮かべてため息をついた。


「……わたしは不知火くんの味方だよ」


 千鶴は渚に呟くような声で言った。


 だが、その言葉が渚に届いているのかは判らなかった。


 ◆◆◆


「ちゃんとひとりで来てくれたんだね」


 駅のホームへの階段を駆け上がるおれの足音が聞こえたのか、凛音さんがこっちを向くと、夕暮れの風に吹かれて彼女の長い髪がはためいた。


 凛音さんは今吹いている風のようにぞっとするような冷たい表情で、おれに笑いかけた。


「そのあたりに渚たちがこっそり隠れてたりしない?」


「しないよ……たぶん」


 おれはいちおう今上がってきた階段のほうを見たけれど、不知火くんたちの姿はなかった。


 スターバックスで不知火くんと犬飼さんに電話の内容を説明するのは辛かった。


 不知火くんにきっと大丈夫と言っておいて全然大丈夫じゃなかったんだから、彼から話が違うと言われても当然だった。


 だけど不知火くんは怒ったり、おれを責めるようなことは一言も言わずに、そのままおれをひとりで駅まで行かせてくれた。


 おれには不知火くんから何も責められなかったことが、逆に辛かった。


「でも、なんで駅のホームまでおれを? 帰りはバスのはずだろ」


 おれがそう尋ねると、凛音さんは三番戦に停車している知立方面の電車のほうを向いた。他の路線と合わせるためなのか停車時間が長く、出発するのは四分後らしい。


「今日、黛くんとプラネタリウムで昼寝しちゃった時ね、渚のことを忘れられた気がしたんだ。いままで渚のことが頭に浮かばない日なんてなかったのに」


 凛音さんはおれに背を向けたまま、電車の扉を向きながらおれに話しかけた。


「これでやっと渚のことを忘れられると思ったんだ。これからは昔の思い出に縛られずに済むって。でも、そんな時に渚がいきなり目の前に出てきた。いままで、顔も合わさずに済んだのに」


 いま、凛音さんがどんな顔をしているのかおれには見えなかった。おれはその場から動けないまま、風に揺れる凛音さんの黒い髪を見つめていた。


「せっかく忘れられると思ったのに、また思い出しちゃった。だからさ、もう一度黛くんには、渚のこと忘れさせてほしいの」


 凛音さんはそう言うと、ホームから電車のなかへ足を踏み入れて、くるっと振り返って電車の中からおれのほうを向いた。


「一緒に来て。どこか遠いところまでふたりきりで。この頼み、聞いてくれる? “なんでも部”の、黛くん」


 背中から電車の中の光に当てられて、凛音さんの顔は見えなくなっていた。


 風の吹く音がして、天井のスピーカーから電車の発車のアナウンスが聞こえた。


 おれはホームから足を踏み出し、電車の扉の中に入って、凛音さんの手を取った。


 そして凛音さんの手を取ったまま、ホームへと彼女を引き戻した。


 ちょうど目の前で電車の扉が閉まると、電車はそのままゆっくりと発信して遠くへ向かっていった。


「帰ろう、凛音さん。明日は学校がある」


 ホームでぴったりとくっつきそうなくらい近くに引き寄せた凛音さんの耳もとに向かって、おれは言った。


「学校でまた会える。おれにも、凛音さんの友だちにも会える。こうやって知り合うきっかけを作ってくれた、君のおせっかいな友だちにも。だから今日は帰って、ご飯を食べて、寝よう」


 おれは少し顔を離して、凛音さんの顔を見た。


 やっと凛音さんの表情がちゃんと見えた。凛音さんの顔からはさっきの冷たい笑顔は消えて無くなっていた。凛音さんの黒い瞳に、おれの顔が写っているのが見えた。


「……あと、それにさ」


 じっと見つめられてちょっと恥ずかしくなったおれは、凛音さんの顔から目を逸らした。


「それに、何?」


 思わず黙ってしまったおれに、凛音さんは顔を少し上げて訊いた。おれは少しためらいながらも、凛音さんの顔に目線だけ向けて口を開いた。


「……おれ、マナカの残高、全然ないんだよ」


 今になって思い出した。改札でかざした電子マネーには、ほとんどお金が入っていなかったんだった。たぶん一駅か二駅くらいで使い切ってしまうんじゃないだろうか。


「何それ」


 凛音さんはぼそっというと、急にうつむいて肩をぷるぷると震わせ始めた。


「えーっと、凛音さん?」


 おれは急に様子が変わった凛音さんが心配になって声をかけると、凛音さんはいきなり顔を上げて「あははは!」とホーム中に聞こえるような大きな笑い声をあげ始めた。


「あははは! ちょっと待って、それがわたしの誘いを断った理由?」


「いや、違うって! おれはただ凛音さんを引き留めたかっただけだよ! マナカのことは今思い出しただけで!」


「だからってわざわざ言うことないじゃん! マナカの残高が少ないって、あははは!」


「いやそうかもしれないけど……ていうか、そんなに笑える話か!? なんでそんなツボってるんだよ!」


「ほんと、変な人、あははは……」


 凛音さんはおれの胸もとに顔を沈めると、胸もと軽くポカポカ叩きながら笑い続けた。


 だけど、しだいにその声が聞こえなくなると、代わりに小さなうめき声が聞こえ始めた。そして、熱い何かがおれの胸のあたりに伝ってくるのを感じた。


 おれはまた凛音さんの顔が見えなくなって、彼女の黒い髪だけが見えた。


 一瞬、震える彼女の頭を撫でようと手をかざしたけれど、結局ほんの少し手前で思いとどまって手をぶらんと下げて、ただただ、おれにもたれかかる彼女の身体を預けさせた。


 駅員さんに忘れ物をしたと言ってホームから出ると、おれたちはそのまま凛音さんの家の近くまで向かうバスに乗った。マナカの残高はギリギリ足りた。チャージせずに済んで良かった。


 人の少ないバスの中で、おれと凛音さんは二人がけの席に横に並んで座った。


 凛音さんの目の周りは赤く腫れていた。窓ぎわの席に座ったおれは、外の景色を見ながら凛音さんに話しかけた。


「ねえ、凛音さん」


「何? 黛くん」


「さっきは断ったけどさ、また今度、一緒にどこか遠くまで出かけようよ。その時はちゃんと準備して、マナカの中身もチャージしてさ。ダメかな?」


 おれは窓から凛音さんのほうを見た。すると凛音さんは優しい笑顔をおれに向けてくれた。


「……いいよ。また今度、一緒に出かけようね」


 バスから降りると、おれは凛音さんの家まで一緒に来た。凛音さんの家は一軒家で、家の前にある門でおれたちは別れることにした。


「改めて今日はありがとう。また明日、学校で会おうね」


 玄関の前に立つ凛音さんがおれに小さくてを振った。


「うん、また明日、学校で──」


 おれも凛音さんに向かって手を振った、その時だった。


「お姉ちゃん?」


 おれのすぐ後ろで女の子の声が聞こえた。おれは後ろを振り返ると、そこには”三ツ谷中”と学校の名前の入ったジャージを着た、凛音さんに似た女の子がいた。


「あ……お帰りなさい、琴音」


 玄関の前にいた凛音さんは、女の子に向かって言った。どうやら妹さんらしい。


「お姉ちゃん、誰なの、この人? 今日は胡桃先輩と遊びに行ったんじゃないの?」


 琴音と呼ばれた子は門の前にいたおれを追い越すと、そのまま玄関の前にいる凛音さんの前まで進んだ。


「この人のことはあとで説明するから……じゃあね、黛くん、おやすみなさい」


 凛音さんはおれに向かってそう言うと琴音さんを家の中に入れて、そのまま自分も家の中に入ってしまった。


 家の中から琴音さんの声がした。もうあいつ心変わりしたの、とか、信じられない! というこもった声がおれの耳に届いた。


 何かよくないことが起こっていることがわっていたものの、どうすることもできないおれは家の前をうろうろと行ったり来たりして、結局諦めてそのまま凛音さんの家に背を向けてしまった。


 家に帰るまでの長い道を歩く中で、おれは暗くなった空を見上げた。


 夜空にはぽつぽつと星が浮かんでいて、空の暗さに目が慣れると、少しずつさっきは見えなかった星が見えるようになった。


 あの一つ一つの星に誰かがつけた名前があって、さらにその星の集まってできる星座にも名前があるんだろう。結局、どれがどの星座なのかおれには全く判らないけれど。


 もっと寝ないでちゃんとプラネタリウムの解説を見ておけば良かったなと思いながら、おれは夜の道を一人で歩いて帰った。


 これから起こる大事件のことなんて、予想だにしないまま……


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