約束
今更だが、シーリアの趣味は、俺に近い。
彼女に勧められた本がはずれだったことはないし、音楽でも、料理でも、共通した好物はとても多かった。
偶然の一致か影響を受けているのかは定かではないが、シーリアが好むものは、大体好ましく思う。
つまり、彼女の愛する屋敷の居心地は、本当に最高だった。
起きてシーリアと共に朝食を摂って、昼か夕方まで本を読む。誘われれば森や近くの町まで散歩に出かけ、夕は好きなだけ夜更かしした。昼過ぎに目が覚めて、おはよう寝坊助さん、と笑われたのも1度や2度ではない。
アーデンに来る前は、こうではなかった。誰も訪れることの無い書庫やひたすらに王子として扱われる公務のなかで、シーリアが連れ出してくれる2週間に1度を待ち望んで指を折って、その日になっても夕方になれば、1日とはこんなに短いものだったのかと進む秒針を疎んだ。
だから、良かった。
おやつに出たパウンドケーキの残りを深夜に2人で切り分けたのも、カトラリーの使い方を見せるためだけにフルコースのプレートに載せられた、食器と比べると素朴な夕食も、王都では出会えない獣人や魔族に関わる書籍の部屋も、分からない所があればすぐに教えられるからと、その部屋にずっと彼女がいた、秒針と紙が捲る音だけの時間も。
穏やかに時間は過ぎた。何もかもが楽しかった。同じ屋根の下にシーリアもいる。そう思うだけで、夢に落ちる間際の微睡みすら、価値あるものに思えた。
こちらの屋敷に滞在するようになってから、シーリアの家族も、幾度となく屋敷を訪れた。
彼女の父に、シーリアを宜しくお願いします、と頭を下げられたのは、月の終わりが近づいた頃だった。
シーリアはメリーと街に遊びに出ていて、屋敷には男2人しかいなかった。ここでの生活を聞かれて、余りの人の多さと次々と花を手渡される事に辟易して彼女を連れて逃げ回った花祭りとか、自慢の万年筆のコレクションを見せられて自慢話を1時間近く聞かされ続けた事とか、シーリアが祖父の日記を見つけ、この屋敷にとても希少な本があると書かれていたから日記を頼りに屋敷中駆けずり回って探したことを話したら、静かに聞いていた彼は、殿下は穏やかな表情をされるようになりましたな、と顎髭を撫でながら呟いた。
「初めて殿下にお会いして無視された時はこの婚約を組んだエヴァンズ公爵をぶん殴ってやろうと思いましたが、こんなに仲睦まじくなるとは驚きました。……至らない所も多いとは思いますが、優しい、自慢の娘です。どうぞ、よろしくお願いいたします」
深々と下げられた頭に、けれど、認められたのだと理解する。
国の事情や第二王子の身分関係なく、俺が。いつか義父となる、この人に。
胸が詰まる。こちらこそ宜しくとか、娘さんをくださいとか、いやまだ結婚まではあと5年あるのだし、とか。碌に返事も返せない間に、彼は言葉を続ける。
「来年、アーデンに訪れた際には是非、伯爵邸でもお過ごしください。メリー1人では手の届かない部分もあるでしょうし、殿下が好みそうな本を用意しておきますから」
いくら家に本を揃えても、あの子は整理と言ってみんなここに持っていってしまう。全く困った娘です。
ほんの少しも困ってなさそうに、そう、瞳を細めて笑いかけられる。
ずっとシーリアは、母親似だと思っていた。けれど笑った顔は父親に似ているのだと、初めて気づいた。
「……誰よりも、大切にします」
それだけは、声を振るわせる事なく応える。
開け放した窓から風が流れ込んで、2人の間の空気を揺らす。彼女に似た笑みを作った彼は、娘の婚約者が殿下で良かった、とそれだけを返した。
磨かれたガラス越しに、メリーと並んで帰ってくる、シーリアの姿が見えた。
楽しい1月になるとは思っていたけれど、こんなに多くの物を得られるとは思っていなかった。知っていた筈の空も、海も、人も、何もかも新しくて、新しい価値を知った。
ここに来れてよかったと、心から思う。
ふわふわと浮かれながら3人で食事を摂って、ベッドに潜り込む。
素晴らしい日々だった。だから、期限である月の終わりが近づいている事にも、彼が言っていた来年という単語にも、気づかないふりをした。
§
「おはよう、ヴェルシオ」
「…………………………」
「ヴェールーシーオーーー」
「………うるさい」
「あ、こっち見た。おはよう」
どこか愉快そうにベッドに腰を下ろして布の塊をつつくシーリアを、寝具にくるまったままで睨みつける。思いのほか不愛想な声が出たのに、彼女はほんの少しも表情を変えなかった。
いつもなら親しみを覚える笑みが、いまは胸奥に靄をかける。
どうして笑っていられる、と白い指に八つ当たりしたくなる。今日はアーデンで過ごす、最後の日なのに。
昨晩カーテンを閉める間際目に入った月は、一本の線のように細かった。当然のことなのに、滲むように輝くそれのことばかり考えたせいで、ろくに眠れなかった。
明日の午前にはヴェルシオは王都からの迎えの馬車に乗せられて、そうしてまた、気軽には会えない日々が始まる。
「体調は悪くないよね?ごはん取ってもらってあるけど、持ってこようか」
「……気分が悪い」
ここにいたい。
本音は口に出せなかった。けれど愛想のない弱音を吐いて、白いシーツに顔をうずめる。
一拍の後、伏せた頭を撫でられる。彼女だと、見ずとも分かった。
「……ここでの暮らしは、楽しんでくれた?」
いつもと変わらない、けれどいつもより優しい声。小さくうなずくと、よかった、とこぼれるような言葉が落ちる。
「君が喜んでくれればいいって、それだけだったから。」
大体144時間。それが1年、8760時間のうちに俺に与えられた、シーリアとの時間だ。朝11時から夕の5時までの6時間、それが月に2回の、24回。
あの園遊会の前、シーリアと親しくなるまでは、随分と長いと思っていた。本を読むとはいえ退屈だから長く1、2時間で切り上げたいと考えていた、そんな自分を殴ってやりたい。
寂しい。
それも口には出さなかったのに、彼女には伝わったようだった。
「私も寂しいよ。本の話も、万年筆の話も、1日ずっと話せる人は少ないから」
「……万年筆は、1時間で俺も飽きてた」
ええ?酷いな、と柔らかい声が落とされる。ほんの少しも酷いと思っていなそうな口調に、ここに居たい、と初めて口に出せた。
「ずっと、傍にいたい」
口に出してから、やっと理解する。彼女が王城にいるのでも、俺がアーデンに訪れるのでもどちらでも良い。この素晴らしい屋敷も穏やかで眩い日々も、ともに居られることに比べれば重要ではない。
彼女がいるから、ただの時間に、日々に、価値が生まれる。
「私も。……約束しようか。君が望む限り、傍にいるって」
だから泣かないで、ヴェルシオ。
再来年には学園に入るから、学園でならもっと寂しくさせないから。だからあと少し。
忘れないで、君の幸せを願っている。
ね、と降り積もるような言葉がおちて、もう一度頭を撫でられる感触がした。
この手だったな、と思い返す。園遊会で庇うために抱きしめられたのも、外の世界に連れ出してくれたのも、視界に入らないあいだ、ずっと焦がれているのも。
さみしさが溶けて、埋まっていく。小さくうなずくと、それじゃ行こうか、と手を引かれる。
「楽しもう。このひと月の最後の一日、これから長い人生の、たった一日を」
重かった足が、シーツを離れる。
まばゆい日差しの中、木張りの廊下を踏みしめて、彼女は俺の手を引く。
決して手は離さないように、指の腹で円い爪先をなぞる。
暖かい。優しい。俺の知る中で、1番いいもの。
けれど。
きっと、このぬくもりも言葉も、なにもかもが劇薬だ。
知らなかったころには、もう戻れない。