二方
どうして星はこんなに多いんだ?どうして火は熱い?これすごく美味いな明日も食いたい。
あの日からクロルに身の回りのものと、望む大抵を与えた。
せっかくエヴァンズ御用達の商人に服を用意させてもゴテゴテしてて嫌だ、と装飾を全部取ったり、王城に部屋を用意してもじっとしてるのは時間の無駄だ、と飛び出して夜さえ戻らないのには閉口したけれど、今日はどこに行った、何を見たと報告されるのは、暇つぶしくらいにはなった。
とくに彼が喜んだのは食事と、絵本や簡単な本だった。
常に駆け回るか覚えたての文字を追いかけて、分からないところが有ればすぐに聞く。王城の料理人たちとも仲良くなって、1日3回の食事以外にも、試作とかおやつを貰っているらしい。
すっかり餌付けされている。
最初はなにこの礼儀知らずと思ったけれど、違ったのだ。彼は礼儀も、この国も、世界も知らなかった。そうしていま歩き方を覚えた子供のように、学ぼうとしている。
それが分かってからは、無作法に腹立つことは少なくなった。教えたことを案外よく覚えていて、地頭は悪くないのね、とも思うようになった。
だからそれを、彼に問うた。
お姉さまがまだ、囚われていた頃の話だ。
∮
「俺を買ってこき使った罪で、村長を罪に問う……だと?そんな事が出来るのか?」
「ええ、当然よ。彼らはただの、貴族ですらない平民だもの。ラフィンツェ公爵家の裏帳簿に、あなたと思われる獣人の取引の記録があったの。あなた、生まれた頃の記憶はある?」
「ないな。気がついたらあの村にいて、働かされていた」
でしょうね、と心の中でつぶやいた。
目の前には、クロルがいる。最初に出会ったときとおなじ応接間で、今度は用意したテーブルの上のお菓子に手を付けることなく、わたしの言葉に耳を傾けている。教育の成果というよりは、先ほども沢山おやつを食べて、お腹が空いていないからなんでしょうけれど。彼の茶色の耳が、ピクリと揺れた。
「…………20年以上前、あなたの親は罪を犯したことで群れを追い出されたの。流れ者の獣人になってあなたを授かったけれど、お金欲しさに人身売買の組織に売った。獣人は魔力を持たないけれど身体能力に優れるから、いい商品になるの。けれどあまりにもあなたが幼いから、いろいろなところで押し付け合いになって、結局魔法が嫌いなあの村の長に労働力として買われて、働かされることになった。だからあなたは、あの村にいたの」
いやな話、と眉を顰めそうになるのを抑えて、淡々と言葉にする。彼が狼獣人の元に行きたがっているのは、見たことのない家族に会いたいからかもしれないのに。
あの男にお姉さまが捕らわれて、助けたくても王家の障壁魔法はわたしでも壊せなくて。焦るうちにも公務は、ラフィンツェの処分にまつわる諸々は積み重なる。滞れば滞るだけ、関わる誰かが不利益を被る。
お父様やお兄様、ラフィンツェの息がかからない役人とそれらを片付けて、獣人の取引に関わる報告書に目を通しているときに、彼の名前を見つけた。
ラフィンツェの罪が暴かれたことで、当然犯罪に加担した多くの者が捕らえられることになった。違法な売買にかかわった者たちの処遇は、エヴァンズに一任されている。あの人を襲った者たちを他人に裁かせる気はなかった、わたしが望んだことでもあった。
結局1番憎んだ女はあの男に殺されたけれど、すべて明らかになり、あの人が生きていた今、怒りは幾分か凪いだけれど。あの村の長のような人間を裁き、殺す権利を、変わらずわたしは持っている。
視線を戻す。すこし緊張したような顔。触ったことはないけれど、ふかふかしていそうな尻尾はゆっくり揺れている。
会いたいかもしれない親は多分あなたを待っていないと、わたしはいま、とてもひどいことを言った。
組織を潰して、自白魔法や薬を使って確かめたから間違いはないとはいえ、知りたくなかったと恨まれるかもしれない。
報告書を、彼の境遇を読んだ時、誤魔化そうかと少しだけ考えた。傷つかないように薄っぺらで優しい噓を、旅をする獣人の夫婦の間に生まれて攫われてしまったとか、それらしい物語を作ろうかしら。
親である獣人は群れとは違う遠いところにいて、組織はエヴァンズが潰した。きっと真実を知る日は来ないから。
彼の事を嫌いではなかったから、少し悩んだ。けれどそうしなかったのも、彼の事が特別好きではないから。
面倒を見ると言ったぶん身の回りの用意はしたし、不都合がないか話すようにしているけれど、彼の口からあの人の話を、とくに森を抜ける間のことを聞くのは冒険譚のようで面白いけれど。最初よりは明確に、嫌いではなくなっただけ。
だから、真実を伝えた。彼への思いやりより嘘を吐きたくないわたしのプライドが勝ったから。
恨まれるなら嘘を吐きやがって、より、本当のことを言いやがって、のほうが良かったから。
憤るかしら。悲しんで、泣くかもしれない。
2才にもならない彼は厄介払いのように売られて、使い道がない、育てるのも面倒だと、組織にも捨てられた。
柔らかそうな耳は立ったまま、茶色の瞳が伏せられた。任されたのにごめんなさいと、ここにはいない人を想う。
「そうか。知っていた」
顔を上げる。歪むだろうと思った顔は凪いで、瞳は澄んでいた。こんな顔だったかしら。
城で過ごしてもごつごつとした、筋張った指先が膝の上で摺りあわされた。迷いともとれる彼の仕草は、それが最後だった。
「知っていたって……どこで聞いたの?」
「村で何度も言われたからな。銀貨1袋と銅貨14枚もしたんだ、高かったんだからもっと働け、俺に損をさせる気かって、村長とかその家族に。……金を受け取ったのは俺を売った奴だ、俺が知るかって言ったらぶん殴られたけど」
言い放ち、肩をすくめる。でも本当に文句をつけるならそいつらだと思わないか?と、不満げな表情さえ浮かべて。
悲しみすらしないのか。
銀貨1袋と銅貨14枚。確かにそれが、彼の値段だった。わたしなら学園の休み時間に片手間で、何百倍も稼ぐことが出来る。大抵の貴族にとってもはした金にすらならない値だ。決して意思と尊厳をもつ生き物が、取引されていい値段ではないのに。
「……そう。あなたは、村長たちが憎い?あの村の長とその家族は、いまエヴァンズの者たちが拘束しているの。望むなら、罪を重くすることも出来る」
外国の狩猟禁止の森で何度も魔獣を密漁していた魔術師は、魔力封じの枷を付けてその森の民に引き渡した。ライバルの海賊船を沈めるためにセイレーンを買った海賊は、そのセイレーンと同胞たちが望むまま、乗組員全員、いまごろ海の底にいる。
「もし俺はなにも望まないと言ったら、あいつらはどうなるんだ?」
「どうもしないわ。魔物や魔獣の誘拐も、金銭で取引するのも違法だから、この国の法に従って裁かれるだけよ」
「時間をくれないか。少し、考える」
言葉の割に、クロルの瞳には、迷いとかは見受けられなかった。
「その方がいいでしょうね。次はお姉さまの事だけれど―――」
「あいつか!連絡はとれたのか?」
クロルが身を乗り出したせいで、ティーカップが揺れて水面が波打った。こら、と諫めれば身体こそ戻るものの、耳はぴんと立っている。
「ええ。あの男が公務を行うようになったから、大量の紙をあの部屋に送ることが出来るようになったの。その中に紛れ込ませたのが、これよ」
ひらり、とテーブルに紙を置く。手を離せばふわふわと浮いて、おお、と彼は感嘆の声を上げた。
かつて学園で、女生徒たちとの連絡用に作ったメッセージカード。厚紙だったそれを書類と変わらない程度まで薄くして、魔力の流れから周囲の様子を探ったり、短い距離であれば動かせるようにしたのが、これだった。
覚束なく浮きながら、魔法技術の結晶とも言える紙切れは彼の手に収まる。
「『この紙があれば、遠くにいても言葉が送れるの。お姉さまから、メッセージを受け取ることもできるわ』か?凄いな、文字が浮かび上がった!」
「あの男に気付かれないように、時々しかやり取り出来ないけどね。それでも昨日お話しした時は、お元気そうだったわ。……本当に、良かった」
壊せない障壁を、何度自分の無力を呪ったことか。わたしの悔しさには気付くこともなく、パタパタと彼の尻尾は機嫌良さげにソファを叩いた。
「部屋から血の匂いはしないから大丈夫だって言っただろ。いいなこれ、俺も欲しい。くれ」
「……何枚か作ったから良いけれど、あなたに使えるかしら。これ、魔力で動かすのよ」
獣人は魔力を持たない。言葉を受け取れはしても、送ることは出来ないだろう。試してみて、と促したけれど、予想通り彼が眉を寄せても、指先に力を込めても、紙は紙のままだった。
不満げに尻尾が揺れる。いらない?と聞けば、いや欲しいと納得していなさそうな返事をする。頑固だから渡すまで納得しないだろう、という慣れと、その様子がすこし面白かったから、それはとてつもなく高価なものなのよ、とは言わずにおいた。
最初は、あの人の転移魔法に憧れてだった。上級魔法のなかでも適性がものをいう転移を、わたしも覚えたんですと使いこなして、驚かれたり褒められたくて、お姉さまに協力もしてもらった。
残念ながら肉体を送るのはひどく難しくて、出来たのは紙を媒介に、情報を送るカードだけれど。
伝説級の素材を触媒に何十もの魔法を組み合わせて、新しい魔法も6つほど開発して。
高価だからまだ大衆に普及は難しいけれど、安価に大量生産ができるようになったら、国民の生活を大いに便利にするだろう。逆に郵便局や電話局などの通信施設に設置するなら、大型で、その分高性能なものを開発しても良い。従来より早く、楽に、多くの情報をやり取り出来れば、この国は大きく変わる。
きっとこの開発は、救国の聖女ロザリンデの功績のひとつに数えられる。ラフィンツェを追い落とした今、その名自体は、もう、どうでもいいものだけれど。
「俺が魔法を覚えれば良いのか?なら教えてくれ」
「無理じゃないかしら。獣人はそもそもの魔力を生成する器官がないの。魔力は血に流れると言うけれどーーー」
「やってみないと分からないだろ。それとももっと読み書きが出来るようになれば良いのか?」
人の話を聞きなさい。全くあの人は、牢や森にいたときに、もっと彼にいろいろと言い聞かせなかったのかしら。文句は喉の奥に押し込んだ。あの人は、人の美点を称賛こそすれ、貶しはしない。