想望
最初の観劇は、大失敗だった。
劇場も席もよかったけれど、肝心の内容が最悪だった。主人公が物語を通して尊敬する恩師の内面や人間らしさ、最後には不完全さを知り、肯定することで彼女の死を乗り越えるはずなのに、その師匠が作中で男であった時から、いやな予感がしていた。
そうして物語が進むほど、手に嫌な力がこもって、こめかみがひきつった。
べつに、登場人物の性別が変わるのは構わないのだ。嫌だけれど、本当に嫌だけれど、性別だけで好きになった彼らを嫌いにはならない。彼らの考えとか格好良さとか格好悪さとかの方が、ずっと好きだ。
性別が変わったのは別にいい。けれど原作にない唐突に湧いて出た恋愛要素は、親の仇より許せない。
幕が下がった時には、哀れなパンフレットはぐちゃぐちゃになっていた。もう目を通すことはないであろう、愛する作品を陳腐な恋愛ものにしたそれを、恨みをもってもう1度握り潰す。
隣の席の彼が、めったにない心配した表情で私を見るのがいたたまれない。
今日やっているのはここだけだからと、簡単に妥協するべきではなかった。もっと脚本家の過去の作品や、劇団の評価を調べておくべきだった。こんなことなら、よく知った城下街を案内し、観光したほうが、ずっと良かった。
……築200年を超えるステンドグラスの礼拝堂とか、店主の気まぐれで使う果実が毎日変わるから同じ味は2度と食べれない飴が有名なお菓子の店とかに連れていった方が、ずっと面白かっただろうに。
空気を気にしてくれたのか、原作に忠実なところもあっただろ、とフォローを入れる彼に、なおのことうなだれる。
楽しませたかったのに慰められているのも申し訳なくて、絶対にリベンジはさせてください、というのが精いっぱいだった。
その次は綿密な下調べと厳選の果てにこれぞ、と思う劇を選んで、原作に忠実なそれは、文句なしに面白いものだった。
彼も気に入ってくれたらしく、緊張しながら提案した、これからも城下に行かないかという誘いに、迷うことなく頷いてくれた。
そうなればもう、こちらのものだ。
彼の婚約者になった時から王都に連れてこられて、もう1年以上も城下を探検している。城暮らしの王子様を楽しませるなんて、石鹼玉を膨らませるより、初級の光魔法より、ずっと簡単だった。
3ヶ月もすれば、彼もどこに行きたいか言ってくれるようになっていた。
国立図書館、この間手土産にしたお茶菓子の店、孤児院のバザーが目玉の、小さなお祭り。砂糖が沢山掛かった揚げ菓子を手渡されてすぐに食べると舌をやけどすることも、レモンの絞り立ての果汁の香りも、全て、彼に知ってほしかった。
半年も経てば、城下の何処にいてもこれは彼が好きだろうかとか、この味は彼好みだろうかとか、そんな事を考えるようになっていた。園遊会では余り話せなかったけれど、それでも友達と話していて、ふとした瞬間に目が合うのが嬉しかった。
もっと色々、たくさん彼に知って欲しい。
私の知る美しい物、面白いもの。魚は獲ってすぐとあとで色が変わること、空と海の水平線。
どうにかしてアーデン伯爵領に連れて行けないだろうか、そう考えるのは、当然だった。
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「ヴェルシオ殿下をアーデンに、ですか?数日ならどうにでもなると思いますが、1ヶ月だとお父様に相談してみないと何とも……でも、あの無表情不愛想王子に目を掛ける必要が、そんなにあるのですか?いえ面白くない訳ではないのですが、わたしだってお姉さまの故郷に行ったことはないのに」
頼ったのは年下の友人で、器用に私の髪を編みながら、ロザリーは唇を尖らせる。
さっき私が作った、編み込みのハーフアップに飾った薔薇の花が揺れて、生花ゆえの華やかな甘さが鼻に届いた。
「必要不要じゃないよ。私がそうしたいってだけ。……ローガンに確認してみたら、彼の立場では可否を決められないから、エヴァンズ公爵家に協力を仰ぐのはどうかって言われたんだ。申し訳ないけれど、公爵様に聞いて見てもらっていい?私と彼の婚約は、公爵様に決められたから」
弟が兄より先に婚約者がいるのは外聞が悪いと結ばれた、未来の王妃の父親が決めた婚約。ロザリーより下であることが条件なら、候補はロザリー以外の貴族子女全員が該当した。
どうして私だったのか、どんな政略的な意味があるのかは、家族でさえ首をかしげるほど、よく分かっていないけれど。
ロザリーに頼るのを申し訳ないとは思うけれど、さっと行って戻ってくればいい王都観光と違って1月の滞在をするには、それ以外の方法は思い浮かばなかった。お土産を渡せば許してくれるだろうか。彼女が普段使うものに質ではとても敵わないけれど、押し花のしおりだって、この子はきっと、大切にしてくれる。
「任せてください。お姉さまにはオーランドの我が儘を叶えるために、手を貸していただいた借りがあるもの。かならずや1日たりと短くすることなく、要求を通させて見せますわ」
「ありがとう。でもオーランド殿下のあれは我が儘じゃないし、ロザリーへの貸しでもないよ。とても楽しかったし、ぜひまたお誘いいただけると嬉しいな」
はい!と少女は可愛い肯定を返しながら、最後に複雑に編み込まれた髪の耳元に、揃いの赤薔薇を飾る。妹のようなこの子は、同い年の婚約者に対してはお姉さんのように振舞うことが多い。そんなほほえましい2人とお茶会を開いたのは、ついこの間の話だった。
「お前が兄さまの婚約者のアーデン伯爵令嬢か!兄さまのことを、たくさん聞かせてくれ!」
ずっと兄に関わりたくて、けれど正妃様の許しが出ないから王城でも、公務やパーティでもヴェルシオに話しかけることすらできなかったオーランド殿下が婚約者とのお茶会であれば兄を誘えるのでは、とロザリーに提案して、ロザリーから私に話が来たのが、ついこの間の事だった。
話を受けてすぐは驚いたし、当然緊張した。彼を看病する前よりは王家の複雑な事情を知っていたし、多分ヴェルシオは、意識的にオーランド殿下を避けている。
それでも少しだけオーランド殿下と2人で話して、彼が兄を慕って仲良くなりたいのは伝わったから、どうにかしたいと思った。ロザリーがお茶会の準備をしてくれて、断るかなと思いつつ誘えばヴェルシオも来てくれて、浮かれたオーランド殿下が元気に兄を質問責めにする様子にはヒヤヒヤしたけれど、王子様とその婚約者達のお茶会は、成功と呼べるものだっただろう。
美男子美少女揃いでほんとうに眼福だったなあと思い返しながら、公爵家のテラスに用意された、舶来品の大きな鏡をのぞき込む。あのお茶会でも浮いていた平凡な自分の顔が、ぼんやりした目で編み込まれた髪を見ていた。
今日はお互いの髪を編もうと約束していて、公爵邸を訪れる前から髪は下ろしてきてくださいと彼女にお願いされていた。飾り一つ付けず来たのに、プロの髪結い師によるものと遜色ないほど丁寧に結いこまれた灰色の中に、鮮烈な1輪の薔薇が彩りを与えている。
身だしなみは整えられる立場で、髪も結われる立場の少女だ。当然他人の髪を梳かすのも、結うのも初めてのはずなのに、こんなに器用なものなのか。
私だって領地の子とか城下街で暮らす友人たちの髪を触ったことはあるけれど、作れるのは簡単な編み込みくらいだ。単純な髪型しか出来なくて、申し訳なさすら感じる。
この器用さは何でもできてしまう才能なのか―――今日のために、練習してくれたのか。どちらにせよ、年下の友人が可愛いことには違いがない。
素敵ですわ!とはしゃぐロザリーの指先の器用さを賞賛して、恒例になった公爵家での時間は過ぎていった。
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ロザリーの協力もあって迎えたアーデン伯爵領での1月を、彼は楽しんでくれた。
朝を告げる鳥の声。夕食後の家族全員でのトランプ大会。夜更けのハーブティー。そうして、伯爵領の隅の森にある、祖父の屋敷。これは気に入るだろうなと用意していたものも、予想外の出来事も沢山あって、同じ日は1日もなくて。
最後の日には、帰りたくないと言ってくれるほど。ベッドサイドに座って、唯一のぞく頭を眺める。
私にとっても楽しい日々だった。以前から趣味が合うなと思っていたが、ここまでとは思っていなかった。
同じ時間を過ごすだけで楽しいなんて、実は凄いことではないだろうか。何もかもが時間がたつのを忘れるほど愉快で、そうして、今日が来た。
おなじ洗髪の石鹸を使っているのに私よりずっとつやつやとした、紺色の髪に触れる。頭に触れるのは初めてだな、嫌がられはしないかなと心配したけれど、杞憂だった。絹糸の指通りに驚く指は払いのけられることなく、そばにいたい、と小さな本音を聞く。
全くだよね、と心の中だけで返す。とても楽しい一月だったけれど、心残りは沢山ある。街を見下ろせる鐘楼にのぼれなかったし、跳ね魚の時期なのに港で船を借りて、見物にも行けなかった。花祭りの為にこの時期にしたけれど、もっと寒くなって湖に氷が張れば、滑って遊ぶこともできた。
君がただの近所の貴族とか、アーデンの領民であれば、もっと一緒にいられたのに。
けれど彼はこの国の王子様で、私はたまたま婚約者になっただけの、特別権力がある訳でも、お金持ちでもない伯爵家の小娘だ。
逆立ちしたって彼の境遇を変えることは出来ないし、ロザリーと彼女の父親が居なければ、彼をここに連れてくることも出来なかった。
手が止まる。
奥歯を噛んだ。指が震えないように、うつむく彼が気付くことの無いように、強く。
悔しかった。悔しい。多分私は、ずっと悔しい。
彼が傷つく場所にいることが、笑われることが、侮辱されることが、それを彼自身が諦めていることが。そうして、何もできない自分が、一番悔しい。
悔しくて、だから、未来の話をしよう。2週間後でも、来年でも、もっと先でもいい。
もうすぐ流星群が見られると新聞に載っていた。流れ星2.3筋かもしれないけれど、夜空を埋め尽くすほどかもしれない。オーランドが友人たちとの鍛錬に敬愛する兄を誘いたいと言っていた。同性の友人が増えて、1人の時間が減ればいい。
目頭が熱かった。同情でも、悲しくもない。けれど悔しさとか願いにシーツを濡らしそうになって、瞼をきつく閉じる。どうか君が顔を上げませんようにと、とくにゆっくりと声を出した。
「……約束しようか。君が望む限り、傍にいるって」
今までの不幸を全部蹴っ飛ばして、笑い飛ばせるくらい君が幸せになればいいと、そればかり願っている。