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陽だまりに手を引く  作者: 真昼
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弟妹

 







 レモンを目の前で絞ってレモネードにする出店に、偽物の宝石が使われた平民向けの装飾店、教えた言葉の反対語を話すオウムや尻尾の先が常に燃えている蜥蜴が檻に入れられた、魔獣専門の動物屋。

 詳しい、の言葉に嘘はないらしく、彼女はふだんより言葉も表情もにぎやかに、劇場に向かうまでにあちこち寄り道をしつつ、ヴェルシオに城下街を案内してくれた。

 シーリアの顔見知りらしい、店員や通りすがりの人間にも、何度も親しげに話しかけられた。よく訪れているので、といっていたが、彼女と本以外の話をすることはほとんどなかったから、そんな一面を見るのももちろん初めてだった。


「アーデンのタウン・ハウスがこの近くにあるんです。……あ、もうこんな時間。そろそろ劇場に行きましょうか」


 チケットに書かれた時間より15分早く着いたその劇場は、王家の人間として数回訪れた国の自慢の大劇場よりずっと小さく、座席も固かった。

 アーデンの使用人が取った座席は舞台の正面、中央に近い席で、いつもボックス席ばかりだったから、全体を見渡せる眺めの良さに驚いた。観客達から、好奇の視線を向けられることもない。


 隣の椅子に座った少女は、いつの間にか手に入れたパンフレットを読みながら、紙面を指でなぞったり、首を傾げたりしている。

 特別会話することはなかった。防御石や護衛のことでは憂鬱になったりもしていたのに、街歩きからいつの間にか、楽しんでいる自分に気付く。


 どうしてだろう、と思う。窮屈で退屈な王城から離れられたから、だけではない。


 照明が落ちて、ところどころ雑談に興じていた空気に、静寂が満ちる。

 そうして、幕が上がる。





 ∮





 まばらな拍手。幕が降りたあと、そそくさと立ち去る観客達。


「……………あっりえない、なんだったんですかあれ」


 目の前の客数人が立ち去って十数秒の間をおいて、地を這うような声で、シーリアは呟いた。


 台本となるディリティリオの遺作は、ある医師の女性の半生を描いたものだ。

 貧しい孤児院で生まれ育った彼女は若くして結婚し、離婚し、学びの道に生きると決めて、医術学園の門を潜る。そこで生涯の師となる女性と出逢い、その人を失い、彼女の遺したある問題と向き合うことになる。


 舞台が始まって10分、この師匠となる女性が、舞台上で男になっていた時から、嫌な予感はしていた。


「は?いや本当になんだったんですかあれ……?脚本家は何を読んでこんなものを書いたんですか?外国の作品だから100回翻訳されるうちに原型を失ったとかですかね」


 彼女の手のうちにあったパンフレットは握り潰され、こちらもとっくの昔に原形を失っていた。

 そうなるのも無理はない。だって本当にひどかった。唐突に始まる陳腐なラブストーリー、何故か出てくる原作にいなかった人物、原作改変改変改変、改変につぐ改変。


 何故か原作では3行しか書かれなかった元夫が出てきて主人公に求愛したあたりでヴェルシオはいっそ寝てやろうかと思ったし、原作で間違いなく亡くなっている師匠(男)が実は生きていましたエンドで主人公とくっついた時には隣のシーリアがパンフレットを握り潰すクシャ……ミシャ……という音に、彼女は大丈夫だろうかと現実逃避しながら心配した。


 本当に酷かった、と心から思う。地獄のような舞台だった。

 初めての舞台に大きく期待は膨らんでいたはずで、けれど裏切られたと腹立たしくも、悔しくも思わないのはどうしてだろう。


 例えば公務として訪れる舞台であれば、こんなことは起こらない。国有数の脚本家と台本と役者で作られる、庶民では見ることも出来ない素晴らしい舞台になる筈だ。そうして、どんなに優れた舞台であっても誰かと感想を言い合うこともなく、余韻に浸る間も無く一人っきりの自室に戻り、ベッドに潜り込むのだろう。


 それを考えると彼女がいて、周囲の目を気にせず酷い出来、と言い合える、この舞台は。


「……原作に忠実なところもあっただろ。最初のシーン、サンザシの木から飛び立つ小鳥とか」


「そこだけだったじゃないですか。……でも、なんだか楽しそうですね」


「そうか?」


 そうかもしれない。



「殿下が気に入ったなら、そこは良かったですけど。でも絶対にリベンジはさせてください。次に伺う2週間後もディリティリオを公演している、別の劇場がありますから」


 その日ならダチュラシリーズを演っていたところもあった筈です。どこが一番原作に忠実なのか良く調べておきます。そう言いながらやっと、しわだらけのパンフレットを彼女は丁寧に折りたたむ。


「また転移魔法か?何回も使えるものなのか」


 いくらでも使えるわけじゃない、とシーリア自身も言っていた通り、転移を使える人間は貴重で、生まれた国によってはその魔法を管理されることもあると聞いた事がある。


「大丈夫です。……私の転移魔法で飛ばせる人数は、自分と触れている人1人まで。距離にも制限があって、再行使までの時間に依存します。本来の魔力のほかに時間で溜まる転移専用の魔力の器みたいなものがあって、器が満ちているほど遠くに転移できる、といえば分かりやすいですかね?器の容量は大体3か月で満杯になって、その状態で1人だけ転移なら王城から街3つくらい飛べるけれど、2週間分の魔力で2人飛ぶなら、王城から王都のどこかに往復、が良いところです」


 3か月以上使わなくてもそれ以上の距離は飛べませんし、触れた相手1人だけを転移させることも可能ですが、着地点の座標の精度は下がります。基本的に、飛ばす誰かに馴染み深い場所になるようです。


 指折り数えて、慣れた口調でシーリアは説明する。


「面倒臭いな……」


「これでも使い勝手はいい方ですよ。アーデン家は転移に適性があるといっても、物品しか転移させられないとか決まった場所にしか飛べないとか、なにかしらの制限がある人ばかりです。そのかわり、これから先私が魔法を訓練して魔力が上がったとしても、転移魔法に関してはこれ以上伸びないという見立てですが」


 完全に先天性です、と少女はうなずく。

 彼女の持つ転移などの上級魔法は有用で強力なものばかりだが、人が持つにはすぎた力も多い。人の心を操作する魔法など、使うだけで法に触れるものさえある。


「もちろん王都なら、観劇以外にも行けます。2週間あるから、次に会うまでに行きたい場所があれば教えていただくか、考えておいてくれると嬉しいです」


「……ディリティリオの、違う舞台でいい」


 言うと思っていました、とシーリアは瞳を細めた。


 私としたことが、本屋には寄っていなかったですね。ちょっと寄り道してから帰りましょうか。そう跳ねるような声を出して、彼女は席を立った。ぼんやりと薄暗い中でほのかに明るい彼女の髪を追いかけながら、これからずっとヴェルシオを連れ出すつもりなのか、と考える。

 実現できるかはさておき、彼女にそうしたいと思われていることに、唐突にプレゼントを渡されたような、心臓が温かくなるような、不思議な感情を抱く。


 外は橙と薄青を混ぜた色に変わっていて、一番星が時計台の向こうで揺らめいていた。街の喧騒。何処からか聞こえる、吟遊詩人の歌声。

 こんなに空の色合いは、鮮やかなものだっただろうか。

 わからない。分からないけれど、それら全て、さっきよりずっと鮮明に目に耳に届いて、美しいものに感じた。





 ∮






「弟君と会ってみませんか?」


「お前の?」


「殿下の。私弟はいませんし。」


 兄妹は兄1人です、と言葉をつづけながら、シーリアはメレンゲを焼いた菓子をつまんだ。

 あの観劇の日からまた季節が巡り、丁度1年経った日のことだった。2週間に一度の逢瀬は沈黙のお茶会から読書会になり、今ではすっかり王都観光になっていた。本屋に行ったり、劇場に行ったり、公務では決して行かないような低俗な雑誌を揃えた店でだらだらと時間を過ごしたり、祭りがあれば出店を巡ったり。今日もシーリアが書庫を訪れたから手を差し出して、さて今日は城下の何処に行こうか、候補はいくつか考えたけれど前回彼女のお薦めの文具店は面白かったし、などと考えていた、矢先のことだった。


 シーリアと出会ってから、人生は面白くなった。その頃には流石に、その青い感情を認めるようになっていた。

 彼女と迎える2週間に1度は楽しいし、それを待つ間も、何処に行こうかとか何をしようかと考えるのは面白い。

 夜眠る間際に明日が楽しみだ、とごく自然に思うようになった。それは生まれて初めてのことで、自分で自分に驚いたけれどこそばゆくて、シーリアのせいだ、と思うと少しも嫌ではなかった。


 だからこそ、彼女から弟という単語が出たことに、内心とても驚いた。


 ヴェルシオの弟は、名をオーランドという。

 2つ年下だから、最近10歳になったのだったか。王と同じ金髪と金の瞳をした、快活で騒がしい、いつも人の中心にいる少年だ。

 王妃が嫌がるから、同じ催しに出ても会話したことはほとんどない。上座や一番人目を集めるテーブルから時折物言いたげな視線を向けられたが、声をかけたこともなかった。



「気が進みませんか?」


 沈黙したヴェルシオに、静かな言葉がかかる。婚約者は、こういうところが本当に目敏い。いままで王妃との確執や弟について1度も言及された事はないけれど、あえて何も言わずいてくれていると、それくらいは分かる。


 態度に出ていたかと思いつつ、差し出したままだった手を下ろす。

 別に、弟に悪感情はない。嫉妬も、嫌悪も、なにも。そんなものを自分より年下に向けるほど、つまらない男になりたくもない。

 けれど多分、好きでもない。無関心が一番近いだろうか。


 シーリアのために用意したティーカップを見下ろして、ぼんやり考える。つるりと白いそれは、揃いで用意したものだ。

 現状に満足している。だからこそ、どうして今更。そう思ってしまうのは、心が狭いのだろうか。


 王太子である弟は人気者だ。ヴェルシオにはない朗らかさがある彼は茶会でも何処でも、常に人目を集めて囲まれている。

 対してヴェルシオは、茶会などでも未だ、1人でいることが多かった。


 シーリアと俺が案外上手くやれている事が正妃の目に止まれば、2週間に一度の外出の機会は失われるかもしれない。政略ですらない、当て付けのような婚約だ。解消されることもあるかも―――園遊会に出ることがあっても、出会ってからの1年ほどと同じく、特別親しげにはしないようにしようと提案したのはヴェルシオからで、外出するようになってすぐの事だった。


 そうして初めて、自分はさほど孤独を苦とする人間ではない、ということに気がついた。あれだけ憎んだ孤独は常に寄り添う訳ではなくなった事で、許容できるものになった。


 オーランドと関わる必要がないと思うのは、世間の常識や良識で測るなら、冷たい兄となるのだろう。けれど多分ヴェルシオは、オーランドよりシーリアよりもずっと、他人と関わることをそもそも必要としない人間なのだ。時々遠目に、シーリアが色々な少女たちと話しているのを眺めるだけでも、時計を呪うことは無くなった。


 シーリアもそれには思い至ってないらしい―――息を吸うように他人と関わろうとする彼女にとっては、馴染みのない感覚なのだと思う。ヴェルシオとすら仲良くやれているくらいなのだから、彼女もオーランドに負けず、社交的な人間だ。


「……どうして、お前が弟と会わないかなんて言い出す。ろくに接点もなかっただろう」


「ロザリー……オーランド殿下の婚約者、ロザリンデ・エヴァンズ公爵令嬢と、最近よくやりとりしていて、いつか義兄となる人にちゃんと会って、話してみたいっていうんです。正妃様や周囲の目を気にされているなら、エヴァンズ公爵家も協力するからって」


 凄くいい子なんです。可愛くて、努力家で。だからお願いをかなえてあげたくて。

 彼女が小説の登場人物以外で、誰かの人となりに言及するのはほとんど初めてだった。


 気乗りはしない。けれど弟の婚約者経由で彼女が誘われたなら、ここで断ってもシーリアは弟やその婚約者にその旨を伝えに行くのだろう。ヴェルシオのせいで彼女が弟や公爵令嬢に謝ったりするのだろうか、と考えると、重い天秤は傾いた。


「……出席する。いつの話だ」

「いいんですか?なら今にでも。もうお茶会の準備はエヴァンズ公爵家がしてくれているそうです」


 薄く笑って、婚約者は手を差し出す。いつもいつも突然すぎる、とため息をつきながら、その手をとった。




「兄さま!」


 慣れた浮遊感。転移した先は、王城の中庭だった。城門を超えてすぐの、国が誇る大庭園よりは小規模なその場所は、それでも完璧な調和と美しさを保って、生垣には薔薇が咲き誇っていた。


 真っ先に俺たちに気付いたのは、弟だった。釣られるようにその婚約者―――エヴァンズ公爵令嬢が、真紅の髪と、瞳を揺らす。


 シーリアが、2つ年下のその少女に小さく手を振るのを横目で見た。

 駆け寄った金髪の少年の、芝生を踏む音。


「来てくださったんですか、ありがとうございます!俺、ずっと兄さまとおはなししたかったんです!」


 同じ金色の瞳の弟は、そう言って、てらいなく俺に笑いかけた。




 ∮




 季節の果物をふんだんに使ったパイに、菓子との相性が考えられた紅茶の水色。薔薇が描かれたティーセットは、一目で最高の品と分かる。

 普段のヴェルシオとシーリアの茶会より格段に質の良い品が用意されたティータイムで、誰よりもヴェルシオに話かけたのは弟だった。


「兄さまは普段、どんなことをしているんですか?俺はこの前友人達と、郊外で水泳の訓練をしました!父上はご公務で忙しくされていたけれど大臣が自慢の湖に招待してくれて、皆で誰が一番早く泳げるか競争したんです!騎士団長の父親に教わっているからってジャックが一番泳ぎ自体は上手かったんですけれど、最後は俺が1番を取りました!あとは―――」


 つらつらと、瞳を輝かせてどこに行って何が楽しくて、何が贈られて何を教わって、と感嘆符が大量につきそうな口調で、弟は自分の好きな事を話す。

 何が好きか聞かれて本と答えれば、アウディスク初代王の伝説とか冒険ものなら俺も読みます!と元気よく身を乗り出した。


「英雄ものか冒険ものしか読まない、の間違いでしょう?全くオーランドったら」


「ロザリーは王子様と姫君の、恋物語が好きだもんねぇ」


「もう、お姉さま!」


 時折エヴァンズ公爵令嬢がオーランドを諫めたり呆れたりして、それをシーリアがつついて年下の少女にむくれられて。和やかな歓談のなか、話せて本当にうれしい、とでもいうように、弟はずっと嬉しそうに、ヴェルシオに話題を振りつづけた。



 想像よりずっと賑やかな空気の中、最高級の紅茶の、澄んだ水色に顔を映す。

 もっと、醜い嫉妬にかられると思っていた。



 オーランドが何を与えられたとか贈られたとか、以前のヴェルシオは、聞くことすら嫌だった。

 少し前だったら、目の前にあるティーカップや茶葉すら、いつも自分に用意されるものと比較して、口をつけなかっただろう。

 けれど今は、城下街で一番人気の店の揚げ菓子の熱さを知っている。猫舌になった時に笑いながら手渡された、魔法で冷やされた果実水の味も。


 深い香りと苦み、その後の甘みを感じながら、紅茶を飲み下す。

 素直に美味いと思えるのは、きっと婚約者のおかげだ。イミテーションの宝石や色付きのガラスは光に透かすと綺麗なことも、広場で気まぐれに詩人が唄う曲が耳を楽しませることも、シーリアに連れだされて、初めて知った。


 楽しい、と思えた時間はあっという間だった。気が付くと、夕焼けの橙が彼女の灰色を染めていた。


 そろそろお開きにしましょうか、とエヴァンズ公爵令嬢が手を打った事で、茶会の時間は終わりを迎えることになった。

 まだまだ話し足りません、また絶対お話ししましょうね兄さま、絶対、絶対ですよ!と何度もオーランドは立ち去るヴェルシオに目を振る。小さく手を振りかえしながら、仲良くなれたみたいで良かったと、薄く笑む婚約者を見る。



 弟の婚約者と違って、燃えるような紅髪を持たない彼女。良くある色と彼女自身が言っていた、灰色の髪と瞳。

 初めて長々と話をしたエヴァンズ公爵令嬢は、なるほど確かに、将来は美人になるだろうと予感させる少女だった。

 猫のような大きな瞳に白い肌、幼いうちから磨き抜かれた以上に、顔貌そのものが整っている。家の後ろ盾もあってこの容姿、会話の内容から感じさせる利発さから、オーランドの婚約者にとなるのも頷けた。



 第1王子と第2王子、その婚約者。大半の人間だったら、選べるならば地位や容姿を見て、エヴァンズ公爵令嬢を選ぶのだろう。

 ヴェルシオに似て古くさい本が好みで、万年筆が好きで、誰にでも穏やかに笑いかける。

 便箋や万年筆のインクを買い集めるのが趣味で、節操なく買うからそろそろデスクの引き出しが埋まりつつあるんです、とぼやく彼女は、きっと選ばれない。


「どうしましたか?」


 くるりと振り返って、不思議そうに彼女が手を差し出す。

 なんでもない、と返して、転移のために握り返す。殆ど大きさの変わらないそれを、強く。




 浮遊感。慣れた書庫。

 そうだ、不満があるとするならば。


「エヴァンズ公爵令嬢には、敬語を使わないんだな。年下だからか」


「それもありますけれど……外して欲しいと言われたので。家柄とかを考えるとどうかとは思ったんですが、可愛い友人ですし」


 勿論公の場では改めますがと視線を彷徨せながら、所在なさげに彼女は、頬を掻く。

 困った時の癖だ。諌められるとでも思ったのだろうか。


「俺にも要らない」

「え」


「婚約者で……婚約者だろう」



 年下の少女に向ける態度が、ヴェルシオへのそれより気安く親し気に見えたのが嫌だった、なんて、さすがに言えはしないけれど。それでも些細な子供じみた嫉妬心も、彼女は馬鹿にはしないと、それはもう、知っていた。


「なら、公の場以外では。……正直敬語に慣れてなさすぎて、結構変だったでしょ」


 頷くと肩を揺らして、シーリアは笑った。

 その顔が思いの外可愛くて、心臓が跳ねた。





 ∮





 彼女が帰って自室に戻ろうとして、書庫の前に居座る男を一瞥する。

 護衛のその男は、ヴェルシオが生まれた時からそうと決められた、正妃の家の騎士だった。最初に出かけた時シーリアが外出の許可を求めて、守護石を手放さないなら、と応えたのもこの男の筈だ。

 そいつは、またねと手を振るシーリアを、黒い瞳で眺めていた。


「何がおかしい」


 ずっと上にある頭を見上げる。この男のことも、かつては嫌っていた。正妃の家の人間であることも、崩さない仏頂面も、言葉少なな態度も、何もかもを。


「いえ……彼女と共に過ごすようになってから、殿下は雰囲気が穏やかになられた。それを喜ばしい事だと、そう考えていただけです」


 申し訳ありません、出過ぎたことを申しました。

 伸びた背筋を揺らすことなく、一拍のあと護衛はそう呟いて、いつもの厳しい顔に戻った。


 この男と私的なことを話すのは、初めてかもしれない。


 正妃が用意した男だ。ヴェルシオの護衛であると同時に様子を報告するのも役目の筈で、

ーーー城を抜けるようになって1年以上経った今、弟とすら朗らかに会話出来ているというのは、そういう事だ。


「……そうか」


 数年前、1人で書庫にこもって、文字に没頭することで言われた陰口や悪意の籠められた視線を、頭の中で打ち消していた頃を思い出す。あの孤独が、苦しみが、無かったことにはならない。けれど膝を抱えてふてくされて、与えられた感情を、特に優しさとかそういう部類のものを、知ろうともしなかった事もあったのではないだろうか。

 それに気づけたのも、きっと。


 すれ違い様呟いた言葉は、思ったよりもずっと、穏やかな声が出た。



「俺も、そう思うよ」








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