選択
謁見の間で、随分と久しぶりに国王の顔を見た。
敷かれた深紅の絨毯、それより薄い赤と金細工を用いた、唯1人のための豪奢な装い。角ばった手が肘掛けの上でゆっくりと握られる。
そうか、と王は呟いた。
「お前はそれを選ぶのか、…………選べるのか」
「そうか」
先ほど必要な書類に印を捺した。老いた父を、座ることのない玉座を見上げる。
「寂しくなるな。……いつでも戻ってこい」
膝をついたまま、深く頭を下げた。彼の望む形でそうなる日は来ないと知っていた。
「ヴェルシオ様!」
部屋を出て、石造りの廊下で若い声に振り向く。輝くような金糸の髪と、同じ瞳の色の少年がそこにいた。
王城で顔を見る機会の増えた、王弟の息子。走ったからか、年下の従兄弟はヴェルシオに辿り着いたあと、肩を上下させて呼吸を整える。
王族の証である金の瞳を持つ、いつか王冠を押し付けようと考えた少年。次の王はやはり、彼になるらしいと聞いた。
「ヴェルシオ様、俺―――この国はこれから、大きく、おおきく変わると思います!」
何度かの深呼吸のあと、彼はヴェルシオを真っ直ぐに見据えて、唐突にそう口を開く。
ヴェルシオよりよほどオーランドに似た容姿。けれど利発そうな瞳の奥には、思慮深さが伺えた。
「既に人間以外が暮らす国と少しずつ交易を開始していますが、ラフィンツェが政をしなくなったことで、この国はこれからより人間以外を知るでしょう。いつか王都で獣人が当然のように買い物をし、魔族の日常が、王都の子供の手に届く物語になります。我々の無知が侮られ蔑まれることも、逆に誰かを傷つけることもあるかもしれません。
それでも未知を拒んでは、知ることをやめてはいけないのだと思います。この国が世界に置いていかれないように、そのせいで民が不利益を被ることのないように。ーーー俺は、この国が大好きです!」
王や貴族ではなく民が政をする国も、我々が知るよりずっと多いのだと聞きました。世界を知って、この国から王がいなくなる日も来るかもしれません。けれどその時は、それで良いのだと思います。民のための国で、民のための王です。何が起きても何度だって、俺はこの国のために尽くしましょう。
そうして兄さま達のことも大好きです!と頭2つ小柄な少年は笑う。かならずヴェルシオ様とオーランド様が安心できるような王になって見せますから、と晴れやかに。
「……お前は良い王になるよ。俺なんかよりも、余程」
手を伸ばす。頭を下げる代わりに金糸をくしゃりと撫でた。大して関わったことの無い少年だ。ヴェルシオよりよほどオーランドと仲が良くて、けれど挨拶したときにはいつもにこにこと笑いかけられた。
国を愛したことはない。今も離塔に行った彼女が、早く戻ってこないかとばかり考えている。
それでもこの少年の未来に、光があることを願った。
∮
全部捨てると豪語した割に、私が手放すものは少なそうだった。まあ、それほどの覚悟だったということで。
王族のための牢は一般人は立ち入れない城の隅にあって、1番上に彼はいるのだと聞いた。食事をあまり摂っていないのだとか、そういうことも色々。
「……久しぶり、オーランド」
ロザリーから預かった鍵で石造りの階段を登った先の、最上階。質は良いけれど古めかしい家具が置かれた、カーテンに閉め切られた部屋に彼はいた。
顔色は悪くないけれど、日光を反射して輝いていた髪はぼさぼさだった。ずいぶんと梳かすのを面倒がったのかもしれない。
痩せたと思う。パレードで再会した時の、ヴェルシオほどではないけれど。
窓際の椅子でぼんやりと本を読んでいた彼は、すぐに私に気が付いた。
「……どうしてここに来たんだ、シーリア」
「驚かないんだね」
「お前が生きていることをか?エヴァンズ公爵から聞かされていた」
隣に本を置いてから、瞬き1つで彼の瞳は剣呑なものに変わる。
そっか、と呟きながらオーランドの前に立つ。ロザリーは彼が牢に入ってから、ほとんど塔に近づかなかったことも聞いていた。
「どうして、か。伝言を預かっているのと、顔を見たかったからかな」
あの子からの伝言を。
同じ顔を思い浮かべたのだろう。金の瞳が細められた。
「顔を?笑いに来たのか。―――マーヤの為にロザリンデを捨てて、すべて失った俺を、自業自得だと笑いに来たのか」
快活だったかつてと違う、吐き捨てるような返事に少し驚く。
「それとも俺の処遇についてか。お爺様と母上は罪を犯して、これから裁かれ罰を受ける。被害者のお前の口から俺も同罪だと、そんなことを言うために来たのか」
整った、けれどヴェルシオとは似ていない容貌が歪む。怒りや悲しみ、悔しさ。制御できない感情が、声音から漏れていた。
「どうせお前だって、ざまあみろと思っているんだろう!笑えよ!俺は---」
「ストップ。裁きたいのでも、侮辱しにきたわけでもないよ。……移動しようか。ここは埃っぽすぎる」
手を差し出す。転移には触れる必要があると彼も知っているのに手のひらは返されなかったので、袖を摘んで指先で手首に触れる。そうして、転移魔法を発動させた。
「…………ここは」
「懐かしくない?お茶の用意をしていないのは申し訳ないけどね」
風が吹いて、生垣の花が揺れる。目の前の彼とロザリーと、ヴェルシオと4人で初めてお茶会をした城の中庭。 ガーデンテーブルの椅子に座ればしばらくの沈黙ののち、オーランドも向かいに座った。さて。
「私がいうのもどうかとは思ったけれど、任されたからね。エヴァンズ公爵から君の今後の処遇について、預かってきた」
言葉に、オーランドの肩がびくりと揺れる。表情からも緊張が、ありありと分かった。
「君はラフィンツェが行った魔族の売買などの犯罪に、ひとつも関わっていなかった。……とはいえ、だから元通り王太子に、とはならないけれど」
「マーヤに魅了されたのが罪だろう。当然だな。王が惑わされるなどーーー」
「まずそこだ。オーランド、ほんとうに君のあれは魅了だったの?」
「は?」
惚けた声が返された。幼さすら感じるほど、呆然とした顔だった。
「マーヤ・マリットは多くの異性を魅了し、想い人がいても奪い取れるくらいその魅了は強力なものだった。彼女は人間と魔族のハーフで、だから王家やエヴァンズ公爵家が用意した魅了の探知魔法も反応を示さなかった。
……けれど、王家の適正魔法とギフトの1つに、魅了の耐性がある。マーヤが捕らえられて魅了が解析された時に、人間とハーピーの魅了だけなら王族のギフトで阻めるって---薬とかを盛られないなら、王族の人間はマーヤに魅了されることはないって分かったんだよ」
かつてを、仲睦まじく顔を寄せて笑い合う彼らを思い出す。
ヴェルシオがマーヤに魅了されたのは正妃様が取り寄せた、違法な成分を含んだ魔法薬を飲んでからだった。それまでは彼はマーヤにほんの少しも魅了されなかったし、むしろ嫌っていた。そうして息子を溺愛する正妃様が、そんな怪しい薬をオーランドに盛るわけがなかった。
オーランドがマーヤに惹かれたのは魅了によるものだと、正妃様すら考えていた。けれど。
もういない、年下でピンクの髪の、かわいい女の子。私だって殺されかけたけれど、憎んだり恨むより先に死んだと知ったあの子。
彼女は私を嫌っていた。だからきっと私なんかに死後の想いを汲まれたくないだろう。それでも。
「オーランド。君、本当は魅了なんかじゃなくて。ただマーヤが、好きだったんじゃないの?」
可愛い声で、歌が上手な女の子に。学園で出会って魅了なんて関係なく、普通に恋をしたんじゃないの。
そうしてマーヤも、オーランドが好きだった。豪華なプレゼントをもらうのが好きで、美男子に囲まれるのが好きな彼女の1番は、いつも目の前にいる彼だったように思えた。
金色が見開かれ、唇が震える。その表情こそが、オーランドの答えだった。
瞳を伏せる。マーヤの過去を、ロザリーから教えてもらった。
数枚の紙で、狭い学生寮では見えなかった彼女の一面を、決して恵まれているとは言い難い、学園に来るまでの人生の断片を知った。
ハーピーの母に育てられたけれど父は分からないのだとか、15の時に母も失い、だからラフィンツェに目をつけられてこの国に連れてこられたのだとか。
「正妃様は魅了で君をロザリーから引き離したら、用済みになったマーヤは処分するつもりだった。彼女は学園でほとんどの男子生徒を……正妃様に指示された、婚約が破談になればラフィンツェの利益になる家以外の子息も魅了したけれど、それは多くの男子に傅かれたかっただけじゃなくて、君と結ばれたかったのもあったと思う」
知らない国の、知らない貴族の道具になった彼女の、唯一の武器で命綱が魅了だった。
意思を奪われた学園の男子達の嘆きを、婚約者や好きな人に裏切られた女子たちの涙を想えば、だからマーヤのした事は仕方がない、で済ませることはできない。
もしマーヤが賊を差し向けたのが私以外で、その子が命を落としていたら。今と比べられないほどに彼女を憎んでいただろうとも思う。
それでも。私はマーヤを殺した彼を選んだから。
オーランドにとってどれだけ残酷だとしても、言葉にしたかった。
「…………それを言って、いまさら、何をしたいんだ」
ながい沈黙の後に、ぽつりとオーランドは呟いた。
「そうだね。今更だ。……けれど君に囚人用の墓地の、100以上あるお墓のどれに、彼女が眠るのかを伝えることはできる。そうして君のこれからを決めるのにも、役立つんじゃないかな」
髪を揺らす風が途切れる。マーヤの感情の真実を知る日は来ないし、かつてのように4人でお茶を飲める日も、きっと来ない。私の言葉は推測に過ぎなくて、ここにいる事だってお節介なのだろう。
「これからの話をしようか。罪を犯したのはラフィンツェであって君ではないから、このまま閉じ込めたままでも、数年後に恩赦として自由の身にもできる。けれどそれより早く、君を国外に追放もできる」
君が選んでいいそうだよ。
王族でなくとも、貴族でなくとも、この国の外でも、君はちゃんと生きていける。それだけ優秀だって知っている。
この国についての重要な情報を話せなくなるとか、幾つか魔法で制限は掛けられるけれど。けれどもし好きだったかもしれない彼女を知りたいなら、この国から出るのもありだと思うよ。
テーブル越しに、彼は項垂れた。金髪に隠れて、その顔は見えない。
「……外の世界は、広いのだろうな」
「多分ね。私じゃ想像もできないくらい」
「獣人や魔族も、多くいるのだろう。……お爺様や母上が、傷つけてきたものたちが」
「普通に暮らして、生きているのだろうね」
彼が追放を望むならば、そのか細い問いの、答えを知るのだろう。
この国を出て、オーランドはマーヤについて知ろうとするかもしれないし、しないかもしれない。彼女に向けた感情を恋と定義するかもしれないし、全く他の誰かに愛を見つけるのかもしれない。どちらにせよ、選ぶのはオーランドだ。
沈黙ののち、彼は重く小さく、許されるのかと、ぽつりと呟いた。
「俺は、ラフィンツェの人間なのに」
「許す許さないじゃなくて、君がどうしたいかだよ」
クロルならきっと、誰の許しがいるんだと首を傾げて言うのだろう。真似して良いぞと耳をぴんと立たせる青年が脳裏に浮かんで、小さく笑いながら応える。
「…………ずっとお前が羨ましく、妬ましかった。兄さまに憧れていたからこそ、俺には少しも笑って下さらないあの人に、唯一心を許されたお前が。だから兄さまがともにいてくれるようになったのは嬉しかったし、それが正しいと思っていた。俺は王太子だから、何があっても自分が正しいと思っていたんだ。断罪なんて言葉でロザリンデを裏切ろうとして、逆に裁かれて、初めて自分の間違いを知った」
それまで俺は、俺を疑ったことすらなかったんだ。
ぽたりと、テーブルに滴が落ちた。
「貴族牢に入れられてすぐ、ロザリンデから、お前とロザリンデがやりとりした手紙を差し入れられた。ここに出掛けたとかこんな言葉を掛けられたとか、お前の文字で綴られる兄さまはとても優しく、愛情深い人だった。それを読んで、はじめて、兄さまはお前を押し付けられたのではなく、とうの昔に選んでいたのだと知った。そうして、後戻りの出来ない間違いがあるのだと、気がついた」
「お前が兄さまの唯一で、だからお前を失ったあの人はずっと寂しいままで。だから俺は、お前にかけた言葉も、したことも、何もかも。絶対に償えないと、本当に、取り返しのつかないことを、してしまったと、思って」
ぽたり、ぽたりと。続く言葉は、声にできないようだった。
ごめんなさい、ごめんなさいと、嗚咽混じりの謝罪を繰り返しながら、ただぽたぽたとオーランドはテーブルを濡らす。
彼の、唯一の弟が。
「……許すよ。最初から君が悪いとは思っていないけれど、君が自分を許せないなら、何度でも私が許そう。だからいつか、君が君を許せることを、願っている」
だから、ねえ、オーランド。もし君がマーヤに向けた感情を愛と呼ぶと決めて、彼女を殺したヴェルシオを許せなくなる日が来たとしたら。
その時は私と彼が、君に会いに行くから。こうやってテーブルを囲んで、話が出来たら嬉しい。
そうして君の考えを、答えを、教えてくれる?
泣きじゃくりながら頷くオーランドに、小さく笑う。
昔、オーランドが話したがっているからとロザリーから4人でのお茶会に誘われたとき、その前に、オーランドと2人で話をした。
それは境遇の違いを気にするヴェルシオのためだったけれど、初めて出会った金髪の少年は迷わずに、兄さまのことが大好きなんだ、クールで格好いいんだ!と誇らしげに笑った。
オーランドはきっと、覚えてもいないだろうけれど。それを聞いて、本当に嬉しかったのだ。彼がこの広い城で1人ではないことが、家族と呼べる人がいることが、ほんとうに、ほんとうに、どうしようもないほどに嬉しかった。
風が吹く。花が揺れる。
陽だまりのなか、太陽に負けない笑顔を浮かべる少年の姿を、思い出した。