限界
夢を見ていた。彼が、マーヤに魅了される前の夢だ。
そうして目を覚ます。腕の中にいる。
ベッドの上、押し潰すように抱きすくめられている。
至近距離の途方もなくうつくしい顔にも、肩に掛かる吐息にも、まだ心臓は早鐘を打つ。
気付かれずに身を起こせる確率は、だいたい5分だった。最初の日のように転移で抜けようかと思ったことはあるけれど、魔力を込めた瞬間に必ず彼は目を覚まして、ぞっとするような目で私を見るから、少なくともこの部屋の中では2度と使わないと決めた。
「―――うごくな。逃げるな」
「……起きて、第一声がそれ?おはよう、ヴェルシオ」
折角半身は抜け出せたのに、今日は2分の1に負けたらしい。返事はないまま、馬乗りの彼にベッドの中心に引き戻される。
良く抱かれないな、と思う。前に墓穴を掘ったから、もう言わないけれど。機嫌がいいのか悪いのか分からない顔で頭を抱え込まれて、どくどくと脈打つ心臓の音を聞く。
早くも乱れもない音は、なんの感情も伝えてくれなかった。
停滞を部屋に収めたら、こんな風になるのだろうか。
安い生地だった服はもう、クローゼットにあったシルクのワンピースに着替えていた。女物しかないのに彼の服も変わっているから、食事がそうであるように、どこかから調達しているのだろう。
監禁と軟禁のどちらだろうな、と思う。
言葉を掛けてもほとんど返事はないし、扉に向かうことも許されない。部屋の中ならある程度好きに過ごせるけれど、ずっと視線はついて回る。
恋人とか恋愛感情を持つ相手への振る舞いというよりは、ぬいぐるみを手放したくない子供の方が、ずっとしっくりくる。じっさい彼が子供のころ手放さなかったのは本だけれど、もし誰かからぬいぐるみを与えられていたら、大切に抱え込んで、決して手放したがらなそうな所はあった。
マーヤに笑いかけていたころは、と寄り添う2人の姿が脳裏に浮かんで、瞳を閉じる。真正面から向き合うにはまだ、鈍い痛みを伴う記憶だった。
彼が本を読んでいるところも、もうずいぶん見ていない。
肩に頭を摺り寄せられる。お高い生地から嗅ぎなれない匂いがして、口を開いた。
「香水?甘いにおいがする」
花と、ムスクだろうか。知らない香りだ。彼は公の場ではともかく、普段は香水を付けなかった。
「……服だな。香水の隣にあったから、移ったんだろう」
今日は返事をしてくれる日らしい。
「君の部屋?私も欲しい」
なるべく平静を装って、窓に向けていた視線を動かす。
なんせ、距離が近すぎるのだ。五感のどれでもいいから、気を紛らわせるものが欲しい。部屋にバスはついているし、浄化魔法もこまめに使っている。けっして不潔ではないはずだけれど、至近距離にいるのだから、香りを誤魔化したくもあった。
そうしてなにより、この部屋から出るきっかけが欲しい。何種類かある?選びに行きたいな、と意識して穏やかな声を出した。
「ないし、いらないだろう。このままでいい」
「良くないよ。お願い」
数秒の沈黙のあと、取りに行きたいものもあるしな、と、嫌そうな許可が降りた。
∮
オーランドとロザリーがそうであったように、彼の部屋は隣だった。
手を掴まれて部屋に入って、息を呑んだ。本が散らばった書庫より、ずっと酷い。
照明が割れ、日光以外の光源のないその部屋は、昼間なのに薄暗かった。窓も割れ、破片は床に散らばっている。
ベッド、デスク、クローゼット、傷のない家具は一つもない。嵐が何十回も通って荒らしたかのように、何もかもが壊されつくしていた。
魔力の痕跡を調べるような、上級魔法は使えない。けれどこの惨状が誰によってもたらされたものかは分かった。
私の手を掴む、彼だ。
「だから、ないと言っただろう」
低い声だった。
何もかも破壊され尽くした部屋に、彼は迷わず足を踏み入れる。香水が隣にあるだけで、どうして香りが移ったのか分かった。飾り棚の下、装飾の施された瓶は、1本残らず割れていたからだ。
服だけ無事なのは、荒れた後で新しく用意されたからだろう。
「人の、過ごせるところじゃないでしょう」
「さあな」
どうでもよさそうに、デスクの残骸に向かう。
数百年物の1枚板は半分に割るように大きな亀裂が入っていて、チェアは粉々になって、部屋の隅に固まっていた。今にも壊れそうなそれにはうず高く書類が積まれていて、けれどそんなものに目もくれず、ペンレストに置かれた青い万年筆を手に取る。
「…………それ、まだ、持ってたの」
「預かったからな。返すか?」
「返してくれるの」
「お前がいるなら」
中を見たの。伝わらないと思っていた言葉を、知っているの。
聞けなかった。代わりに君が持っていてと答えれば、胸ポケットに青軸が挿される。
彼の用事は、もう終わったらしい。言葉もなく腰に手が回されて、部屋に戻ろうとする。
駄目だ、だってなにも出来ていない。このまま戻ったら、次はいつ外に出られるか分からない。
デスクに目が留まったのは、偶然だった。
「まって、まだ―――これ、王太子殿下への嘆願書 って、重要なものじゃないの?君の名前が書いてある」
「だとしたらなんだ?もういいだろう、戻るぞ。香水ならあとで用意しておく」
「良くないって。期限はどれだけ過ぎているの?今日はなんにち」
適当に、本当にどうでもよさそうに散らかされた紙束たち。けれどばらまかれた紙束に目を通すほど、気は遠くなった。
これは多分大臣と国王陛下の印が必要な予算書で、こっちの厚紙は外国の大使も出席する、舞踏会への招待状。
あの日から彼はずっと私といて、それ以外の何もしようとはしなかった。けれどまだ王太子のままで、学園を卒業した今行わなければいけない公務は、山のようにあるはずだ。それら全てが放っておかれたなら、どれだけ国に影響が及ぶのだろうか。
決して無下にしてはいけないそれらを、彼は塵芥のように見下ろしている。
「…………まだ、ほかに目を向けるのか?そんなものを、考えるのか」
光のない目が、私を見る。もうずっと彼が怖くて、けれどどんなことを言ってはいられない。
「君のことだよ」
はぁ、とため息をつかれた。風魔法か、書類が宙に浮く。
「戻るぞ。……離れるな。服でも香水でも、必要なものがあれば用意してやる。だから、」
かすれて、淀んだ声だった。
「なにがあろうと絶対に、俺から離れようと考えるな」
∮
彼が書類と向き合っていたのは、最初の1日だけだった。
2日目からはペンや印章を魔法で動かして、見ずに公務を始めたからだ。書類に目を通しすらしないのにどうやってか頭に入れて、書かれるサインも彼手ずからのそれと、全く変わらない。
日を追うごとに動かすペンの本数は増えて、今は7本のペンが空中を舞っている。あり得ない速さで書類を捌きながら、空いた手を私に伸ばして、首元に顔をうずめていた。
処理するたびに新しいものが用意されるらしく、紙束は毎日増えたり減ったりしていた。そうしてどんどん割り振られる量は増して今は天井に届くほどだけれど、終わる時間は早くなっている。
万年筆を回収したことで満足したのか、あれから彼が部屋を出ようとするそぶりを見せることもない。ペン先がつぶれれば捨てるペンのように、濃紺のそれを執務に使うこともなかった。
静かな、夜のことだった。
ふと目を覚ましたのは、何かが頬を掠めたからだ。
目を開く。腹に手が回されて、背中に温もりがあった。後ろから抱き込まれていることに慣れた自分にはうんざりするけれど、目の前をちらつくなにかに気を引かれる。
雲とカーテンの隙間を縫って、手元を月光が照らす。僅かな光源にうつる、それは。
蝶?違う。紙だ。掌の半分ほどの良くある紙切れが、ひらひらと飛んでいる。
指先を伸ばせば待っていたかのように私の手に収まって、滲むように、文字が浮かんだ。
『ああ、やっと繋がった!お姉さま大丈夫ですか、あの男になにをされましたか?!』
『……ロザリー?』
学園にいた頃毎日使っていた、あの連絡用のカード。
厚紙に凄まじい技術を詰め込んだ彼女の努力の成果は、羊皮紙と遜色ないほどに薄くなって、遠隔で操作できるようになったらしい。
つい声を出しそうになって、下唇を噛んだ。
私の返事に、文字は踊るように連ねられる。
『馬鹿王子はいまどうしていますか?あいつの障壁魔法のせいで部屋に入ることが出来なくて……お姉さまのご家族は皆さん怪我もありませんし、今は一度、領地に戻って頂いています。クロルも、隣にいますわ』
王太子の部屋の書類が減っているのを見て、紙に紛れ込ませてなら、これを届けられると思ったんです。魔力を悟らせないようには作ってあるけれど、気が付いていないかしら?
視線だけ後ろに向けて、よく眠っていることを確認する。微かな寝息に変化はない。言い訳を付けてベッドを下りるべきか、いや、ばれるに決まっている。
腕の中で大丈夫、と返事をした。
ほのかな月光を頼りに、彼女の文字に目を凝らす。
『よく眠ってる。あれから学園の生徒たちはどう?あと彼が……ヴェルシオが姿を見せないことを、貴族や国民には、どう説明しているの?』
行方不明の元婚約者が現れたから、その女を連れて引きこもっているなんて公にできるはずがない。書類こそするようになったけれど、会議とか社交とか、しなくてはならないことは沢山あるはずだ。
『国民には病に臥せっていると伝えていますわ。パレードの騒ぎも急に体調が悪化し、転移魔法持ちの王家の魔術師によって城に戻ったことにしました。……無理はありますが、あの場所にいたのは平民だもの、問題ないわ。いつ公務に戻るのかは不明としていますが、王太子が2人続いてその位を退けばこの国が揺らいでいると他国に思われますから、早々に廃位にはならないでしょう』
王もまだあのろくでなしのボンクラ、監禁魔の犯罪者を後継にと考えていますから。わたしとしては、何をふざけたことをと思いますが。
怒りを隠さない文字。随分と彼に対する敵意が強いとは思うが、廃位にはならないの言葉に安心する。
『そっか。ロザリーは大丈夫?学園の事も国のことも頼りきりにして……。大変でしょう?』
『問題ありません。ラフィンツェを蹴落とす準備をしていた時に比べればずっと楽だし、今表立って動いているのはお父様と陛下だもの。……お姉さまが生きていると女生徒たちに伝えていないのは、申し訳なく思うけれど』
彼女たちがお姉さまに会いたいと城に大挙して押し寄せれば、その男を刺激する可能性があるとはいえ、悲しむ姿を思えば胸が痛むわ。
ねえお姉さま、本当にその男に、いやなことはされていませんか?
村でのことはクロルに聞いたけれど、あなたが傷つくくらいなら、傷つける人間なんていなくなればいいって、そう、思っているんです。
ただの文字だ。それなのに空気が重く、寒くなった気がした。
嫌なこと。部屋から出られない退屈、家族とも連絡が取れないこと。
けれどそれは私の愚かな選択のせいで、このいびつな部屋は、私が招いたことで。
『問題ないよ。本当に、何もない』
しばらくして、そうですか、と返事があった。
『お姉さまがおっしゃるなら、そう思っておきましょう。その男の限界も近いでしょうし』
ん、とむずがるように彼が身じろぎしたせいで、心臓が大きく跳ねた。
ドッドッと大きく鼓動するそれを声を出さないように宥めていたから、続く文字の意味を理解するのに、時間がかかった。
『……限界って?』
『そのままの意味です。わたしでさえ壊せない王家の障壁魔法を1月以上も維持するなど、無理をしているに決まっているもの。眠って魔力を回復する必要があるのがいい証拠だわ。魔力が切れて魔法が解けるか、気絶し維持できなくなるか、どちらにせよ遠くないうちに、そいつは破滅するでしょう』
あまり長話をしては気付かれますから、今晩はここまでにしましょう。次にその男の魔力の気配が薄い時に、またお話させてください。
返事より早く、文字は止まった。