四方
魔法を張り直すといったのに、ロザリンデは扉を出てすぐのところにうずくまっていた。
しゃがみこんで、壁に背中をくっつけて。小さく丸まっている。
「どうしてあいつの話を聞かなかったんだ?」
「……あの人を泣かせたのはあの男で、わたしだもの」
涙は出ていない。けれど、あの人は泣いていたでしょう?と呟く小さな声は、泣き声に聞こえた。
クロル、少しだけ聞いてくれる?
頷いて、赤い頭のつむじを見下ろした。
「わたし、この国の王妃になるために沢山の教育を受けてきたの。国母なるもの多くの意見に耳を傾け、最善を選ばなければいけない。1つの思想に固執するべきではないって学んだわ。正しさに絶対なんて、どこにもないの」
人の数だけ思想が、正義があるの。誰かが得をするとき、誰かは損をするの。ずっとそれを見て選び続けてきた。
ロザリンデは顔をあげる。伏せた目は俺ではない、どこかを見ていた。
「大多数のために小数を切り捨てることも、親しくしている者でも、必要であれば距離を取ることも。嘘も、真実の隠し方も学んだわ。わたしはわたしであるより先にエヴァンズの人間で、そうしないと何かを失う人が沢山いるの」
それがわたしに与えられた身分の対価で、地位の理由なの。ドレスも、食事も屋敷も、香油1つまで、平民より良い暮らしをして良いものを使うのだから、地位に見合った振る舞いをしなければならない。
そう教わって、わたしもそうすべきと思うわ。
「大変だな」
言葉に、ロザリンデは目元だけで笑う。
シーリアと旅をしていたころ、酒場で王族や貴族のことをいい暮らしをして苦労を知らない、と言ってる奴がいた。適当に聞き流したが、城でロザリンデと関わって全然違うじゃないかと思った。
朝から晩まで紙に目を通して、誰かと小難しい話をしていた。このネックレスはこれから売り出したいエヴァンズのブランドなのとか、この紅茶は取引をしている家の特産品なのだとか、身の回りの全部に意味があった。
それをするのも、当然と考えるのも、多分凄いことだ。
「わたしね、お姉さまが好きだったの。あの人の正しさを図るまでもなく、ただ優しいところが好きだった。ロザリンデ・エヴァンズではなく、エヴァンズの人間であろうとするわたしを見て、褒めて信じてくれるところも。
利害もなく誰かを助けようとする人だから、大衆の正しさを考えた時、心であの人に添ったわ。あの人ならどうしたかな、お姉さまもこうするかしら。ならきっと大丈夫ねって。
……あの人は、標だったの」
わたしが貴族であるために、次期王妃であるために、わたしで在るために。
あの人が必要だったの。縋って利用していたの。
もう、悲しそうではなかった。穏やかに淡々と、染み込むような声だ。
「あの人を失った時、初めて私情で、わたしの憎悪で、人間を追い落とした。一族全員殺してやるって思ったわ。ラフィンツェは……わたしが潰した正妃の家は、この国を乗っ取ったあと、国をあげて他種族とか、その素材を取引するつもりだったの。それが人間の国の、人間の正義と言っていたわ。反吐が出るでしょう?」
蔑んで見下して、そうして安心したわ。あの女達が外道だったことに。わたしがわたしの憎悪を、正しいと思えるから。
「…………反応に、困るな」
正妃とかが悪いことをしていたのは分かる。そのせいで俺はあの村に買われたのも。でも知らない相手だし顔を見たこともないから、憎むのもしっくりこない。
なんとなくロザリンデの隣に座って、同じように膝を抱えてみる。でもまたあの村に戻るのは嫌だと言えば、そんなことはさせないわと返された。
お姉さまの最期を、生きていると分かった今でも夢に見るわ。
馬車を貸してくれてありがとうって言われて、一緒に行きますって提案して断られて。何かあったら連絡するって伝えられていたのに、メッセージカードではなく家から連絡があったの。どうか、どうかっておもいながら崖に行ったら壊れた馬車しかなかった。そうしてあの人はどこにも……どこにも、いなかったの。
「にくいのか」
正妃とかが。復讐ってやつをした、今でも。
「とてもね。彼女の前でオーランドを殺してやろうと思った。そうしてから、ラフィンツェ公爵の前で正妃を殺してやるって。屑なのに、沢山の人を傷つけたのに、自分の子供のことは大事にしているんだもの。彼らに愛する者を奪われた人間がいるんだから、わたしも大切なあの人を奪われたんだから、あいつらも同じ思いをすれば良い。そう考えたわ」
つぅと、赤い唇が、動いた。
……でも、空しくなったの。ラフィンツェを断罪してすぐ、レオドーラの姪と、その夫と子供が秘密裏にこの国に来たわ。レオドーラたちが裁かれる最中で、敵地に乗り込むようなものよ?どうしてって聞けば、この子の未来を守りたいからって。
そうして頭を下げられたの。この国には2度と足を踏み入れない、ラフィンツェとも縁を切る。もとから私たち夫婦は年の離れた王子とこの子を結婚させようなんて思いもしていない、寝耳に水だった。だからこの子には手を出さないで、傷つけないでって。
震えながらそう言われて、なにもわかってない1才と少しの小さな子がよたよたとこっちに来て、膝に抱き着いてきて。くりくりした目に見上げられて、抱っこをせがむように小さな手を伸ばされて。
全部、全部、空しくなったわ。
こんな小さな子にもうすぐ成人の息子をあてがおうとするレオドーラも、それを望んだラフィンツェ公爵も、そうして彼らを憎んでラフィンツェの人間なんて皆殺しにしてやろうと考えたわたしも。
とても、醜く思えたの。
白い指は強く握り込まれて、カタカタと震えていた。
「今も彼らは憎くて、けれど正しくありたいの。正義が山ほどあって誰もが幸せになんてなれないとしても、そう努めることを放棄したくないの。お姉さまのような善い人間にはなれなくとも、善い存在でありたい。でも、どうしたらいいの?」
わたし、あの男に似ているの。
もう1度あの人を失わないためなら、化け物にだってなれるわ。でもそれはあの男も一緒で。
あいつが死んだら、お姉さまはきっと2度と、心から笑えなくなるの。
わたしもお姉さまもヴェルシオも、この国も。それぞれの正しさがあるの。
正妃やラフィンツェ公爵すら、少なくとも彼らにとっての正しさを持っているの。
「見た?障壁を壊してあの人を助けようとした時、武器を持つわたしから、ヴェルシオ、お姉さまを守ったの。わたしがあの人を傷つけるわけがないのに」
ぼたぼたと、ロザリンデは涙をこぼす。目玉が赤くてキラキラしているなと思った。
「あの時ね、どさくさに紛れてあの男を殺してやろうと思っていたの。事故として処理できるもの。部屋の魔力に当てられたお姉さまを見たからなおの事。けれどあいつは、お姉さまの為なら死ねるんだわ。そうしてわたしにはそれは出来ないの」
わたしには国とか家とか、大切なものが沢山あるもの。あの人を失う原因になったのはあいつだけど、失って1番傷ついて、絶望したのもあいつなのよ。だってわたし憎くてしかたなくて、けれど後を追おうとは思わなかったもの!
醜くて一方的な執着だったら良かったのに。あの男が正妃のような、見下せる屑だったら良かったのに!
なんとなく震える手に、俺のそれを重ねる。
指先ひとつだって触れたことはなかったけれど、嫌がられなかった。すごく冷えていて心配になった。
ずっとぐるぐると考えていたんだろう。頭がいいやつだから。
考えて、考えて考えて考えて、分からなくなっている。頭がいいというのも困りものだ。
こんがらがっている。ロザリンデはシーリアが好きで、シーリアもロザリンデが好きで。多分ヴェルシオって王子もシーリアが好きで逆もそうで。
いつか俺にも、分かる感情なのだろうか。
ねぇクロル。わたしどうすれば良かったのかしら。どうすれば良いのかしら。
わたしがどうしたいかなんて、そんなことよりずっと。
あの人に笑っていて欲しいのにね。
何も返せなかった。だから手を、握り続けた。