一方
ロザリンデ・エヴァンズは激怒した。
怒り、などという生易しい感情では言い表せないほどの憤りで、憎悪にも似ていた。
数刻前のよろこびとあの人の言葉、先程まであの人の家族の対応をしていたという事実がなければ、苛立ちのままに物を破壊していたかもしれない。深呼吸して、笑顔をつくる。
あの人の家族にそうしたように、親しみを感じさせつつも信頼できると思わせる、完璧な笑みを。
「初めまして。先程のものから、おおよその話は聞いたかしら。わたしの名はロザリンデ・エヴァンズ。この国にいる間のあなたの身元は、わたしとエヴァンズ公爵家が保証するわ。クロルと呼べばいい?」
「別にいい。それよりこれ甘くてうまいな」
ぴくりと、こめかみがひきつった。
目の前のソファには1人の獣人がいる。背が高くてひょろりとしている。朴訥と評せる顔立ちに、深みのある茶色の瞳。そうして頭の上に、ぴんと尖った狼の耳がついている。
わたしが部屋に入ったとき、彼は既に用意させた菓子の半分以上を食べ尽くしていた。その時点でなにこの男、とは思ったけれど、わたしが言葉を発する間もずっとお菓子を口に放り込み続けたのだから、本当にどうしてやろうかしら。
「…………そう、良かったわ」
「なんだお前、変な顔だな。それよりあいつは今何をしてるんだ?ここは王城ってところなんだろう。城に飛ぶってあいつは言ってた、ここのことだろ?」
誰が変な顔よ、と不作法な男をひっぱたきたくなるのもぐっとこらえる。耐えて、耐えるのよロザリンデ・エヴァンズ。この怒りはすべてあの忌々しい監禁魔に向けるの。今この瞬間にもお姉さまがどんな目にあっているのか分からないことに比べれば、ずっと御せる怒りだわ。
何より―――あの人を奪われた、失った瞬間の絶望に比べれば、ずっと、ずっと安い感情じゃない。
「…………あなたが心配する必要はないわ。あの人のことは、すべて、任せて頂戴」
魔法が掛かっているから、今は会うことは出来ないけれど。命にかかわることはないわ。
ヴェルシオ王太子がーーーあの忌々しい男が、お姉さまを手に掛けることはない。それだけは確信している。とはいえ我ながら白々しい言葉に、ため息をつきたくなった。
浮かべた笑みの裏で、あの人を思い浮かべる。安物のごわつく服に、ささくれた爪先。それでも笑い方も、頭を撫でてくれた手のひらも、穏やかな声も、何1つ変わらなかった。
1人でマリット男爵領に向かうあの人を引き留めた。大丈夫だよ、大勢で行っても警戒させるだけだしロザリーには学園にいてほしいし、と言われて、しぶしぶ頷いた。せめて公爵家の魔導馬車を使ってくださいとお願いして、お姉さまを見送ったわたしを
―――何千何万回と、わたしは憎んだ。
やはりあの男は、腑抜けた傀儡であるうちに殺しておけばよかったのだ。
殺してやる。もう二度とあの人を傷つけさせも、損なわせもしない。ずっと嫌いだった、それが憎悪に代わっただけ。
生きながら死んでいたから、生きることを許した。そうした方がずっと、ずっと復讐になったから。なのにあの人が現れてしまった。
何一つ忘れない。あの人を失ったってマーヤを腕にまとわりつかせて笑っていた、あの男への怒りを。まだ奪おうとする、あの男への憎悪を。
その為に、目の前のこの獣人は邪魔だった。お姉さまが生きていると知り、今もあの人を探している。
公にできない魔法の1つ2つ、エヴァンズも当然持っている。記憶を処理して行きたがっている狼獣人の元に送ってやれれば1番楽だろうけれど、お姉さまはこの獣人を気にかけて、信頼してわたしに任せてくれた。
生きていた娘を目の前で奪われて怒り、憔悴しているアーデンの人々に任せるわけにもいかないから、やはりわたしがこの獣人を言い聞かせるのが1番なのだろう。
「この城にいてくれても構わないし、望んでいた同胞たちの元へもすぐに---」
「いやだ。お前はなんだか嘘くさい。俺がどうするかはあいつと会って判断する。案内しろ」
ピキリ、と額に青筋が立った。
「……あの人の居場所は、伝えられないわ」
「別に良いぞ、上だろ。匂いで分かる」
手を付けていないティーカップが、カタカタと震えた。匂いってなによ匂いって犬じゃないんだから、と怒鳴りそうになるのも堪える。
1つだけ確信した。―――わたしは、この男が嫌いだ。
「もう良いか?菓子は美味かった。じゃあな」
「あ、ちょっと---待ちなさい!」
言葉に茶色の耳をかさず、獣人は大股で応接室を出る。まさかあの人の元に向かうつもり?
嫌な予感は当たっていて、階段を登る仕草に迷いはない。
ふざけないで。あなたが部屋の前にいたところで何もできないわ。魔法も使えないのにそれであの男を刺激して、そうしてあの人が傷ついたら---
「まって、やめなさい!勝手なことをして、あなた何をしようとしているか分かっているの?!」
「知らん。行く」
一瞬迷ったのが仇になった。男は迷いなく、1段飛ばしでずんずんと進む。
ブラウンの後頭部を追いながら、彼はお姉さまが好きなのかしら、と思う。忌々しい村での3ヶ月と、それから今日までずっと、彼はあの人と共にいて、同じ困難を乗り越えたという。
恋なのかしら。あの男にとってたったひとりであったように。
なら、なおのことこの獣人の振る舞いを許すわけにはいかない。これ以上あの人が傷つくのは許さない。
「止まれって言っているでしょう!なにも―――なんにも知らないくせに!」
学園で起こった全ても、あの日わたしの頭を撫でてくれた手のひらの暖かさも、泣き崩れるわたしをずっと抱きしめてくれたことも、他人が勝手に口を出して、めちゃくちゃにしようとしないで。
彼は、ぴたりと足を止めた。
「知らないくせに、だと?言わないのはお前たちだろう。あの男は誰で、どうして城に連れてこられたんだって、何度も俺は聞いたぞ。理由は言わないけれど言うことは聞けって、勝手なのはどっちだ」
機嫌悪そうに耳をひくつかせて、彼は私を見下ろす。
何も言わない、ですって?あなたに言ってどうなるの。関係のない話よ。
―――そう思うのに、その目があまりに真っ直ぐにわたしを見据えていたから、用意していた言葉を忘れた。
「…………あの紺色の髪の男はこの国の王子で、あの人はあいつの婚約者だったの。仲睦まじく過ごしていたけれど、あの人とあなたが出会う前に、色々……ある人間が、多くの人の心を操ろうとして。その企みの邪魔になったことから、あの人はならず者達に襲われて、そうしてあの人はいなくなった」
あなたに出会ったのもその時よ、と唇が動く。荒唐無稽な話だわ、とは思う。出来の悪い戯曲みたい。
「その企みは明らかになって犯人も捕らえられたけれど、あの人を失ったことで、あの王子は狂気の淵にいるわ。何をしてでも必ずあの人は助けるけれど、いまあなたが先走れば、どうなるか分からない。だから止めたの」
けれどまぎれもない真実なのだから、これで納得しなければ、今度こそ拘束魔法でふん縛って狼獣人の群れに放り込んでやるわ。
こっそり魔力を練った。けれど彼はなるほどと1つ頷いて、柔らかそうなしっぽを揺らした。
「そうか。教えてくれてありがとう。もっと早く言ってくれ。あんたらが嫌な奴らだと思っただろう」
「……感謝したいのか、文句を言いたいのか、どっちよ」
思ったことを言っただけだと、正面から見下ろされる。ぴんと立った耳のせいか、座って向き合った時よりも、その身長は高く見えた。
「もっと教えてくれ。この国の王子と婚約していたなら、あいつは偉いやつなのか?お前よりも?」
「無知とはいえ、ほんとうに失礼なことを聞くわね……。素晴らしい人だけれど、お姉さまの身分は高くないわ。細かいことを教えるから、部屋に戻るわよ」
「分かった。……ん、お姉さま?お前、もしかしてロザリーか?」
ロザリー。あの人だけが呼ぶ名前。
頷くと、お前かあいつが話していたの!と彼は叫ぶ。
「お姉さまって呼んでくれる妹みたいな子がいた、頭がよくて努力家で……ああそうだ、綺麗な赤い髪と瞳だと言っていた。お前か!なるほど、きれいな赤だもんな。それも早く言ってくれ」
「綺麗って……それよりお前って呼ぶんじゃないわよ!」
ならなんて呼べばいいんだ、ロザリーでいいか?と問われて、エヴァンズ公爵令嬢、せめてロザリンデ様と呼びなさい!と返せば、長いと文句を言われる。本当に、なんて恐れ知らずで無知で、考えなしな男なのか。引き留めずにあの監禁魔の部屋の前で大声をだせば不敬罪に問われていたかもしれないし、わたしへの言葉だって、見咎められれば王都から追放ものだ。
そうしてやろうかしら、とエヴァンズ公爵家の人間としては思うけれど、お姉さまを慕う心が引き留める。あの人ともう一度話すとき彼がそうなったと知れば、きっと悲しむ。
だからこの無鉄砲で、馬鹿正直で、好きになれなさそうな青年の世話だって見てあげよう。
わたしはあの人の、妹みたいな子、だから。