迎賓
彼らを見た。
学園自慢の庭園で、わらいながらマーヤを囲んでいた。段差につまずいて足がもつれた彼女を支えたのは私の婚約者で、桃色と金色の瞳が合うとこそばゆそうに笑いあって、くるり、と腰に手を回して、1つターンをしてから少女は体勢を直す。
ありがとうと桃色の、愛らしい唇が動いた。彼は瞳を細め、首をかしげて何かを応える。
誰かの言った、おっちょこちょいだなあとおどけた声は、大きかったから耳に届いた。次は俺に頼ると良い、と言わんばかりにその青年はマーヤの腕を取って、彼女はそれにも笑って応じる。
分かっている。魅了とか、洗脳によるものだ。本意じゃない。
けれど。
とても。とても、とても。どうしようもないほどに。
彼に、お似合いの光景だった。
魅了によるものだ。彼はマーヤを嫌っていた。本意じゃないはず。
けれど。そこにひとつも本当はないと、どうして言い切れる?
知っている。昔彼はあれを望んでいた。
出会って1年もしない頃。お茶会でも園遊会でも1人ぼっちで、声を掛けられても返事もせず時計を睨みつけていた少年は、特にオーランドとその友人たちを視界に入れるときむっつりと眉をしかめて、何かに耐えるように下唇を噛んでいた。まだ全然仲良くなくて、会話らしい会話もしなかったころだ。悔しそうだな、と遠目から見るばかりだったけれど、あれはきっと憧憬だった。1人を選びがちなくせに孤独が嫌いな彼の、最初の願いだった。
何度も夢想した。彼と話すようになってから、出掛けるようになってから。
彼がオーランドと、その友人たちと過ごすならどんな話をするだろう。楽しめるだろうか。オーランドはとても喜ぶだろうけど、少年達の賑やかさに馴染めるだろうか。
―――その答えが、あの場所にあった。
本意じゃない、きっと彼は望んでいないなんて、どの口がそれを言える?
嫌と、どうして言えるだろう。
彼に向けられる正妃様の嫌がらせを、1度だって止められなかった私が。
∮
予感があった。張り詰めた弓のように、細い月の夜だった。
ロザリーは外せない用があると王城を離れて、クロルもメリーも、彼らの部屋に戻っていた。
「あの男がどこに居るか、悔しいけれどまだ分からないんです。……明け方には戻ります。なるべく早く、戻りますから」
部屋にかける魔法を厳重にしておきましょう、お姉さまもどうか、今晩はこの部屋で過ごして下さいね。もちろんと答えて、言われた通りベッドに潜り込んで、夜更けに目が覚めた。
いつの間にか、夜は随分と冷え込むようになった。絨毯越しでも、床に足を付ければ冷たい。
眠気はなかった。なんとなく窓枠に触れて、錠に指を滑らせる。
後ろで、空気が、揺れた気がした。
「ひさしぶり」
「…………いままで、どこにいたの?」
部屋の魔力が塗り替わる。懐かしい声だった。
振り返る。彼がいた。
紺の前髪が伸びて瞳に掛かっていた。それでも変わらず、金色の瞳は美しい。
「そんなもの、どうでも良いだろう。逃げるつもりか?」
「……開けられないんでしょ、どうせ」
問いかけにしてはぞっとする声だった。薬指の爪が震える。ずらすだけで開くはずの錠は、ぴくりともしない。
ヴェルシオは瞳を、すこし細める。
「そうだな、もう逃がさない。やっと迎えに来れた」
場所を用意したんだ。城は邪魔が入ったから、ちゃんとした新しい屋敷を。この国を出れば、あの女も追えないだろう?結局あいつはこの国の人間だから。
穏やかな口調だった。
この国に生まれた、という意味ではないのだろう。エヴァンズという家に生まれて、国を愛していて、私の為にその信念を曲げはしない。
君は違うのと言いかけて言葉を止める。けれど、伝わったらしい。
「何度も言っただろ。お前以外どうでもいい」
もう一歩。唇を噛む。怖いというより悲しかった。彼の狂気に、応えられないことが。
「出来ない。もう、閉じ込められるのは、嫌だ」
「そうか。仕方ないな」
数歩離れた位置にいた。相も変わらず美しい顔の、表情は変わらない。視線を落とした。
「……ロザリーが言ってた。どうしても城を離れる夜は訪れるし、あの牢を壊せたなら、どんなに魔法を重ねがけしても、君はここに来るだろうって」
「だからわたしはあなたに逃げて頂くことを、転移魔法を守ることを、優先しますって」
ガラスにヒビが入るように、部屋そのものが音を鳴らす。魔法には明るくない。どれだけの魔法に守られていたのかは知らないけれど、多分ロザリーの魔力はほとんど残っていない。
けれど、転移を阻む障壁魔法が展開されることも、なかった。
「今の君に、ついていくのは、嫌だ」
転移は変わらず使える。そうして障壁が張られることもない。
気がついていたのだろう。彼の声が一段低くなって、けれど口元は薄く笑んだままだった。
「…………逃げて、あの女が来るまで、鬼ごっこでもするつもりか?」
伸びた指が、ついに頬に触れた。顔色が悪い。けれど唇は鮮烈に赤くて、そんなことが気になった。
「何十も障壁魔法を作れない部屋を用意して、俺にその部屋の防御が壊されたら次に行くつもりだろ?時間稼ぎをして、あの女を待つ。ここに来る前、それらしい部屋は潰しておいたんだ。あいつの用意した全てじゃないだろうが、……飛んだ部屋が、あの女が用意したまま、障壁が張れないままなら良いな」
そうじゃないなら大変だぞ。うっかり魔法が壊された部屋に飛んだら、そのまま閉じ込められる。
「それか騎士でも呼ぶか?束になれば手傷くらいは負わせられるかもな。代わりに全員殺すが。そうやって、俺が死ぬかお前が捕まるまで、永遠に鬼ごっこを繰り返す気か?」
伸びた爪が立てられた。
あの女や騎士に、俺は殺されるかもな。俺はそれでもいいが、お前はそれを望むのか?
どっちかだ。俺を選んで全部失うか、拒絶して殺すか。
お前だけが欲しくて、手に入らないなら死んでも良い。お前は?赤の他人が傷つくのが嫌なら、諦めてくれないか。
「殺す覚悟もない、その程度の拒絶なら。俺に愛されたのが不運だったと、全部捨ててくれ」
∮
シーリア。俺はお前だけでいいのに、お前はそうじゃない。
なら、そうなるまで、壊すしかない。
俺の半身。左の鎖骨。血液全て。
細い首に手を掛ける。歪む顔すら愛おしい。
上着を探れば指先に小瓶が触れる。持ってきて良かったと、笑った。
かつて正妃とあの女に盛られた洗脳薬はとろみのある無色透明の液体で、魅了魔法がとびきり効きやすくなる、性質の悪い薬だった。
塔でも、城でも、屋敷でもいい。シーリアに相応しく。決して逃れられず、エヴァンズの追えない場所を探している時に、手に入れた外国の小瓶。
転移こそ厄介だが、それ以外の彼女の魔法は人並みだ。魅了魔法はやったことがないが、大丈夫だ。壊れるまで何度でもかけ直すから。
ああ、やっと取り戻せる。手に入る。
赤い絨毯に押し倒す。灰色の髪が広がって美しかった。ずっと触れていたいと、指先が震える。
「……きみがすきだよ」
愛しい唇が、動いた。
「もういいもう聞いた。俺が、壊れていると思うか?」
ならお前のせいだ。
愛していた。愛されていた。
俺は変わった。お前の愛したヴェルシオ・ステファノでは無くなった。けれどお前は変わらずに、俺が愛したシーリア・アーデンだった。
それなら拒まれようが嫌われようが憎まれようが、お前がいればそれでいい。
あと少しで手に入る。涙の浮かぶ瞳も、引き結ばれた唇も、何もかもが愛おしいのだから、後悔などどこにもない。
「それで、君は、幸せになれるの」
灰色から、ひとつ雫が落ちた。今更すぎる言葉に口角が上がる。この期に及んでまだ問うのか。理解していないのか。
「お前以外に幸いはないよ。違うというなら、これは間違いか?」
「お前を失った絶望は間違いか?死を望んだのも、世界を憎んだのも、もう1度手を掴んだのも、……もっと昔、お前を愛したことから間違いだったのか?」
毒を飲み、それでも死ねず、愛さなければよかったと思った。出会わなければ美しさなど知らずにいられた。こんな絶望も、知らずに済んだ。
「……もういいよ。逃がす以外ならなんでもするから、俺にお前を与えてくれ」
与えてくれ、意思も身体も。
じゃないと不公平だ。同じ時間隣にいて、同じ空間を共有したのに。
同じ感情を抱いていたのに、お互い失って俺だけ壊れるのは寂しい。
だから早く、同じものになってくれ。狂ってくれ。
疲れた。自分を憎むのも、お前に焦がれるのも。
安心させてくれ。あの本だらけの屋敷で過ごした、かつての日々のように。
よろこびからか、小瓶の栓はなかなか外せなかった。震える指先が、俺の手の甲を掻く。
薄い唇が動く。
「不運って、なに」