現実
扉は、開かなくなっていた。
いつのまにか、日が昇っていた。
パレードの前日もろくに眠れなかったのに、あまりに多くのことがありすぎた。
うとうとして、眠いのかと言われて頷く。抱き寄せられて、それが当然であるかのように抱え込まれる。決して逃がさないと言わんばかりに強く。
こんな距離は初めてだ。昨日まであんなに遠くにいたのに、これは現実なのだろうかと往生際の悪いことまで考えてしまう。
考えなければ。どうするべきか。けれど意識は、闇に沈んでいった。
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目が覚めてからも1日中腕の中に閉じ込められて、立ち上がることすらできなかった。
カーテンの隙間から覗く窓の外が、夕暮れの橙に青紫が混じって色の濃くなるまでを、返事はないと知りつつ言葉を掛けながら眺めた。夜が更けても彼はいっこうに眠らなくて、言葉も私からの接触も、抱き枕であること以外のなにも望む様子はなかった。
今までになく近い距離に、これ以上はあるのだろうか。
「……きみ、私をどうしたいの」
抱かないのか、と聞いたのは、その日の夜だ。
どうしたって私は女で、彼は男だ。異性に同じベッドで抱き寄せられる意味を理解できないほど初心でも、世間知らずでもない。
かつてならば―――昔を思い出しそうになって、目を閉じた。彼の今の婚約者はロザリーで、けれどそれも破棄されたとエヴァンズ公爵は話していた。それでも彼女を想えば、現状を良しと出来るわけがない。
たしか、新月だった。
問いかけに腕の拘束を緩めないまま、彼はひとこと良いのか、と呟いた。瞬きをしない瞳の色が変わって、窶れていても壮絶にうつくしい顔が近づく。
蛇が這うような、ひどくゆっくりとした動きだった。
腹から下に重みが加わる。いつの間にか、のし掛かられていた。
毛布があったはずなのに、放られてどこかにいった。金色に何かを宿して彼は私を見ている。長い指は頬に触れていた。細いと心配した身体に、ちゃんと筋肉があると知る。覆い被さる重い身体、熱い息、目の前の恐れを抱くほど美しい顔。
「い、やだ」
「なぜ?」
鼻が、触れ合いそうな距離。飢えた獣が喉を鳴らす。
こわいから。もう、他人だから。―――それだけは言ってはいけないと、それくらいは分かる。
「まだ……結婚していないから」
これ以上は、いやだ。
吐いた言葉は、みっともなく震えていた。
襟首から指が入れられる。鎖骨を指の腹で何度か擦られた。獲物を確かめるように、見定めるように。
正気と狂気の合間にいるのだと思っていた。けれどもしかしたら彼は、とっくの昔に、狂っているのではないだろうか。
永遠と思うような沈黙の後に、指が離れる。息を詰めていた。心臓が耳元でうるさかった。
「そうか」
ぽつりと1言だけ落として、彼はまた私を抱きしめた。見逃された。少なくとも今は。でも、これからは?出られないこの部屋で、彼が望めばいつでも手が届く距離にいる。それが、とてつもなく恐ろしい。
灰色の髪に、指が絡められる。固まって動けない私をなだめるように、温度の分からない指先が。
「心配しなくとも、嫌ならしない。―――お前は俺の、」
場違いに穏やかで、静かな声だった。かつてとちがうつくった声。
言葉の続きは聞こえなかった。ずっとそうしていた。眠ったのが私だったのか、それとも彼だったのかは、分からないままだ。
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クローゼットの中には、ぎっしりと女物のドレスやワンピースが詰まっていた。
公爵が手配したのか食事は3食部屋の外に用意されていて、気がついた時には彼が部屋の中に引き入れていた。待っても声を掛けても自分では手をつけようとしなかったから、1日3回、食具を血の気の失せた唇に運ぶ。
2人分用意された食事はとても豪華で、けれど冷めてしまっている。口元に千切ったパンを触れさせれば、小さく唇が開かれる。少しでも温かい方がいいとスープの器を片手で持って、温める魔法を使いながら反応を伺うけれど、どうでも良いかのように、彼が味について何かを言うことは無かった。
本棚にはディリティリオも、昔読みたいと言った希少本も、読みたかった新作まで並べられていたけれど、手に取る気は起きない。
ヴェルシオは常に私に触れているか、視界に入っていることを望んだ。
大半はベッドで、これ以上ないほどに密着して過ごしていていた。結婚していないと拒否した夜からそういった風に触れられることはなかったけれど、腰を抱かれるのも足が絡むのも、何もかもが慣れない。
あの襲撃についてもその後の学園についても、言及することはない。ただソファに座れば腕の中、眠る時には同じベッドを望んで、お前だけで良いと漏らすように零した。
王太子としての公務はどうなっているのかとか、この状況をエヴァンス公爵家はどう考えているのかとか。転移で外に出て連絡をと考えて、無理だろうなと思い直す。
彼が初めて障壁魔法を使ったときに試したけれど、私の転移で王家の障壁を超えることは出来なかった。そうでなくたって、今この状態の彼に逃げようとしていると思われたら、何が起こるか分からない。
今までになく近い距離。抱き寄せられる時も擦り寄られるときも、恋人同士がやるような甘ったるい空気はなくて、綱渡りのような緊張感がそこにあった。
彼は、私がいなければ死ぬのかもしれない。
あり得ない夢想を打ち消す。けれどそんなことを考えてしまうくらい、何もない、平和で異様な日々だった。
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もう入らない露店の指輪、お揃いで買ったブローチ。美術館のチケット、小鳥の切手の手紙の束、贈った物と同じブランドを使い続けている手帳。
この部屋にあるのはかつての日々の名残りで、彼の執着の残滓だ。私のために用意されたものなのか、私こそがこの部屋のコレクションの1つで、とっておきの蒐集品なのか。
陽と月が交互に昇るのを10数えたあたりから、何日経ったのかを考えるのはやめた。
今日も腕の中で、窓ガラスをたたく滴を眺めている。時折頬に指が触れて、抵抗しないのをいいことに、首筋に顔がうずめられる。嫌味なくらい美しい顔が四六時中間近にあって、それでも慣れない自分が滑稽だった。擦り寄ってくる紺色の頭を、今日も私からは触れられずにいる。
現状を良いとは思えないのに、ここにいなければと思うのは、彼への情からだろうか。それとも罪悪感?
償い。そうだ、償わなければいけない。悲しませたあの人たちに。
ロザリーはどうしているだろうか。泣かせてしまった友人達も、家族も。彼がずっとこの部屋にいてこの国は、王太子を望む国民たちは。
「なにも、考えなくて良い」
耳元で囁かれて、動き始めた思考の歯車が、軋む。
「ずっとここにいればいい。他に目を向けるくらいなら、俺だけ見ていろ。……それ以外はいらない。俺がそうなのだから、お前もそうあるべきだ」
そうじゃないなら、と呟く言葉に続きはない。
あまりにも横暴だ。けれど、散々砂漠を歩いて疲れ切った旅人のように、声は弱々しく掠れていた。
けれどそれでは、と反論したがる頭を抱きかかえられる。ソファに押し倒されて、心臓の音を聞く。
質の良い皮は、学園の図書室を思い起こさせた。あの頃はせいぜい触れ合うといっても、膝枕だったけれど。
けれどそれだって貴族子女の婚約者の距離感からすれば近すぎるくらいで、それを踏み越えてしまうほど彼の傍にいて、多分、おなじ感情を抱えていた。
全身を沈み込ませながら、どうしてこうなったのだろうと考える。
こんなはずではなかったのに。
けれどそもそも、なにを望んでいたのだったか。
目を覚ます。まだ眠い。
腕の中に、彼女がいる。
白い首。淡い灰色の髪。
ひどく、恐ろしい夢を見ていた気がする。
悪夢で、絶望で……何度も彼女を、夢に見た。
ではこれは?
いつの間に戻ってきたのか。腕の中の生き物は暖かい。胸に耳を付ければ、小さく規則正しい心臓の音がする。
シーリアがいる今は、現実だろうか。
考えてはいけない。彼女だけでいい。
夢でもいい。
彼女が居ないなら、現実だって必要ない。