金の匂いが分かる男
爽やかに晴れ渡ったある春の日。道路わきに設置された自動販売機の前に屈みこみ下へ手を伸ばす男がいた。
男はしばらく探る仕草を見せた後に、陰気な声を上げるが、それとは対象的な軽やかな金属音が響く。見ると小さな十円玉が男の手から転がり落ち、地面を軽快に走る。
「おっと! あぶね!」
男は素早く転がる十円玉に足を伸ばし、踏みつけた。雑な動作に見えたが、勢いで弾け飛ばさないために注意していたようだ。足をゆっくりとどけて、動きの止まった十円玉を摘まみ上げ、しげしげと見つめる。
「あ~あ。今日はシケてやがんな。けっこイイ匂いがしたと思ったんだが……」
そう呟いて錆の浮いた十円玉に鼻を近づける。
「この安っぽい匂いは忘れる訳ねえよ」
スンスンと鼻を鳴らし、おもむろに財布を取り出しそこにしまう。雑に放り込まれた硬貨が、チャリンと硬質な音を立てる。
財布をしまい、自動販売機から興味をなくした男は、振り向き空を仰ぎ見る。
「あ~あ。どっかにイイ儲け話が落ちていないモンか」
その時、道路の反対側の雑木林の上空で何かが光った。男はそれを目の端に捉え、驚いた様子で林を見つめ、また鼻を鳴らした。奇妙な事に額からは一筋の汗が流れ落ちる。暑さのせいだろうか? それにしては、他に汗をかいている様子はない。
「お、おいおいおいおい!? な、何だよッ!? この匂いはよォッ!?」
慌てた男は、駆け足で側溝を飛び越え、柵で覆われた林へと踏み込んで行く。
「す、すっげえ匂いだッ! 今まで嗅いだこともない。……億はくだらねえ! い、いや、十億、百億、千億――」
しばらく草をかき分け、木々の間を縫って進むと開けた場所が現れる。男は相変わらずブツブツと呟きながら、突如、雄たけびを上げた。
「兆――! 五千兆円ッ!!」
興奮して鼻血を噴きながら林から跳躍したが、その下にはあるはずの地面がなかった。どこまでも暗い不気味な穴が、周囲の光も吸い込んだかのように、夜の闇の如き双眸を覗かせている。
「あ?」
男は地面の様子の不自然さに気づいて驚愕の声音を漏らすが、既に遅かった。黒い穴に着地は出来ず、身体が重力を受けて加速して行く。穴に吸い込まれた男の最後の叫びは、林ぜんたいにこだまし、木々を震わせていた。
「嘘だろォォォッ!?」
※ ※ ※
音が聞こえた。
ゴオオオっと何かの唸り声のような耳をつんざく音が。
身体は浮遊感に包まれ、他に何も感じ取れない。
内臓が、いや、血液までもが浮き上がり、今にも口から飛び出しそうだ。
口? 口。ちゃんとついているのか。先ほどからの凄まじい音から耳もあるのかもしれない。
覚悟を決めて、確かめるように口を開く。
「何だこれ? 一体どうなってる!?」
開口一番、飛び出して来たのは間抜けな問いだったが、自分の声すらも聞き取れない状態なのに気づいた。頭の中をなぞって確かに発声したと思ったが、それも不確かで開いた口内に猛烈な風圧を感じ、息をするのも忘れる。
クソッ! 目だ! 状況を確認するには目を開け!
ゆっくりと開こうとした目は、数ミリも開けないうちに強烈な力でこじ開けられる。
「うおおお!?」
落ちていた。
何を言っているのか分からないと思うが、確かに落ちている。それはもうえげつない速度で。
一瞬、世界が反転しているのかと思ったが、違う。自分の身体が逆さまになっている。
視線の先に広がる空間は、何やら怪しげな巨大な建造物と、その周囲にどこまでも広がる鬱蒼とした木々の波。他には何も見えない。
「どうなって――」
地平線の彼方に目を向けるが、霧か巨大な雲か。とにかく何かが邪魔していて、あまり遠くは見えない。首を曲げ、落ちてきた空を見上げても、雲一つない青空が広がっていて、その中心に太陽らしき眩しい輝きが見えただけだった。
どうする!? このまま落ちれば――。
死――。
頭に雷光の如く閃いた、不吉な文言を首を振り隅に追いやる。
まだだ! さっきまで五千兆円の匂いを追ってたんだぞ!? こんな訳の分からない状況で死んでたまるか!
「そうだ――!」
匂いだ。匂いをかげ、風なんて関係ない、物心ついた頃から、この匂いはずっと共にあった!
「金の匂いだッ!」
鼻を鳴らし、意識を集中して行く。
感じる。あの五千兆円の匂いは、もう感じない。だけど、別のイイ匂いがそこら中に溢れている。
カッと目を見開き、その正体を探る。
「へ?」
徐々に近づいて来ていた、その匂いの正体は、巨大な得体の知れない怪物だった。
黒い翼の生えた巨体が、目の端に見えたが、それもすぐに覆い隠されてしまう。こちらへ伸びてきた十メートルはありそうな巨大な頭部のせいだ。
「や、やめろォォォ!」
巨大な口が開かれ、その奥の臭気ただよう暗い空間が目に入った。そして、瞬きもしないうちにそれに呑まれていた――。
「うぐっ!」
吸い込む勢いが強かったからか、牙に引き裂かれずに済んだが、喉の奥の骨ばった部分に叩きつけられて、怪物の首の中で痛みに呻きながら、ボールのように飛び回る。
「あがっ!」
痛い、骨折したんじゃないか?
体のあちこちを触って確かめようとするが、怪物が態勢を変えたのか、喉の奥が真下になり、わずかな肉壁の取っ掛かりにしがみつき、胃袋への落下を避ける。
「クソッ! ツミじゃねえか! どうすりゃ!」
ぶつける相手もいない虚しい怒りが空を切り、それが徐々に絶望へと変質していく。
怪物の体内に唾液らしき液体が流れ落ち、それが必死にしがみつく手にまとわりつき、握力を鈍らせる。それと同時に、呼吸らしき空気の流れが静かに身体を揺さぶる。もう落ちかけている状態では、そよ風のような呼吸もトドメとしては十分に思えた。
「まずっ! もう手が――」
いや、匂いだ!
ここでも匂いがする!
鼻に意識を集中し、その匂いの元を辿る。もう幾ばくの猶予もない、だが、それだけが頼みだった。
しばらくして、怪物の肉に包まれた首の骨が浮き出した一部から、強烈な匂いが漂って来ているのに気づいた。
「あそこだ!」
あそこ、体内だけど、骨が透けそうなくらいに浮き出してる。何かあるのか……?
そこは喉の空洞の数メートル離れた場所にある。必死にしがみついたこの態勢では届くはずもない。
その時、再び怪物が態勢を変えたのか、天地がひっくり返り、気づいたときには手は離れ、真っ逆さまに落ちていく。
「まずい!」
だが、千載一遇の好機でもあった。素早く視線を巡らせ、先ほどの位置を探す。
「あった! ここだッ!」
もしも、視覚にだけ頼っていたならば、見つかる事もなく、そのまま胃袋へと落ちていただろう。
「だがなァ――」
俺にはこれがある! プンプン漂ってやがんぜ! 濃密な金の匂いがよォ! これが何を示すのかは分からねえ!
「今できることをやるだけだ!」
思い切り伸ばした手は、体内の肉をつかみ、それを引き裂き、骨を露出させる。落ちそうになるのを慌てて伸ばしたもう一方の手で堪える。すると、さらに肉が裂け、首の骨が内部から露になっていく。噴き出した血液が身体を伝って行き、拍動に合わせるようにリズムを持って溢れだす。
「グオオオッ!」
突如として、喉の奥から猛烈な風と共に、悲鳴のような雄たけびが聞こえ、あまりの声量に両耳を塞いだが、そのはずみに骨の露出した窪みから飛び出してしまう。
「うあああ!」
また落ちる――!?
だが、そうはならなかった。怪物は苦しみ、悲鳴をあふれんばかりに吐き出し、それと共に、再び明るい光が見え、唾液と血液まみれの身体は、空中に飛び出していた。
「落ちたらさっきの繰り返しだろッ!? いや――」
吐き出された先は、木々の密集する場所の上部だった。顔面から突っ込んでいくのを両腕で防御し、枝葉の堅い衝撃に迎えられる。
「いってぇ! もう匂いどころじゃねぇ!」
幾つかの木の枝をへし折った先で、最後の一本がしなり、折れる寸前で止まり、身体中に擦り傷を負ったまま近くの地面に尻から落下した。
「ぶへぇ!」
尻の骨にまで響いた衝撃と、鈍痛で身動きひとつ取れず、座り尽くすが、自分が転がり落ちて来た騒音を何者かが聞きつけたのか、近くの木の陰からヒトの声らしきモノが耳に届いた。
「なんだ? 外国語……? 全く聞き取れねぇが、人語っぽいぞ」
しばらくして現れた連中は、確かにヒトの形をしていたが、獣か鳥の羽毛などを毟り取ってあしらった、奇妙な木目の浮かぶ仮面をつけ、胴体はほぼ剥き出しで、手には槍を持っていた。
「なんだ――こいつら?」
一転して雲行きが怪しくなり、その場は緊張に包まれた――。
やっほ~。猫だよ~。他のお話も是非読んでね!