遠回
「―――――俺は」
口を開く。ほのかな暗闇の中、淡い灰色が静かに俺を見ている。
言葉など、何通りも考えていた。愛も執着も、恨み言も。
空っぽの手のひらで、埋められる何かを探した。
弟はいつもなにか持っていて、楽しそうだった。羨ましくて、だから誰でも良かった。
あの時手を差し伸べたのが、たまたま彼女だっただけ。向けられる瞳に嫌悪がなかったから傍において、そうして戻れなくなった。
楽しかった。隣に居られる時間は心が安らいだ。世界が価値あるものを内包していると知って、かつての孤独などどうでも良くなった。本当に、どうでも良かったのだ。
人間に芯のようなものがあるのなら、俺のそれはシーリアの形をしていた。どれだけ歪でも幸も不幸も、全てが彼女だった。
「お前に出会って、初めて人を愛した」
あんな時間を過ごして、どうして焦がれずいられるだろうか。もし俺が王子ではなく、幼い頃から周囲の人間に恵まれて、孤独とは無縁の人間だったら。それでもシーリアに出会えたなら、彼女だけになっていただろう。
「そうして恨んだ。お前を奪った人間を、俺自身を。好きなんて言葉で俺を終わらせることができた、お前のことも」
項垂れる。どうして手放した。憎んでくれなかったんだ。償いを求めてくれたなら、四肢を落とされようが殺されようが、シーリアを失う以外のどんな罰でも受け入れたのに。
沈黙が落ちた。頬に触れた手は離れないまま、薄い唇が動く。
「……たまたま婚約者になっただけで、私じゃとうてい不釣り合いだってずっと思っていた。こんなに頭がよくて格好いいんだから、君にはもっとお似合いの環境があって相手がいるって」
「なんだそれ。ならこの顔を潰せば、俺はお前に相応しくなれるのか?」
違うよ、と答えが落ちる。
「出会った事を、過ごした時間を、君に後悔してほしくなかった。けれどそのせいで余計傷つけたね。
……傷つけるべきだった。言葉を交わして、嫌われたっていいから変わって、そうしてちゃんと私たちになるべきだった。ごめんね」
「謝るな。お前は謝るようなことをしていない。なにも」
謝罪も後悔も、すべきは俺ばかりだ。
「……もっと、優しくしたかった」
初めて出会った東屋で、水色のドレスのスカートを摘む少女に、膝をついて花を捧げたかった。正妃に用意されたものではない流行りのドレスや、本も万年筆も、遠慮されたって揃えてやれば良かった。魅了騒ぎを早々に解決して、頼りになると思われたかった。裏切りたくなかった。閉じ込めて泣かせた。
嗚咽を噛み殺して、謝罪を呟く。
今も愛しいと、2度と離れたくないと、皮1枚内側で自分が叫ぶ。けれどもう傷つけたくなくて、そのためなら己などいくらでも殺せた。
「お前にだけは、優しくしたかった」
頬を伝った雫を、白い指先が掬う。
「私もだよ。君と、もっとはやく出会いたかった。最初に出会ったとき、この本が好きなのってちゃんと話しかければよかった。マーヤと一緒に居ないでと言えば良かった。……けれど明日も、君の隣にいたい」
席を立つ。静寂のなか、正面に立った彼女に抱きしめられる。
「だから、良いよ。全てあげよう」
空気が揺れて風の匂いがした。ひどく静かな声。指先まで冷えていたと、あたたかい腕に触れてやっと気づく。
「代わりに君も、全部捨てて。王位も名誉も、君の容姿や才能が賞賛される機会も。ただの私だけで満足して。……2度と魅了なんかに掛からないで」
初めて聞いた、小さな嫉妬。
首筋に顔を埋められて、細い腰に腕を回す。瞳を閉じれば、小さく心臓の音が聞こえた。
あたたかい。これだけでいい。最初からお前だけだったんだ。
「もう、お前のいない人生は、嫌だ」
それだけの恋だった。返事に、彼女は晴れやかに笑う。
「遠回りしたねえ、私たち!」