告解
ヴェルシオが魅了されてすぐ、あの男を拐いましょう、とロザリーに言われた。
「マーヤと引き離せば、魅了は解けるかもしれません。国の外れにでも閉じ込めて、お姉さまとだけ関わっていればじきに正気を取り戻すかも。あの男だってこんな事……」
「……問題になるよ。オーランドがなんていうか。心配させてごめんね、ロザリー」
笑いかけたけれど、彼女の顔は少しも晴れなかった。
寮の子たちは誰もが私を心配してくれた。どうして泣かないのと抱きしめられたし、なんでも聞くからねと手を握られた。
良い子達で、優しい友人達だ。だからこそ笑って欲しいと願った。
彼女達に同じことが起こった時、涙を拭いながら、悲しみや怒りを聞きながら。身勝手にも、それでもいつかは笑って欲しいと願った。
それなら私がいま見せるべき感情は、1つしかない。
「……大丈夫、少し驚いただけだよ。ごめんね、心配をかけて」
ちゃんと笑えたはずなのに、誰からも謝らないでと泣きそうな顔をされた。
少女達からヴェルシオの名を聞くことはなくなった。校舎を歩く時、あっちから行きましょう?薔薇の生垣が綺麗なの、と、多分彼らと鉢合わせないように、気を遣われるようにもなった。
心配を掛けている申し訳なさがあった。それ以上にそう思わせる素振りをしているだろうかと、何度も鏡でつまらない自分の顔を確認した。
現実味がなかった。じわしわと、ああもう彼は私が好きではないのだと理解した。
そうして、笑えるのか、と思った。
ずっとそうであったかのように、幸せそうに。カーテンの隙間からマーヤに腕を絡められ、女子寮から去っていく横顔を自室で見下ろしながら。記憶の中の私に向けていた笑顔と比べた。そんな自分が嫌になって、腕に爪を立てる。
君が笑える世界を望んでいた。友人に囲まれて好きなことを思う存分できるような、それだけを望んでいた。こんなに呆気なく、卑怯とすら思うほど簡単に願いは叶ってしまった。
嫌だと思ってしまった。
そんな自分に気付いた時、ぞっとした。
最初は彼のことを知りたかった。段々と、いろいろ教えたくなった。
それなのに、どうして私ではないのかと思った。対価を求めて連れ出したのでも、共に過ごしたわけでもないのに。
裏切りもの、と呟きそうになって唇を噛む。1度だって、彼から好きと言われたこともないくせに。
東屋で逃げだしたから、彼と話すことはもうない。
少しずつ君の居ない日々に慣れていく。
眼をそらして、気付かないふりをした。そうして逃げられなくなったのは19歳の誕生日だった。
女子の大半と仲良くなったから、学園生活3年目に渡されたプレゼントは例年の10倍は多かった。どれもとてもいい品だったり、その子と過ごした時間を思い返せるような素敵なものばかりで、その中に差出人の名前のない、1本の万年筆を見つけた。
濃紺の、この国で1番有名な万年筆のメーカーの、廉価な量産品。
私の万年筆好きは知られているから、最初は彼女達の誰かからかと思った。けれど包装紙は学園街で1番の品揃えの文房具店で、入学からずっと贔屓にしているところだった。彼と何度も訪れて隣でインクを眺めていた瞳を思い出すから、あの日からあの店を訪れることは、ほとんどなかった。
「ええ、こちらをお買い上げいただいたのは、ヴェルシオ様に間違いありません!差出人の名は書かなくてもいいと仰っていましたが、サプライズでしたかな?こちらを選んだのも思い出の1本というやつでしょうか」
何度も私達を迎えてくれた文具店の店主は、朗らかに匿名の贈り主を教えてくれた。私が知らないわけがない、というように笑みを向けられたけど、同じ表情は返せなかった。
「…………ええ。なにもかも、思い出だらけです」
彼の髪色に似た軸を、指先でなぞる。
この1本に、大きく思い入れはない。あるのは彼との万年筆を介した思い出だ。この店だって。
親や国にお金を出してもらっている身分だけれど、毎年誕生日はお互いこれぞ、と思うものを贈りあっていた。銀貨数枚のこの軸は、かつての彼なら選ばなかっただろう。
ショーケースの目立つところに並べられた濃紺を、きっと目についたからというだけで、ヴェルシオは選んだ。
それでも、私の万年筆好きを彼が覚えているかもという事実が、どうしてこれなのと知りたがる心が。手に収まる文具1本に浮かれて胸が高なって、そんな自分が滑稽だった。
何も買わずに店を出た。是非今度は2人でお越しください、という言葉には、何も返せなかった。
少し歩けば、雨が降ってきた。道を歩く人々はどこかに去って、頬を滴が伝う。
人も車も、誰もいない道路に座り込む。地面の泥を吸って、服の裾が色を変えた。
いつか手を引かれ雨宿りした道で、一人でうずくまっている。
「………………きっついなぁ」
指先まで冷たい。けれど目頭と頭だけは、がんがんと熱かった。
しんどいなんて、君に愛されてないって、それだけの事が。
いつから私はこんなに、強欲で図々しくなった?
それでも決して嫌えない。
嫌わないでと泣き喚けもできないくせに。
∮
マーヤが魅了など、人の心を支配する方法を用いていることはみんな察していた。人間の魔法にも、魔物の魅了の検知にも引っかからないだけだ。
見つけないといけない。糸口にはロザリーが気が付いた。
「この騒動が、ただの痴情のもつれのはずがありません。婚約破棄の日付やマーヤがその男子に接触していた回数を紐付けて、あの女が優先して婚約を破棄させた縁談を調べたんです。今回の件で1番利益を得ている家が、黒幕の可能性が高いわ。国内外問わず、こんな事が可能なほど権力のある家は少ないのだし……」
女子寮の一室で、びっしりと書き込まれた紙束を見下ろしながらロザリーは言った。
私と彼女しかいない放課後だった。夕焼けが彼女の髪を、鮮やかに照らしていた。
「もう、目星はつけているんです。……ラフィンツェ公爵家とレオドーラ正妃。彼らがこの事態を企てた張本人です」
そうしてマーヤはどちらの検知にも反応しない、特殊な魅了の魔力を持った、人間と魔物のハーフです。
いっそ穏やかな声だった。赤い瞳には、静謐と確信があった。
産まれたばかりの又姪をオーランドの妻にとか、そうして国を乗っ取るつもりなのだとか、眉を顰めたくなる話もされた。それよりずっと、静かに話す彼女が気がかりだった。
「ロザリー……君は、大丈夫?」
夫となると思っていた相手の、母親にこんなことをされて。
この子と、その婚約者の王子様。
お似合いの微笑ましい2人だった。誰にも言ったことはないけれど、こんなことになってもまだ、この事態が解決して魅了が解ければ2人は笑い合えるのではないかと願っていた。
真実が詳らかになれば、レオドーラ正妃は裁かれる。内密に処分すればオーランドを廃籍にせずに済むかもしれないけれど、母を追い落としたとなれば2人の関係は変わってしまう。
4人でお茶会をしていた頃、オーランドの口から出る母親は、息子想いの優しい人だった。母は息子を、息子は母を。ほんとうにお互いを愛しているように見えた。
なにもかも元通りにはならない。そんなこと分かっていたのに。
ロザリーは瞳を細めて、穏やかに笑んだ。
「ええ、もちろん。最初から、そんな気はしていたもの。……だから、そんな顔をしないでください」
やるせなさや、寂しさはあります。それでもともに悲しんでくれる人がいる。それはとても得難いものだと思うのです。
わたしは大丈夫です。だから巻き込まれ悲しむ者たちを、救うことを優先しましょう。
お姉さまがいてくださって良かった。あなたがいたからわたしはエヴァンズの人間として、誇りを持って立っていられる。
微笑む彼女は美しかった。
私もロザリーがいて良かった。そう応えて手を握るだけで、精一杯だった。
解決だけを考えよう。
この騒動を全部解決して、皆を操るマーヤの魅了を解いて。その後もヴェルシオがオーランド達と過ごす時間を選ぶなら、元婚約者としてそれを祝おう。
けれどもし、彼があの日々を望んでくれるなら。
新しい万年筆にインクを詰める。文字にすれば口に出すより簡単に、好きと言えた。
ああけれど、どうやっても格好付かない。
指先に乗る紙切れをゴミ箱に放り込めなくて、目のつくところにも置けなくて、万年筆の中に隠した。
笑えるほどに、まだ未練たらたらだ。
∮
手を離す覚悟を、準備をしておこう。そう思っていたのに。
「……ある、王子様の話をしましょうか。あなたとは何の関係もない、大国の王子様の話です」
黙れ。
「その少女は人間と魔族……ハーピーの、混血だったからです」
黙れ。
「マーヤがハーピーの子である証拠と、魅了を解く手がかりを得て、正妃様とその実家、ラフィンツェ公爵家の望みを滅茶苦茶にしてやりたい。そう、考えています」
黙れ黙れ黙れ、縋るな、甘えるな。
マーヤが養子になったマリット男爵領に行こうとした日、声を掛けられて彼と随分と久しぶりに話した。
彼の顔色が悪い。目つきが鋭くて、かつてより声も低い。機嫌が悪いのは眠れていないのか、目の前にいるのが私だからか。
なぜか馬車に乗り込まれて、正面の席で言葉を探す。向ける感情すら決めあぐねていたのに。要らない感情を吐かないために、拳を強く握る。
けれど心のどこかで、もしかしたらと思った。
2人になれた今なら、私の言葉が届くかもしれない。マーヤの正体を話せば魅了が解けるかもしれない。
そうしたら、また傍にいられる?
口を開けば止まらなかった。君と私はかつては仲睦まじかったのだと言いたくなって、頬の肉を噛んだ。
無理に魅了を解こうとすれば、魅了された者の負担になるでしょう。そうロザリーに言われていたのに。
そうして、その結果が、これだ。
「……荒唐無稽だ。そんな筈がない、おまえの言うことなど信用出来ない。何よりも、それを俺に言って、お前は何をしたい?」
口腔から血の味がした。何をしたいか。
振りむいて行かないで。君がずっと好きだよ。
涙は出なかった。そのことに安心した。今言われた言葉を何年も夢に見るだろう。
くやしく、悲しく、とても寂しい。それでも。
無愛想で優しい私の婚約者。1人だった君は、もう1人じゃなくなった。
馬車が揺れる。襲撃。驚く彼の顔。伏せてと叫びながら、危ないのだろうなと他人事のように思う。
マーヤが、マリット男爵家が、正妃様が。防御石は手放した方がいいのかな。途切れがちの思考を頭の片隅で繋ぐ。現状味はずっとない。
「……はは。ねぇ、殿下。貴方の、好きな本は?」
「は?今はそんなことを言っている場合じゃ」
私は今、どんな顔をしているのだろう。彼の顔が、固まった。
「……ディリティリオの、毒花シリーズ」
緊張と警戒と少しの疑問。知らない相手みたいな寂しい顔。
でもそっか。それが好きなら君は君だ。私が好きになった、君のままだ。良かった。
悲しくて寂しくて、自棄にもなっている。冷静じゃないと、自分でも思う。それでも。
言葉にする代わりに、濃紺の万年筆を返した。使われなければ、隠した紙切れに気付かれることはない。私に付き合ってくれただけで、彼は万年筆を普段使いはしなかった。きっと知らずにいてくれる。
滑らかな頬に触れた。指先まで冷え切ってよく分からないけれど、多分暖かい。
うつくしい顔。優れた頭脳。そんなものがなくたって、ただの本好きな君を愛している。
君が好きだよ。だから、その願いが叶えばいい。
君がなにを望んでも、ただ幸せを願っている。
そうして、転移魔法を、発動した。
1人になった馬車で、膝を抱えて蹲った。
悲しまなくていい。
ここで手を離したから、私はヴェルシオの幸福を願う私でいられた。
君が好きになってくれた、私でいられた。
涙が服に吸われる。笑え。
この恋は叶わなかった。
けれど確かに愛は、報われたのだ。
顔をあげる。
衝撃音は鳴り止まない。馬車の軋みは段々と大きくなっている。馬車を襲う誰かの人数も何者かもしらないけれど、きっと助からない。家族、友人。多くの人を悲しませる。
それは嫌だなぁ。玄関で一緒に行きますと言われて断った、あの子の赤髪を思い出す。
きっと、死んじゃうだろうけど。この残り僅かな転移の魔力が、役に立つのなら。
試してみようかな、と思った。
∮
「愚かだとおもう?」
クロルは、何も言わない。普段は賑やかしく感情を伝えてくれる耳も尻尾も、ぴくりとも動かない。
視界は暗い。押し当てた布のせいだ。長く話して、温もりはもうない。
捨てられる前に手放した。幸福を願っておきながら、これ以上なく傷つけた。
誰よりも近くにいた。お互いに向ける感情を知りながら、傷つきたくなくて逃げた。
「私は何度も思ったよ。臆病だって。でも今更、なにを言えばいいの?」
愛していたって、彼の手を離した、私が?
それともヴェルシオの思い通り、全て捨てれば解決するの?家族や友人達を、1人残らず悲しませて。
どうしたら良いんだろうね。
どこから間違えたんだろう。