主従
それから、2月も経っていないころだった。
その日訪れた王城で、ヴェルシオの護衛騎士のローガンは、いつもの無表情よりだいぶ怖い顔をしていた。彼は2週に1度のお茶会改め読書会のためにいつも通り王城を訪れた私を見下ろして、機械のように口を開く。
「アーデン伯爵令嬢。連絡に不備があったのは申し訳ないが、殿下は本日体調を崩されている。今回は中止とさせて頂く」
「体調……病気ですか?」
沈黙が答えだった。風邪くらいなら王家の侍医が治癒魔法でぱぱっと治せるはずなのに、と不安になると、曇った顔を気にしたのか、しかめっ面の黒々とした目に、ほんの少し感情が宿る。
「王族など特に魔力の多い方は、魔法が大きく発達する10から13歳ごろに、身体に収まらない魔力のせいで、発熱など風邪に似た症状が起こることがある。成長痛のようなもので命に別状はないし、魔法の才があると、誇るべきものだ。君がいてもあの方に出来ることはないが、心配もいらない。……次回までには、熱も下がっていることだろう」
強面な彼はぴんと背を伸ばして、そういった。
「分かりました。だれか、看病の方はいらっしゃいますか?せめて、お見舞いの花を贈らせてください」
「……あの方は普段、自らのことはご自身で行っている。無論食事などは用意されているし、今はある程度のことは私が行わせていただいているが、特定の看病はいない」
「え……そんなことが」
あるのですか、と聞くことはできなかった。彼に1番近い護衛の彼が言うのだから、真実に決まっている。
最近話すようになった婚約者。記憶の中の彼は、いつも1人だった。王城で誰かとすれ違う時も、お菓子を用意する使用人相手だって、だれかと言葉を交わしていた記憶はない。
複雑な生まれと、聞いてはいた。年上で王太子様の兄なのに王位継承権が2位なのも、正妃様に嫌われているとお茶会で少女たちが噂していたのも、耳にしたことがある。
ずかずかと無遠慮に踏み入れるほど親しくなくて、だから知らないふりをしていたけれど、彼がおかれる境遇が、そんなものだったなんて。
今日も王城に来るまでに、何人も使用人とすれ違った。みんな各々の仕事をしていて、あわただしくも賑やかで、けれど誰も、彼の看病をしないのか。
彼は、この国の王子様なのに。
「せめて、お顔を見てもいいですか?邪魔はしませんし、起こさないように気を付けますから」
沈黙の後、わたしよりずっと高い位置にある頭が頷いた。やっぱり表情は変わらなかったけれど、少しだけ、安心しているように見えた。
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でんか、と小さく名を呼ぶ。返事はない。白磁の頬は赤く熱を持っていて、荒く吐く息も苦しそうだった。
初めて通された彼の部屋は広いわりに家具が少なくて、閉められたカーテンもあいまって、がらんと寂しい印象を与えた。
熱くも寒くも、乾燥しても湿ってもいない、花1輪もないところ。ベッドサイドにポツンと置かれた数冊の本だけが、彼らしかった。
広いベッドに腰かけて、うなされる少年を見下ろす。濃紺の髪は汗ばんだ頬に張り付いて、額に置かれたタオルは乾ききっている。
「…………殿下」
もう1度名を呼んだ。届かないように、起こさないように、注意を払って。
本当は、起こした方がいいのかもしれない。何か欲しいものがあるか聞いて、誰かに持ってきてくれるように頼むべきなのかも。
けれどローガンと起こさないと約束してしまった。そうしてやっと眠れているのだったら、目を覚まさせることが彼の負担になったらどうしよう。
最近は少しだけ表情が変わるけれど、いつも冷めた顔をしていたから、こんな苦しげな顔は、もちろん知らなかった。
知らなかった。魔力の多い人に不調が起こりえることも、そうなったときの対処法も。彼が熱を出してもそばでずっと看病してくれる人がいないことも、今、苦しい思いをしていることも。
―――どうして私はどう接すればいいのかとそればかりで、彼のことを知ろうとしなかったのだろう。
下唇をかむ。不意に、きつく閉じていた瞳が開いて、金色がのぞいた。はくりと、こんな時でさえ整った唇が開く。みず、とわずかに声が漏れた気がした。
水差しは空で、慌てて初級魔法で水を生成する。ゆっくりと器に中身が溜まるのをはやく、はやくと逸りながら魔力を込めていると、また何度か唇が動いて、茫洋とした瞳がかげった。
「………………」
誰かの名前を呼ぼうとして、思いつかなかったかのように。そうしてあきらめたように、瞼が閉じる。
側妃だったという、亡くなった母親の名前を呼ぼうとしたのだろうか。それともこの国の王である、父親を?
彼は、熱に侵されてうなされた時に、呼ぶ人も知らないのか。
予感は外れてほしくて、けれどきっとそうだ、と気付いてしまった。
「で、んか。殿下。……ヴェルシオさま」
はっとするほど熱い肩に触れる。治癒魔術を覚えておけばよかった。私なんかじゃ彼を治せないだろうけれど、苦痛を取り除くくらい、出来たかもしれないのに。
後悔しながら、コップを唇に当てる。ゆっくりと喉が上下するのに、胸をなでおろした。
汗を拭いてタオルを変えて、今までのお茶会よりずっと長く、夕暮れまでそばにいた。何もできない自分が歯がゆくて、とてつもなく悔しかった。
けれど。
「…………よし」
パン、と両手で頬を叩く。痛くはない。気合を入れる。
もっと彼のことを知りたい。趣味が近くて、甘い焼き菓子と紅茶が好きで、それくらいしか知らない彼を。
次のお茶会までの2週間の間に、城に花や甘い果実水を贈ろう。次に会うときは、手土産に甘いお菓子を持っていこう。王城の書庫にはないディリティリオの短編小説や、ほかにもたくさん、喜んでくれそうなものだって。
後悔するのも、悲しむのも、悔しがるのも今じゃない。後でいい。
そう考えて、楽しい次を思い浮かべることでしか、この胸のつかえは取れそうになかった。
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彼は魔力熱のとき私が来たことを、全く覚えていなかった。後遺症が残っていたらと最初は心配だったけれど、魔力熱にはよくあることだとローガンが教えてくれた。記憶がないのは朦朧としていたせいで、彼はもう健康そのものだということも。
それから色々なものを書庫に持っていくようになって、お土産の菓子も歓迎されたけれど、彼が喜んだのはやはり、本や活字だった。なかでもディリティリオの舞台の台本を楽しそうに目を通していたから、いつからか、彼を劇場に連れ出したいと考えるようになった。
彼の複雑な境遇から、自由に外を出歩けないとは分かっていた。それでも解決する手段を、私は持っている。
「観劇に行きたい……だと?」
ローガンは、私がお見舞いをしたあとから少しだけ私への接し方というか、雰囲気が優しくなった。
それでもその日の読書会の帰り際に言い出されたことは予想外だったのか、外に出る、の1言にはほんの少し眉を顰める。
「はい。オーランド殿下とロザリー……ロザリンデ様はお茶会の代わりに、城下街に出掛けることもあると聞きました。もちろんヴェルシオ殿下が了承されたらですが、彼の好きな小説家の舞台が、半月後に始まるんです。是非お誘いできたらと、そう思って」
「……どうして君は、そうしようと考えた?最近は園遊会でも、殿下について聞いていると報告を受けている。この間のことがあったから、あの方に同情しているのか?」
複雑な黒色から、表情は伺えない。けれど彼を心配していると分かるから、しかめっ面で見下ろされても、昔のように怖くはなかった。
「いいえ。あの方を知りたいんです。何が好きで、何を望むのか。絶対に喜んでいただけるとは思っていません。それでも、私にできることがあるなら、あきらめたくないんです」
悲劇の王子様とか、その婚約者の地位にはしゃいだり酔えるほど、子供でも、大人でもない。ローガンが心配するほど彼を慕っているわけでも、物語のような恋愛感情を抱いているわけでもない。
それでも、仲良くなれたばかりの友人を1人にしたくない、そんな自分を信じたい。
見上げた先で、黒が揺れた。何かをこらえるように、初めてその表情が動いた。
「これを……防御石を君たちのどちらかが身に着けて、手放さないなら構わない。レオドーラ様には、うまく報告しておこう」
「ありがとうございます!……あなたは、ともにいかないのですか?」
彼に優しくないこの城で、私よりずっと彼とともに居た、あなたが。
私の言葉に、ローガンは笑った。ほんの少し表情が動いただけだけれど、それでも笑ったのだ。
深々と、頭が下げられる。彼は自らより下の家柄の子供に、黒い頭のつむじを見せた。
「俺がいては、あの方は楽しめないだろう。……ヴェルシオ殿下をどうか、よろしくお願いいたします」