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異世界スピノ ~恐竜に生まれ変わった私はスローライフを希望する~  作者: SIS
闇の獣

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第64話 先生落ち着いてくださいな


 さて。それにしても、我が家にオルタレーネ以外を招くのは初めての事だ。


 記念すべきお客さん、という事ではあるが、いくつか注意しなければならない事がある。


 湖の深さは軍艦が自由に動き回るには十分ではあるが、この辺りは湖底に神殿の遺跡が多数沈没している。事実上の岩礁であるそれらに軍艦が乗り上げれば行動不能に陥る可能性がある。このあたりはザリガニがいない比較的安全な水域とはいえ、何百人も滞在できる訳ではない。


 危険は冒さないに限る。


 私は軍艦の前に出ると、両手でバッテンマークを作った。この世界でもこういうジェスチャーはなんとなく通じるのは確認済みだ。


 私の合図を見て、ゆっくりと軍艦が減速し、停止する。甲板にわらわらと兵士達が出てきて、なんでなんでと水面を覗き込む。私の指示を疑うのではなく、何か根拠があっての指示だと分かっている反応だ。これもなんだかんだで、現地住民との間に信頼関係が築けてきた、という事なのだろうか。


「●■×!」


「■●★!」


 湖の澄んだ水のおかげで、湖底にいくつもの廃墟が沈んでいるのが良く見える。兵士もすぐに私の言いたい事を理解してくれたようで、ガヤガヤとしながらも錨を下ろし、小型ボートの準備を始めた。軍艦の艦上構造物の後ろに括り付けられていた小さなヨットのような船体を湖に放り込み、梯子を下ろして数人が下船してくる。


 万が一が無いか見守っていたが、足を踏み外して落水する者はいないようだ。もともと森の民なのに、結構手慣れた様子で準備を進めていくあたり、彼らが日ごろから訓練を怠っていない事が伺える。ウォールランド王国の、湖横断の野望は思っていたよりもはるかに熱量が高かったようだ。前世でもそうだったが、霊長というのは不可能とされる自然の要衝の突破に人生かける傾向があるよね。何十年もかけて岩山に直通トンネル掘ったりするし。


 まずは安全確認という事だろうか、手練れの兵士らしき雰囲気のメンバーがヨットに乗り込んだのを確認し、私はゆっくりと前進を開始した。


「スピノ■、●★先■●★」


 その頭上を、パタパタとオルタレーネが飛翔し先導してくれる。空を飛ぶ彼女の影を追うと、その先に水面に顔を出す巨大な四角錐状の構造物が目に入る事だろう。背後でその異様を目の当たりにした兵士達が感嘆の声を上げるのが聞こえた。


 ヨットをひっくり返さないよう、ゆっくりと波を立てないように泳いで我が家に向かう。と、水面にいくつかの巨大な背びれがにょきっ、と波間から顔を出した。背後で兵士達が俄かにピリリと緊張する気配があるが、私は苦笑して大丈夫大丈夫、と手を振って合図した。


「グルルル」


 言うまでもなく、背びれは最近顔なじみになった魚達だ。今日はお留守番していた彼らだが、急な来客にびっくりして見に来たのだろう。


 心配する事は無い、ちょっとあっちいっててくれるかな、と身振りで示すと、しばらく考え込んだような硬直の後、彼らはちゃぽん、と水中に姿を消した。透明な水の中で、深い所に身をくねらせて泳いでいくのが見える。やっぱり彼ら、知性相当に高くない?


「■●……」


「★■●?」


 兵士達が何かザワザワしてるが、何言っているか分からないので気にしない事にしよう。もしかすると私と同じように、意図を介する魚の賢さにびっくりしているのかもしれない。


 何事もなかったように前に進む私に、ちょっと遅れてついてくるヨット。やがて、彼らは水上神殿の麓へとたどり着いた。


 小さな錨を下ろし、ヨットを固定すると、兵士達はおっかなびっくり、水上神殿への上陸を開始した。安全に水上に出ている階段に脚を下ろす者、じゃぶじゃぶと水に飛び降りて水面下の階段に脚をつけるもの、性格が出ている。個人的に水中の足場は危ないから、ちゃんと乾いた足場に降りた方がいいと思うけどな。


 そんな彼らを、オルタレーネが出迎える。ぺこりと頭を下げて挨拶する彼女に、兵士達も慌てて兜を取って頭を下げた。うん。見知った中でも挨拶は大事、だね。


 さて。我が家の出迎えはオルタレーネがいれば十分だろう。見た所、ヨットで往復しているととんでもない時間がかかりそうだ。ここはちょっと私が一肌脱ぐべきか、いや服なんか着てないからすっぽんぽんだけどね私。


 …………改めて意識するとちょっと恥ずかしくなってきたぞ。


 しょうもない事を考えつつも、私はヨットの錨を咥えると、そのままひっぱって泳ぎ始めた。人が乗っていないから、波とか速度とか気にしなくていい。


 ザババババー、と水をかき分けて軍艦の元に向かう。途中でちらりと振り返ると、兵士達が神殿の上の方から目を凝らしてこっちを見ているのが見て取れた。さしずめ早ーいとか言っているのだろうか。うふふ、今の私なら本気を出せばこの倍は出せるぞ、そこまでやったらヒモが千切れるかヨットが転覆するのでやらないけど。


 軍艦の所に颯爽と戻ると、待ちかねていました、といった具合で学者先生が身を乗り出していた。それを必死に回りの兵士が押しとどめていて、なんとなく状況を察した私は苦笑いをした。


 うーん。熱意があってよろしい事だが、あの様子だと見張っておかないと遺跡を全部ひっくりかえし始めそうだ。現地住民の文化レベルや風俗を顧みても、それで歴史学者やってるって事はそうとうなもの好きだろうしなぁ……。最初に兵士をまず送り込んだの、安全確認のためもあるけど学者先生の暴走に対する備えっぽいなこれ。


 とりあえず激しい運動は不慣れそうな学者先生の為に、私はヨットを抱え上げて甲板まであげてやった。怪我をされても困るしね。






 案の定、水上神殿にたどり着いた学者先生の興奮はMAXといったところだった。到着するなりヨットから飛び降り、二足歩行を忘れてしまったかのように這いまわって匂いをくんくんしている様子は野生に返りすぎといった感じではあったが、歴史学ってのは野生とは程遠いはずである。遥か昔の歴史に触れて、太古の本能がよみがえった、というにも、この神殿の壁画を見る限り大半はその頃にはすでに二足歩行だったっぽいしなあ。単にテンション上がりすぎて歩き方忘れたって感じだろうか。


 慣れた様子で兵士達が先生を拘束してるあたり、まあいつもの事なんだろう。どっかいかないように縄でぐるぐる巻きにされてるが、それでも興奮冷めやらぬといった様子でふんがふんが言ってる。


 ちょっとオルタレーネがドン引きしているが、気持ちは分かる。うん。


 ちらりと兵士の一人と目が合ったが、彼は深く暗い目で乾いた笑みを浮かべていた。ご苦労様です。


 大興奮の先生を軒先に文字通り吊るし、兵士達と共に礼拝堂に入る。


 途端、感嘆のような声が漏れた。この世界の歴史について思い入れがない私でも、ここに飾られている壁画や彫刻には見入ったのだ。現地住民なら猶更感動も一塩だろう。


 壁画、というか彫刻は保存のために布を被せておいたのを取り払い、オルタレーネが少し埃等を掃除してくれている。おかげで色あせていながらも悠久の時を越えてきた芸術が、壁一面にひろがっているのがよく見える。


 ここの生活環境が改善したのはつい最近の事だが、それに伴い掃除なども行き届いたので、初めてここに来た時と大分雰囲気が違う気がする。


 ……というか、当時は仕方なかったとはいえ歴史的遺産に棲んでるとか大分罰当たりだったりしないかね私。いや、前世でも居住権を持ってる住人が普通に棲んでる歴史的遺産とか、あったりはしたが。あったよね? なんかこう古い屋敷とかそういうの。


 とりあえず最近は屋内で焚火とかも控えてるし……。いやでも礼拝堂で焚火なんかがそもそも論外か?


「■●★」


「●■、スピノ●。★、▲■●。●棲★、▲」


 傍らで控えているオルタレーネと兵士が何ごとか話している。と、彼女に連れられて兵士一向が壁画巡りのような事を始めた。ああ、順番がよく分からなかったのね。オルタレーネは勿論、ここの壁画には恐らく世界で一番詳しいから、ガイドとしては適任だ。言葉の分からない私と違って、彼女は文字が読めるもんね。


 言葉が分からないなりに彼女に教えてもらいもしたが、最初に私がだいたいこうじゃない? と目測したのと話はそう変わらないようだ。あとは、細かい解説があったようではあるものの、そこについては私はよく知らない。


「●★!」


 と、その一向の中にいつの間にか歴史先生が混じっていた。え、と振り返ると、外につるしてあった彼の代わりに、千切れたロープがぷらぷらとしている。ええ、あのナリで縄を引き千切ったの!?


 暴走すんにも程があるだろ、と慌てて先生の挙動を確認するが、しかし彼は手にした粘土板? に何か楔型文字みたいなのをめちゃめちゃ刻みながらも、オルタレーネにどうやら質問の嵐をぶつけているだけのようだ。メモ片手に教授にメッチャ質問する学生みたいである。


 いやしかし、あれ、この世界で一般的に使われてる文字じゃないよな……。なんだろ、あの先生ここら辺の出身じゃないのか? めちゃめちゃ細かく刻んでるし何かの圧縮言語だろうか。


「●★■、●」


「★! ▲■! ●★■!? ●★!!」


「●……? ★、■●……境●剣? ●■……」


「●■■★▼●★▼■!!!!!」


 テンション高く質問をしていた先生が、何事か世紀の大発見、といった感じでブリッジしながらのたうっている。それでもメモは続行しているのでなんていうか、まさに奇人である。あまりお近づきになりたくない。応対していたオルタレーネの笑顔も引き攣っている。


 正直、オルタレーネの教育によろしくないのでご退場頂きたくなってきたのだが……でもまあ、一線を越えた識者っていうのはだいたい変人だしなあ。そうでなきゃ越えられない線というのもあるし。


 しかし、何をそんなに興奮しているのやら。


 壁画は……あれか。双子女神の争いの終わり、神が昼と夜の間にさらに線を引いてるやつか。太陽の浮かぶ昼と、月の浮かぶ夜の間に、神らしき人物が“剣を使って”文字通り線を引いている、という構図だ。この壁画に、既存の歴史解釈にはなかった新しい解釈でも書いてあるのだろうか?


「グルル……?」


 ちょっと興味が湧いて、件の壁画をまじまじと観察してみる。先生はというと、某悪魔祓いの映画みたいにブリッジしたままそこらを這いまわってメモを続けている。よほどの新発見だったんだろうけどちょっと落ち着け。


 ん?


 改めて観察していると、ちょっとデジャヴ。神様の持っている剣、よーく見たら何か覚えがある。いや、当初は埃をかぶって色あせていたんだが、それを払って磨いたおかげで色合いが少し戻っているんだけど、この金とも銅とも言い難い色合い、最近見たような気がするんだよ。


 えーと、確か……。


 私は壁際によせてある発掘品の元に向かうと、ゴソゴソと品を確認した。ここには、水中から引き揚げたのは良いものの保存状態が悪かったりして手が出しようがないのを纏めていて、今日の調査で引き取ってもらう予定だったのだが、その中に一つ、壁画の剣と似たようなのが描いてあったのを思い出したのだ。壁画の方は最近布を被せていたせいで見てなかったから、同じ物が描いてある事に気が付かなかった。いやだって、よく知らない宗教の壁画を見たって綺麗だなあ、以上の感慨ってあんまり湧いてこないものじゃない?


 と、あったあった。


 拾い上げたのは、以前水中から拾ってきた石碑の欠片。表面に顔薬で何か描いてあったのだが、びっしりと藻が生えそろって何がなんだか分からなかった奴である。あの後、日陰で干していたのだが、最近になってやっと表面に生えていた藻が枯れ切って何が描いてあるのか辛うじてわかるようになったのだが、そこに描かれている絵、この壁画の剣と同じじゃない? ただの顔料じゃない、金属っぽい色合いの独特な彩色も一緒だ。見た所、文字も一緒に刻んであるし、より詳しい解説か何かなのかも。


「グルル……グヴァ!?」


「■●▼……」


 これどうですかねえ、と渡そうとする前に、気が付いたら学者が私の股を潜って石碑の欠片を観察していた。目ざといというかいつの間に。まあ、説明する手間が省けたともいえるが。


 学者先生は手袋で慎重に欠片に触れながら、しゃがみ込んでルーペでその表面を角度を変えながら熱心に観察している。その手つきと熱意が、どことなーく前世の骨董品鑑定番組でも鑑定人の仕草を思わせた。でもあの番組、前振りが長いと大体偽物なんだよな。


 そんな事を考えながら様子をうかがっていたが、結論はすぐに出たようだ。


「●■! ▲●! フォォオオオオウ!!」


 何事か叫び、ついには私にわかるレベルの原始的な遠吠えを上げながら先生が突如立ち上がった。彼はその場で興奮のあまりぴょんぴょん跳ねると、そのままの勢いに走り回り、同行したメンバーに片っ端から握手を始めた。


「●■! ▲●!!」


「●……■? ▲?」


「▲●! ■●! ●▼■!!」


 ブンブン腕を振り回される相手が訝しむ顔をしているのにも構わず、テンション高く何かを口走っている学者先生。何いってるかさっぱりわからないが、どうやら私の拾ってきた石碑は世紀の大発見の一助となったようだ。


「スピノ●、良■▼●」


「グルル……」


 オルタレーネがニコニコしながら「よかったですね」といった感じで声をかけてくる。良かった……まあそうだな。何かしらの助けになるかもしれない、と大事にしておいた欠片にそれだけの価値があったのなら、私の考えは無駄ではなかったという事だ。


 もっといえば、湖の底に沈んでいる石碑の欠片なんて、スピノサウルスである私でなければ拾ってこれないようなものなのだがから、仮にこの水上神殿を現地住民が発見する事があったとしても、その発見と解析は大きく遅れる事になったはずだ。その失われるはずだった時間を私のおかげで埋める事ができたのなら何よりだ。


 と、少し落ち着いた学者先生が私の元に小走りで駆け寄ってきた。鼻息も荒く、石碑と湖を交互に指さしながら何ごとか問うてくる。


 勿論、意味合いは分かっている。これでも前世で高等教育を受け、歴史においてあった色んなポカについても学んできたのだ。言いたいことは分かる。


 この石碑が、どこに沈んでいたか、だろう? 勿論ちゃんと覚えている。


 そのあたりに抜かりはない。


 他ならぬ恐竜の化石自体、現地住民が小遣い稼ぎにお土産として売り出した経緯で新種が発見される事がある。ほかならぬスピノサウルスがそうだった。が、考えなしに技術も道具も無い住民が適当に掘り出すせいで、どこで取れたのかとかが分からず、全身骨格の発見が遅れる、あるいは失われるといったしょうもない顛末は恐竜好きなら耳にタコができるぐらい聞かされる不幸話だ。


 それを知っている私が、勿論他の石碑との関連性を考慮していないはずもない。


「グルルゥ」


 まかせろ、と胸を叩き、湖に向かう。とことこついてくるオルタレーネを連れて湖に身を沈めて私自身がボートとなる。


 全く臆する事なく背中に飛び乗ってくる先生とオルタレーネの二人を伴って湖に繰り出した。神殿に残った兵士達が「大丈夫かなあ……」といった顔で見守ってくれたが、大丈夫大丈夫、無茶はしない。


 水底を確認しながら、目的の場所にやってくる。水面下では沈んだ廃墟の投げかける影の下で、石碑が崩れて出来た小山がある。びっしりと藻が生い茂るそこから、私はあの石碑の欠片を回収してきたのだ。


「グルルウ」


「■●場所●■★」


「●■!!」


 ここだよ、とジェスチャーをすると、オルタレーネが先生に意訳してくれた。先生は目をまんまるに見開いて私の背中から身を乗り出し、水の中を覗き込んだ。その視線が水中の瓦礫の山を目にして、キラキラと光り輝いているように見える。なんかこう、好奇心と冒険心が小さな体からはみ出しているようだ。


 苦笑しながらその様子を見ていると、先生は想定外の行動にでた。


 シュポポン、と衣服を脱ぎ捨てる。一切の布を脱ぎ去ったその姿は、直立するフレンチブルドッグの老犬そのものである。ところでこの状態、人間と同じ全裸判定でいいのだろうか。


 私とオルタレーネが唖然にとられている間に、先生はおいっちにっと準備運動をすると、そのまま華麗なフォームで湖に飛び込んだ。じゃぱん、と小さな着水音と共にその姿がみるみる湖底に潜っていくのを見てようやく私も我に返る。


「グ……グアォ!? グアグゥ!?」


「●、スピノ■待★! 私●★▼!」


 ど、どうしようとオルタレーネと顔を見合わせると、彼女はコクンと強く頷き、翼を広げて神殿の方に引き返してく。人を呼んできてくれるようだ。となると私は先生が浮上してきた時のためにここに残るしかない。


 いっそ潜って引き上げるか、と思ったが、水中はもう先生が瓦礫の山に手をかけた影響で砂が舞い上がり、非常に見通しが悪い事になっていた。このあたりの砂は長期間にわたってみがかれ非常にキメが細かい、何かの拍子に舞い上がれば向こう側が見通せない煙幕のようなものだと、私自身ザリガニとの激闘で身に染みてしっている。


 うかつにつっこんで先生を引き潰したりしたら目も当てられない。ここはおとなしく戻ってくるのを待つしかないだろう。ていうか、もうちょっと慎重に探索しなさいよ、貴重な遺物が失われたりしたらどうするのだ。


 しぶしぶその場で待っていると、潜っていった時と同じように唐突に、水面に小さな影が顔をだした。


 ……毛が濡れて人相が変わりすぎているが、多分、学者先生だ。人騒がせな、と思いながら手をふる先生に近づいていくと、先生は満面の笑みを浮かべながら、何かを私に差し出してきた。


「●■!! ★★★!!!」


「グルゥ?」


 なんぞこれ。……何?


 私は訝しみながら、先生の差し出してきた物を受け取りつつ、早く背中に上がるよう促した。鱗に爪を立てて這い上がってくる先生が湖に落ちないようサポートしつつ、受け取った物にチラリと視線を落とす。


 それは鞘だった。


 唯の鞘ではなく、永い間水中にあったにも関わらず、錆も汚れも傷一つない。


 まるで今、職人が仕上げたばかりのような輝きを放つ、黄金とも真鍮とも違う色合いのソレ。




 銅の鞘。




■■


 禁則地から東。サハラの湖から見て北西の山脈。


 うっすらと雪が掛かるその山脈は、あまりに激しい断崖絶壁により、人も獣も寄せ付けぬ天然の要害であった。地図を見ればわかるが、この山脈が人類の生存領域に楔のように深く切り込んでいるのは時に不運であり、時に幸運であった。この山脈を回避しなければならない事で交易に大きな損益を与える一方で、ただ本能に従って大陸を横断しようとするだけの魔獣に対しては大きな足枷となるからだ。


 そんな渓谷の合間に、一匹の魔獣が隠れ潜んでいた。


 その名は“激流と暴風の主”。上半身は屈強な猛禽類の姿でありながら、下半身は毛一つ生えない黒光りする肉厚の皮膚がむき出しになっており、でっぷりとお腹とお尻をまるまると太らせているという奇妙ないで立ちが特徴だ。異世界の知識を持つスピノがその姿を見れば、「ヒポグリフ……いやヒポポグリフか?」といったコメントを残したであろう。


 そんな彼だが、ある極めて稀な特徴を有していた。


 彼は、己が振舞いを自重する事が出来たのだ。


 多くの魔王級魔獣は禁則地に封じられても、憎しみと恨みを募らせるだけで一切己が所業を省みる事が無かったのに対し、この魔獣は、少しばかり己の行いを恥じる余地があった。


 勿論、真に反省したという事はなく、依然人類に対し害悪であるのは変わらないが、少なくとも自分達が「やりすぎた」という事は理解するに至ったのである。


 故に、禁則地を抜け出す事が出来ても人里に降りる事なく、この人気のない山脈に居を移した。以降、時折抜け出して近隣の動物をエサにするほかはこの山脈に身を潜め、慎ましく暮らしている。さらには同じように抜け出し、しかし人界に向かった同類達が悉く絶息する気配を悟るにいたって、彼は己が神に見逃されたという確信を得る。


 よって彼は少なくとも人に迷惑をかける事はしまい、と考えていた。


 それは例え自己保身の為であってもレイストフや神が願って叶わなかった魔王達の更生であり、彼らの願いが成就した結果でもあった。


 しかしながら、最近、そんな彼の平穏な生活を脅かすものがあった。


 今も、彼は恐る恐る、その元凶の様子を伺おうとしている所である。


「ケケケ……」


 大地に刃物で切りつけたように深く刻まれた渓谷。その谷間の底、岩陰に身を潜めるようにして、ヒポポグリフはそっと顔を出した。万が一にも相手にこちらの存在に感づかれては事だ、十分すぎるほどの距離を開けてはいるが……しかし、どれほど距離を置いても安心できる事はない。


 谷間の底は太陽の光も届かぬ影の世界。その暗闇の中で、なおはっきりとわかる“黒”がある。この世全ての光が吸い込まれてしまうかのような深淵が、谷の底に留まっている。明らかに尋常の存在ではない。


 かといって、ヒポポグリフの同類……魔獣ではない。魔獣とて生き物だ、あくまで神気の不法使用と高い知性、長年を生きた事による成長した巨躯を持ち合わせていても、生物のくくりを越える事は無い。


 だが、あれは違う。あの闇は、心臓の音もしないし、血潮の熱も感じない。まるで石のように、ただそこに留まっているだけだ。魔獣の中には植物型もいるが、あれだってちゃんと生き物だ。あんな……動く死体のような存在ではない。


 断言できる。あれはまっとうな生き物ではない。


 だからといって、何か、と問われるとヒポポグリフは答えられない。魔獣ではない、ならば神獣か、と言われるとやはり違うような気がする。神獣は確かに、神が自ら生み出した生物の形をした奇跡であり、生き物とは少し違う存在ではあるが……しかし、石や氷が神獣として生み出されたという話も、聞いたことが無い。


 では一体なんなのか、答えは無い。ただ、それが酷く恐ろしい存在であるという事は、ヒポポグリフは誰に教わるでもなく理解していた。


 なにせ。禁則地の封印を破ったのは、その闇なのだから。


「ケケ……」


 禁則地の封印を破った後、その闇はしばらく禁則地近隣に佇んでいた。だからこそ距離を置き、この山脈に潜んだというのに、まさかここに闇が現れるとは。


 まさか自分の事を追いかけてきたんじゃないだろうな。頼むからどっかにいってくれないかな。ヒポポグリフが願いを込めて見つめても、それはぴくりともしない。


 とりあえず、今の所それに動く様子がない事を確認して、ヒポポグリフは恐る恐るその場を後にした。





 闇は身じろぎもせず、ただその場に佇んでいる。





■■



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