臆病
本当の魔法の天才は、眠る必要がないらしい。
途方もない魔力量と回復量を誇り、体力の回復とか記憶の整理とか、睡眠によって行われる色々な変化を魔法で完璧にコントロールできる、ごく一部の怪物に限っては、の話だが。
『あの男は王太子になってから、ポーションや短い休憩を挟みながらも、少しずつ確実に睡眠時間は短くなっていたと報告を受けています。あのパレードの前は1週間ほど、ほぼ不眠不休だった、とも。たしかにあいつは、眠らずいることは可能なのでしょう。けれど、魔力があっても精密な調整や管理をせず、ただ体力を回復するだけなのは、いつか必ず限界が来る行為なんです。
……お姉さまが離れることを嫌がって、眠らずにいられるのにそれをしないのは、間違いなく障壁魔法に魔力を使っているからでしょう』
毎日確認していますが、障壁魔法は少しずつ込められる魔力が薄くなっていますから、破れるようになるのは時間の問題だと思います。
あと少しだけ、耐えていただけますか?
服の中に隠しておけば、紙切れを肌身離さず持っておくのは簡単だった。
確かに彼は、よく眠った。昔アーデン伯爵家に滞在していた時は人並みだったのに、1日の半分以上を、私を抱き込んで睡眠に費やしていた。
最初のころは目の下のくまの濃さから疲れているのだろうと思っていたけれど、それだけではなかったのだ。薄くはなっても消えない目元のいろに、唇を噛む。
このまま平穏な日々を過ごしているだけで、そう遠くないうちに、私に助けはくる。きっと、彼の救いにはならないけれど。
カリカリと軽快な音を立てて、踊るように何本ものペンが、宙に浮いた書類の上を走っている。放置してはいけないと勧めた書類ですら、彼の魔力を削っている。
「…………疲れてない?」
久しぶりに、本当に久しぶりに眉間に触れる。嫌がられることなく、頭が擦り寄せられた。
「なぜ、そう思う?なにも、問題ないだろう」
閉じ込められて1月以上経って、前よりは、ちゃんと話ができるようになったと思う。返事をしてくれる事が増えたとか、会話中に目が合うようになったとか、その程度だけれども。
「……君が、苦しそうなのを、見たくないからかなぁ」
棚の上には、香水瓶がいくつも並んでいる。見知ったブランドも外国の高級品も、甘いものも爽やかなものも、女物も男物も問わず、一生かけても使いきれないような量が。王太子の部屋を訪れたあと、すぐに用意されたそれらは、もうここから出ようとするなという圧にも、懇願のようにも思えた。
変わってしまった。私は私で、君は君なのに。
「俺は、お前だけでいい」
何度も聞いた言葉を、また繰り返される。願うような、呪いのような言葉を。
ここから出たいという感情に変わりはない。このままでいい筈がないとも思う。
けれど囚われているのは、どちらなのだろうか。
∮
前にも彼に、疲れてない?と言葉を掛けたことがあった。
数か月も前、彼がマーヤの傍にいることを選んですぐのころだ。季節が移ろって、図書室から見下ろす花壇の花は、つぎつぎと植え替えられていた。段々と彼と話す時間は減っていて、その頃はもう、2~3日に1度言葉を交わすかというほどだった。それでも図書室でげっそりとした無表情を見るたびに、不可思議な感情を抱いた。
最初に彼がマーヤとともに居ると言われた時、無理じゃないかな、と思った。
ヴェルシオ・ステファノ第2王子は頭がよくて、とてつもなく整った容姿をしていて、魔法の才も凄まじい。けれど多分、腹芸は上手じゃない。
私だって畏まった場所で大勢の大人に囲まれたら緊張するけれど、彼はそもそも人混みが嫌いだ。そうして多分、もの凄い人見知り。嫌いな人は嫌いだしそれを態度に出すし、気を許せる相手は片手で数えるほどしかいない。社交性がないというよりも、社交をする必要をあまり感じていなくて、だからしない事を選んでいる。
これでも何度も、もう少し人と関わった方がいいと背を押したのだ。兄さまと狩りに行きたいとオーランドが突撃してきたときには行っておいでと書庫から追い出したし、同じ趣味なら気が合うかもと読書が趣味の私の友人を紹介したこともあった。
狩りのあとは疲れたもう1年は馬に乗らなくていいとソファでぐったりしていたし、読書会は途中で帰って、どうしてお前はいないんだとクレームを言われたけれど。あとで友人に聞いたら、私の話にしか食いつかなかったらしい。
せめて本の話をしようか、とは思ったけれど、くつろいで本を読んでいる紺色のつむじを見ていれば、まあゆっくりでいいか、とも考えた。
学園に入れば関わる人も増えるし、友人も、これだけの美貌なのだからファンクラブだって出来るかもな、と。
まさか寄ってくる女の子全員、蹴散らすとは思っていなかったので。
マーヤに好意的に接していた男子の方が、魅了に掛かりやすいというのは分かっている。
早々に陥落してマーヤを望むオーランドと、ある程度関わった後もイカれピンク頭と彼女を貶すヴェルシオは、何が違ったのだろうか。
王族ゆえの魅了への抵抗力は同じだそうだから、マーヤの掛ける魅了の強さか、事前知識の差によるものか。
案外彼の人嫌いのせいかもな、とは思う。魅了はある程度好意を持つ相手にしか効かなくて、彼は知らない大抵の人が嫌いだから、それに含まれるマーヤもずっと嫌いとか。
あのときは返事はなくて、けれど頭が肩に乗せられたから、1時間近く、濃紺の髪をただ撫で続けた。
疲れが溜まっていそうだから息抜きでも用意しようか。あまりにもしんどそうだったら、もうやめてほしいと引き止めよう。そう考えながら、胸を刺すなにかには気が付かないふりをした。
慢心と言われれば、そうなのだろう。
彼だけは、私達だけはと思っていた。信じ込んでいた。
彼がマーヤに自分から笑いかけて手を取る姿を見るまで、そんなことはありえないと、そう考えていた。
∮
ベッドボードを背もたれにして、身を起こしている。濃紺の頭はすぐそばにある。触れても嫌がられず、腰に回った手に力がこもる。
変わらず手触りの良い髪を、指先で梳いてみる。嫌がられず、もっとというように押し付けられる力が強まった。
細心の注意を払う、とロザリーが伝えてくれたとおり、カードに文字が浮かび上がるのは週に一度あるかないかで、それもとても短い時間だった。
メッセージカードの事も、魔力の事も、彼には言えない。ロザリーでも家族でも、私の口から彼以外の名前が出ることをひどく嫌がるのも変わらない。そう遠くないうちとロザリーは言っていたけれど、それがいつかも分からない。
「ヴェルシオ。……君が好きだよ」
呟く。両方飲むけれどコーヒーより紅茶が好きで、人見知りなのに賑やかなところで食事をするのが好きで、吟遊詩人とか行きずりの楽団が奏でる明るい曲が好きな、そんな君が好きだよ。
返事はない。ただ身体が傾いて、膝に頭を押し付けられる。膝枕。かつてのような。
なつかしくて、少し笑った。また頭に触れる。
今の彼は王太子で、私は王妃にはなれない。そんな能力はないし、そんな未来を国も、誰も、許さない。
けれど君は君で、私は私だから。
その日が来るまでに彼と言葉を交わして、出来ればあの時の話をしたい。
目を覚ます。眠気はもうない。彼女は腕の中にいる。
押し付けた頭の下、薄い腹が上下している。
「……………………」
細いまつ毛、柔らかい髪。
目を覚ます様子はない。指に触れてみる。
手首を通って、腕を掴む。
頬に触れても、耳朶をなぞっても、姿が掻き消えることはない。
恐ろしい夢を見た。鮮烈な悪夢だった。
夢だ。
―――これが現実だと、現実に戻ったのだと、その感覚がある。
いつ、どうやって戻ってきたのか。どうでもいい。手元にいるなら、それが全てだ。
腹が空いている。暖かく、柔らかで、目の前のいきものを、美味そうとおもう。
喰ってしまえば、腹に収めれば、もう逃げられることはない。喪失を、恐れずに済む。
どうして喰ってはいけないのだったか―――結婚していないから?
そうだ、そう言っていた。
結婚していない。そんな言葉が抑止になると思っているなんて、可愛い女だ。
可愛い。そうだ、ずっと可愛い。
彼女があまりにも可愛くて、1口かじればきっと全部のみこんでしまうから、喰わないでいるのだ。
すべて、すべて、壊してしまうから。
まだ彼女は、俺を見る。俺が触れるのを受け入れて、乱れた髪を直そうとする。
そうするうちは、まだいい。
けれどいつか現状を否定して、俺を拒絶して、逃げようとするならば。
馬乗りになって、鎖骨の下に触れる。なめらかな肌、服に隠れた、忌々しい紙きれ。
また、俺を、捨てるというのなら。
―――何も残らないように、すべて、喰ってしまおう。