嗚咽
ここは、どこだろう。
本。積み重ねられた、無造作に床に散らばった。
混乱の最中で、咄嗟の転移で、目的地は曖昧だった。そんな時は、馴染み深い場所に着くことが多い。
床は濃いブラウンの木目で、棚の位置にも心当たりがある。学園に入る前、何度も訪れた場所だ。
けれど王城の書庫は、何もかもが変わり果てていた。
古書に混じって、埃と湿った木の匂い。ガラス張りのテーブルは大きく罅がはいって、床に破片が散らばっている。整然と並べられていた希少本たちは、いまは見る影もない。
図書の管理のために最適な気温で保たれているはずの部屋は、荒れ果てて、壊されていた。
呆然とするより早く、視界が天井を向いた。浮遊感。重力に耐え切れず、足が崩れる。
そうだ、彼は。
重い身体に押し倒されている。床に叩きつけられた背と、手のひらが痛んだ。ガラス片で切ったのかもしれない。視界に彼が、彼だけが映る。
「………………」
言葉はない。空虚だった瞳が、私だけを見ている。淀む金色にうつろな光をやどらせて、飢えて死ぬ寸前の獣のように。
なにか言わなければと思うのに、言葉は1つとして出てこない。
「―――どうして。どうして、おまえは」
血を吐くような声だった。
掴まれた腕が、ひどく痛んだ。力加減の一切を捨てて、爪が立てられていた。
痛いなどと、言えるはずがなかった。
どうして。今更すぎる言葉を、頭の中だけで繰り返す。
どうして。
どうして、気付かれてしまったのだろう。王太子らしくなった君を遠くから一目見られれば、それでよかったのに。安心したかっただけなのに。
私が居ないうちにすべて解決して、君は昔願っていた立場と、可愛い新しい婚約者を手に入れた。これから大変なことも多いだろうけれど、ロザリーとエヴァンズ公爵家が後ろ盾になってくれるなら、善い国に、王になるに決まっている。
私との婚約は破棄か、解消されたのかは分からない。けれど、今更私がしゃしゃり出たら、それだけで彼らに迷惑をかける。生きていると知らせるとしても、彼らが結婚して、地位が盤石なものになって、その後でよかった。どうして今更現れたんだという目を、彼らにだけは向けられたくなかった。
そう、思っていたのに。
目尻が熱かった。泣いていると、やっと気づいた。
唇から洩れた音は、声にならない。ひどい顔だった。彼も、私も。
抱きしめられる。背骨が折れるほど、強く。たぶん、初めてだった。
気絶するように彼が眠るまで、号哭のような嗚咽を聞いていた。抱きしめ返すことは、出来なかった。
∮
「おやおやこれは……驚きましたな。いいえ勿論、喜ばしいことではありますが。娘も喜ぶでしょう。久方ぶりですなあ、アーデン伯爵令嬢」
「……お久ぶりです。エヴァンズ公爵」
ヴェルシオが動かなくなった後も、回された腕の力は、ほんの少しも弱まらなかった。
どれだけの時間がたったのだろうか。騎士を引き連れて、ロザリーの父が管理庫の扉を開けたのは。
やっと身を起こすことだけ出来たから、彼に抱きつかれたまま国有数の偉い人に相対する。
黒髪に光のない黒目。飄々とした美形、と呼べば良いだろうか。髪色も瞳の色も違って、顔もそんなに似ていないのに、貴族らしい笑みを浮かべるとき、ロザリーとこの人は、驚くほどによく似ていた。
「パレードの護衛をしていた騎士から知らせを聞いた時には、耳を疑いましたぞ。襲撃からどこにいたのかは知りませんが、生きていたなら知らせをくださればいいものを。それとも学園やこの国に嫌気がさして、国外にでも行こうとしていたのですか?最後に婚約者の顔だけ見ておこう、というわけですか」
「……違いますし、元婚約者ですよ」
ちくりとした嫌味に、最低限直すところだけ訂正する。おやおや、と笑みを消したこの人は、なにをどこまで知っているのだろうか。あの大通りにはクロルがいたから、騎士に話していれば全てかもしれない。
後悔も感傷も、あの襲撃からの日々も、どうして国に知らせを送らなかったのかも。
ロザリーの父なだけあって、恐ろしく頭の切れる人だ。ラフィンツェ公爵家の断罪劇については新聞の記事程度しか知らないけれど、国1番の大貴族の没落の裏にいるのは、この人に違いない。
黒い瞳を細められて、わざとらしく首を振られた。
「おやおや、それは困りましたな。殿下とわが娘の婚約はすでに破棄して、あとはどうやって民に知らせようかというところなのに。このままでは王妃の椅子は、永遠に空いてしまう」
「……どういう、ことですか」
「ほんとうに色々な事がありましてなあ。まさかあなたも、新聞に載ること、大衆に公になっていることだけが、この世の真実の全てとは思っていないでしょう?ああ、聞かなくてもよろしい。直ぐにわかります。これからはあなたも、当事者ですからな」
言葉の意図は伺えない。
腰に絡んで解けない、ヴェルシオの腕を見下ろしながら、そう言われた。
不愛想だけど穏やかな少年で、青年だった。剣よりずっと本が好きで、本当はとても優秀なのに、争いを避けて不出来な振りをし続けるくらいには。
けれど、パレードの最中のあの瞳は、先程までの慟哭は、明らかに常軌を逸していた。
彼はかつての記憶よりずっと痩せて、微かに呼吸する色のない唇は、乾きひび割れている。化粧で隠されていたけれど、目元にはくまも浮かんでいた。ずっと眠れなかったかのように、いくら起こそうと揺すっても、声を掛けても、頬をつねったって、少しも目を覚さなかった。
「おやおや、ひどい顔色ですなぁ。それは殿下もですが。……すべて、私よりも娘の口から聞く方が良いでしょう。今は学園にいますが、先程知らせを送りました。早馬を何頭使い潰してでも、すぐにこちらに来る事でしょう。それまでに少し、格好を整えた方が宜しい。ガラス片ばかりの部屋では、いつ怪我をするかも分かりません」
王太子の部屋は……似たり寄ったりですから、その婚約者、次期王妃のための部屋に転移するのが良いかと。
場所は分かりますかな?と問われて頷いた。
かつてはロザリーのための、部屋だった。
∮
ガラス片だらけの部屋に置いていくわけにもいかない。目が覚めてあなたが居なかったら愉快なことになりそうですなあと言われたのもあって、ヴェルシオとともに、王太子の婚約者の部屋に転移した。
引きはがすために5分格闘して、結局無理だったからもう一度転移で抜ける。本当に意識がないのか疑うほどに、強い力だった。
すぐに王家の使用人が、水差しとポーション、救急箱を持ってきてくれる。侍医を呼ぼうかと聞かれて首を振った。たいした怪我ではない。少なくとも死んだように意識を飛ばしている彼より、ずっと元気だ。
王家の紋が瓶に彫られたポーションを飲み下してから、ベッドに座って、周囲を見渡す。
心臓はずっと、いやに脈打っている。
最初、飛ぶ部屋を間違えたのかと思った。それほどに次期王妃の部屋は、様変わりしていた。
薄青のカーテン、柔らかすぎないベッド、蓋がガラス張りの万年筆箱に並べられた限定品ばかりの万年筆、扉の正面にある、2つの本棚。棚には毛布と保存のきく焼き菓子と、アーデン伯爵領で有名な紅茶。花の刺繍がされたクッションに、天井に届くほど大きいクローゼット。
汗が、頬を伝う。部屋としておかしいわけでも、なにかが壊れているわけでもない。けれど、どうしようもなく異質だった。
ロザリーに招かれて、何度か訪れたからわかってしまう。
彼女のものだった頃は、こんな、私室のような部屋ではなかった。趣味を反映して赤い小物は多かったけれど、王家御用達の家具がお手本のように並べられた、誰に見せても恥ずかしくない次期王妃の部屋だった。
こんな、ただの自室のような場所のはずがない。……そうしてこの部屋の主は、彼でもない。
女物の小物やクッションの模様が、それを証明している。
誰の?この、どこまでも私好みの、それ以外を一切排除した部屋は。
そうして誰が用意したのか。理由を、知りたくない。
ひどく、ひどく喉が渇いていた。けれど水に口を付ける気は起きなかった。