過去
優秀な男だった。
勉学も、魔法も、武術も、ありとあらゆることが。
そのどれも、正当に評価されないだけで。
「シーリア?どうしたの、じっと見て。……ああ、この間の順位表?」
2年目のアーデンでの避暑では、鐘楼の上で花祭りの最後に打ち上げられる花火を見たし、父の愛馬に二人で乗って遠駆けもした。
また来いよと両親と兄に手を振って見送られて、けれど今年は難しいかもしれないなと、胸元の校章を人差し指の先で触れる。
学年で色が違う魔法石と金でできたこの校章は、貴族のみが通える国立学園の入学時に渡されるもので、これ一つで平民の給料数か月分がぽんと飛ぶ。
けれどこの学園に通える、あるいは卒業生という肩書きはその何百倍もの価値を持つし、王子様の婚約者として、私に当然のように与えられたものだった。
入学式が昨日のことのように思い出される、とまでは言わないけれど、それでも学園に入学してから半年近くがたっていた。新しい友人が出来て、簡単な魔法薬の調合などもして、入学して3月ほどとつい先日、2回試験を受けた。
当然王子の彼も同じ学園に入って、平々凡々にBクラスに落ち着いている私と違って、特に身分が高かったり成績優秀な生徒が在籍する、Sクラスにいる。順位表に張り出される成績は私と全く同じ、中間くらいだけれど。
「生徒全員の順位が張り出されるって残酷で、私、好きじゃないわ。シーリアの順位は……あら、ヴェルシオ殿下と3点しか違わないのね。流石あなたたち仲がいいわね」
「……本当は、違うんだけどね」
「え、なにか言った?」
笑みを取り繕って、なんでもないよと返した。
学園で新しく出来た友人。同じクラスで澄んだ綺麗な声をしていて、幼馴染の恋人兼婚約者がいて、けれど少女らしく王子様には憧れを持つ可愛い女の子。
彼女にいうべきことではない。言ってもどうしようもない。
またねと手を振って、階段に続く廊下に足を向ける。その方向だけで目的地を察したのか、本当に仲が良いわねと揶揄い混じりの声が掛かった。
試験は7科目。そのうち2科目は外国語の選択で、この大陸で広く話されている言語のうち、2つを選んで受講する。
日常会話が出来るようになる、を目標にするそれはまあまあ難しくて、私は母国語に近い言語を選んで。やっと平均より少し上の点が取れた。
彼も似たり寄ったりで、同じような成績なのにSクラスにいるのはこの国の王子だからと誰もが思っている。
事実を知るのは、ほんのわずかな一握りだ。
∮
「来たか。ほら出すものがあるだろう、見せろ」
「……はいはい」
東館の4階の角、試験が終わったからか勉強する生徒もおらず、がらんとした図書室の最奥、なぜか扉に背を向けるように置かれた本棚の向こうにその場所はある。
本のにおいの向こうにあるのは、黒の皮張りの2人掛けのソファと、どこから持ってきたのか全く分からない白の大理石のローテーブル。教室の3分の1ほどの広さの場所はこちらむきの本棚にぐるりと取り囲まれて、背の高いそれらは仕切りだったのだと気付かせる。
窓からさす明るい陽は、けれど保護の魔法によって蔵書を茶色く焼くこともない。
部屋の隅にあるのは小さな蔦模様が彫られた棚で、これだけは私が置くと決めたものだった。
訪れたのは、彼の―――婚約者、ヴェルシオ・ステファノの秘密基地兼、放課後の集合場所だった。
王城にいたころは希少本を管理していた個室を私物化していたけれど、彼の引きこもりは学園に入っても変わらなかった。
入学して旧図書室も人の立ち入らない図書の管理庫もないと確認するや、ヴェルシオは部屋がなければ作ればいいと言わんばかりに、本棚を動かして図書室の一角を占領した。
とんでもなく座り心地も寝心地もいいソファを運び込んで、縄張りを守る動物のように好奇心から近づく生徒を追い払っていたのは記憶に新しい。おかげで生徒の間ではディリティリオを読みたいなら諦めて本屋で買え、と知れ渡っている。居ないうちにこっそり借りてもすぐに気付いて、誰かが立ち入ったことに機嫌を悪くするから、踏まなくていいドラゴンの尾は踏まずにおこうという安全策だ。
……そんな邪知暴虐の横暴王子の婚約者であるのをいいことに、好きな本を快適に読み放題や自習室使い放題の恩恵を受けていると言われれば、その通りなのだが。
此処を訪れるもの皆追い払う暴君は、私だけは嫌がらない。
それどころか居眠りとかで向かうのが遅れれば迎えに来てくれるし、今だってそれが当然である、と言わんばかりに、かつてより大きくなった滑らかな手を私に差し出す。
16になって、彼はとてつもなく格好良くなった。
元から比類なく美しい少年だったけれど、背が伸びて美貌に精悍さが混じって、高名な詩人にだってこの美しさはとても表現できないほどに。
艶のある紺髪も傷一つない肌も、宝石のような金色を覆う長いまつ毛も持っていたのに、怜悧な瞳の鋭さや無駄な肉は一切ない均整のとれた身体まで得てしまった。
入学式では彼が現れた瞬間に生徒達はざわついて、その後暫くは上級同級問わず、美貌の王子とお近づきになりたいと1年のSクラスは人でごったがえすほどだった。
社交的ではないし、人より本のほうがよっぽど好きなくせに。そういえば彼は最上級の容姿も、身分も持っていた。
足を組んで答案に目を通す姿は、それだけでわずかにしかめられた眉まで美しい。
入学当初の騒ぎは青筋を立てた彼が蹴散らして落ち着いたけれど、この場所に立ち入る権利と対面のソファを望む女生徒は、いまだ多くいる。
こんなに格好良くならなくても良かったのに。
浮かんだ言葉を慌てて打ち消した。
私が思うには、あまりにも分不相応だ。
溜息にならないように気を付けて息を吐きだして、持ってきた鞄をあさる。暴君は当然のように私が差し出した数枚の紙を受け取った。右上に赤く太い字で2桁の数字が書かれた、試験の答案を。
試験が行われていたのはつい先日で、最後の1枚が返されたのは今日だった。机の上には同じように返された、彼の答案が無造作に置かれている。点数もチェックの位置も、私のそれといやになるほどよく似ていた。
「魔法薬学が68、歴史が56、法律が61と修辞が72か……クソ、長文はどうしても答えがズレるな」
「点数読み上げるのやめてくれないかな」
私がなんと答えるか予想して、同じ点数を狙うのも。
「防音魔法は貼ってある。誰かに聞かれはしないから良いだろ」
代わりの恨み言にも、平然と返される。実技の魔法試験では防音魔法などできないと、すっとぼけていたくせに。
成績は凡庸でもその容姿で少女たちの心をがっちりと掴んでいる彼は、昔から頭のいい少年だった。難しい言葉も複雑な言い回しも知っていたし、私がディリティリオの母国の言葉で彼の作品を読みたくて辞書片手に四苦八苦していた頃、彼はさまざまな国の訳書を集めて、平然とした顔でこの翻訳者は当たりだとかこいつは表現は良いが言葉遣いが気に食わないとか、よく分からないことを好き勝手言っていた。
容姿と地位どころか、文武両道の王子様。それを知るのは、ロザリーやローガンなどほんのひと握りしか居ないし、彼らのいないこの学園では私だけだけれど。
正妃様がオーランド以下であることを望むから、優秀さを示せば目をつけられるから、彼がしようと思えば簡単に全教科満点を取れるのに、Bクラスの生徒と同じ位の成績をわざと取っている。私と同じ点数を取ろうとするのは全力を出せないゆえの、お遊びのようなものだろう。
私の解答と同じところに空欄のある、外国語の読解問題に目を落とす。最近は放課後をずっと勉強に使っていた私と違って、彼は試験前日に私のノートをぱらぱらとめくっていただけだった。
ところどころ間違っている言葉を、彼は3年以上昔から完璧に覚えて、流暢に話せるようになっていたのだから、解けない箇所などなかったはずだ。
ローファーの踵で、深みのある焦茶の床を擦る。さっき思ったことを踏みつぶすように。
何が格好よくなってほしくない、だ。彼が本来の評価を受けないのも嫌なくせに、何よりそれをどうこう言う権利は私にはないのに。
見比べ終わったのか、彼は自分の解答を隅の屑籠に放り込んだ。一切の興味を失った顔で私の分は返してくれるけれど、その眉はまだ、わずかに顰められている。
どうかしたのと聞きながら、やっと私の定位置である向かいのソファに座った。
「……ここまでしても、まだ俺はBクラスに入れないのかと思っただけだ」
「まさか、また校長室に忍び込んだの?懲りないなぁ。君が王子様な限り、どんなに成績が悪くたってSクラスのままだと思うよ。赤点だらけだって、落とすわけにはいかないでしょ」
チ、と不機嫌を隠さない顔をされて、思わず笑ってしまった。
貴族の学園とはいえ学び舎としても一流のここは、半年に一度、成績に応じてクラスの変更が行われる。彼は私のクラスが決まってからずっとBクラスを希望していて、図書室に部屋を作るまでは休み時間も放課後もずっとBクラスの教室に来てくつろいでいたから、たびたび隣の席を奪われるヴェリン子爵家のジョンはかわいそうだった。
最初の試験の後にも、校長室の金庫を鍵開けの魔法でなんやかんやして暫定のクラス表を確認していたらしい。ちゃんと侵入禁止の魔法が厳重に掛けられていた筈なのに、騒ぎにすらならなかったあたり彼の実力が伺える。
「もうお前をSクラスに入れるしかないな。座れ、来年には同じクラスだ」
「え、いや無理だと思……あっ待って流石に試験おわってすぐに勉強会はいやだー!」
試験用紙は片付けられたはずなのに、ついと指差された机の上には、見慣れた教科書がぞろりと並べられていた。
散々ごねて嫌がって逃げて、結局転移魔法で無理やり学園街に連れ出した。
今日は気晴らしのスイーツ巡り!と強固に主張して、諦めない彼が明日から頑張ろうなとわずかに笑うから、頑張って逃げ切るよ、と返した。
人嫌いでこだわりが強くて、けれど私に優しいし甘いから、きっと明日も勉強はしないだろう。
そんな確信をもって、賑やかな雑踏の中、彼の手を引いた。