紺青
本が好きだった。
ただ、それくらいの人間だった。
間違いなく恵まれた生まれで、暮らしだった。
獣人や魔族など様々な種族が生きるこの世界で、世界有数の大国であるアウディスク王国。辺境とはいえその国の貴族として生まれ、学び、家族にも、使用人たちにも大切にされた。
明日の食べ物に困らないどころか好きなものをリクエスト出来る食卓、叱られはするけれど、暴力を振るうことは決してない家族。
子供2人を愛情深く見守り育ててくれる両親と、よく私のためにおもちゃを手ずから作ってくれた兄。家族のことはみんな大好きだったけれど、普段領内の森にある館で暮らしている祖父のことを、私はとても慕っていた。
元気な人で、優しい、深みのあるしゃがれた声をしていた。本が好きで、いつも読んでいたいからと書庫のような屋敷を建てて、ついに足腰が弱くて心配だからと伯爵家の屋敷で暮らすよう息子に説得された時も、馬車と転移魔法で大量の本を運び込むような人だった。
彼は7歳になる前に祖母の元に旅立ったから、顔は絵姿のほうが鮮明に覚えているくらいだけれど、簡単な言葉を話せるくらいの幼子に難しい長編小説を名作だからと読み聞かせてくれたり、頭を撫ででくれたしわしわの手は、よく覚えている。
彼のおかげで私はすっかり本好きになって、同い年の子が絵本を読むころには、難しい言葉がなければ長い小説だって読めるようになっていた。子供のころの夢は図書の魔法管理人で、貴族に生まれていなければその夢は現実になっていただろうと、今でも思う。
けれど私は貴族で、子供の時に決められたのは、この国の王子様との婚約だった。
父も母も、この婚約には反対だったのだと思う。
貴族らしくなく権力欲とは縁遠い人たちだったし、どうしてシーリアが、と話しているのを聞いたこともある。私が本の虫で、王子様も国も、結婚も分かっていないような子供だったから、心配はなおさらだっただろう。
初めて会った彼は、うつくしい子供だった。
今だって怪しいけれど、当時の私の陳腐な表現力では到底表現できないほど、彼は綺麗で、格好良かった。表情こそ生まれてから1度も動かしたことがありません、といわんばかりのつんとすましたものだったけれど、傷も黒子も無い滑らかな肌も、さらさらで、けれど夜更けのように深みのある紺青の髪も、何もかもが私とは違った。
息をのむほどの衝撃。これが王子様という生き物なのか、こんなに美しい瞳があるのかと驚いて、興奮して、
―――少しだけ、怯えた。
だって、こんなに綺麗な生き物に出会ったのも、可愛いけれど窮屈なドレスを着たのも、目が回るほど大きく豪華な建物に足を踏み入れたのも、初めてだったのだ。
領内なら友人と呼べる間柄の少年は多くいるし、園遊会とかで身分の近い貴族の子供たちと話をする機会もあったけれど、彼は、そういった場で出会う誰とも違った。
私も子供らしくないと言われる子供だったけれど、彼はそれ以上だった。間違えても木の枝を振り回して騎士ごっこをしたり、木に登って虫取りはしないだろう。
城に来るまではのほほんと仲良くなれるかなぁと考えていたけれど、じろりとひと睨みされて、そこで初めて、そうなれない可能性に思い至った。
身分の高い彼にとって伯爵家ごときと婚約するのは不満だったのでは、とか不敬を働けば家がどうなるか、とか。
大人の事情とかに思い至れるほど賢くなかったけれど、彼が今まで親しくなった子たちと違う存在なら、流行りのお菓子について話したり、手紙をやり取りしたり、誕生日にプレゼントを選んだり出来ないかもしれない。そうしたら、どうしたら良いのだろう。
だから挨拶を無視されて、彼が本を読み始めた時は驚いた。
彼が手にしていたのが、大好きなディリティリオの毒花シリーズ、その5巻だったから。
白と灰をごった混ぜにした雲の切れ間から陽が差して、庭園と東屋を明るく照らす。それよりずっと、心は浮き立つ。
なんだ―――仲良くできそう!
子供なんて好きなものを好きな人は無条件で好きになってしまうし、共通の話題があれば、いくらだって話すことができる。
私の中の彼が、きれいなコンヤクシャから本を読む友人(仮)に、名前を変える。
今どのページを読んでいるの?好きな巻は?ディリティリオを、他にも読んだことはある?
たくさん質問したかったけれど、口を閉ざしたのも、彼が本を読んでいたからだ。
もしかしたら彼は初めてこの本を読むのかもしれない。最近毒花シリーズを読み始めて、この顔合わせの直前に5巻が手に入ったのかも。それなら是非、私よりもこの作品に集中して、没頭してほしい。
―――4章のカリサスがもう戻れないと知って、砦に向かう前に恋人に手紙を書くシーンが、私は大好きなのだ。
私は本を読んでいる途中に声を掛けられるのも嫌じゃないけれど、祖父は嫌がって、むっつりしてしまう人だった。幸い初めて訪れた王城の庭はとても綺麗な花が沢山咲いていて、この東屋もいくら眺めたって見飽きることはない。
彼が邪魔されず本に集中出来るように、時計の針が回るまで、花の色や舞う蝶を楽しむ、有意義な時間を過ごすことが出来た。
次に会った時も彼は本を手にしていて、それも私が好きな作品だったから、いよいよ期待は膨らんだ。
持ってきた詩集に目を落としながら、どうかごゆっくり、と心の中だけで話しかける。
うららかで、けれど暑すぎない今日の空気はとびきりの読書日和だ。次は刺繍糸と針を持ってこようかな、と思いながら、東家と詩を楽しむことが出来た。
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そんな穏やかな日々が終わったのは、彼と出会って1年ほど経った、ある園遊会の次のお茶会だった。
連れて来られた王都での生活にも慣れて、顔見知りもずいぶん増えた。変わらず彼と話すことはほとんどなかったけれど、今の生活も新しいものが沢山で楽しいな、とのんきにお茶会の時間を趣味に使っていた頃だった。
「今まですまなかった。……ありがとう」
さて今日は手紙でも書こうか、可愛い年下の友人のヴァイオリンの腕を賞賛するには便箋が何枚あっても足りないけれど、と万年筆と便箋片手に訪れた東屋で待っていたのは、ぽそぽそとしたちいさな声だった。ずっとうつむいている彼が言ったのかと理解するのに、数秒を要した。そうして驚いた。
謝られた。どうして?
首を傾げると、再度の沈黙の後、彼は目を逸らしながら、言い直してくれた。
ずっと意地の悪い、酷い態度を取って悪かった。この間は馬が暴走した時に、助けてくれてありがとう。
言葉を足されてやっと、あの園遊会の馬の暴走を思い出す。
チョコとレーズンのカップケーキが美味しかったとか、転んでしまってあの馬は大丈夫だろうか、あんなに大きな音を出したら驚くに決まっているとか、そんなことばかり考えていて、彼のことはすっかり忘れていた。
あんなことに感謝されるなんて。いやそれよりも。
「……あれって意地悪のつもりだったんですか?」
「……何だと思ってたんだ」
「普通に本が好きなんだなと……選ぶ本の趣味が凄く良いと思っていました」
私もその作者が好きで、同じものが自室にあります。言葉を続けると、なぜか呆然とした顔で、彼はガーデンテーブルの上の本に視線を落とした。
5年や10年くらいかけて仲良くなれればいいと思っていたけれど、その日は案外近いのかもしれない。身を乗り出してディリティリオや毒花シリーズの話をする私に、彼は王城の書庫と探し求めていた外伝が読める、という話をした。
そうして穏やかな時間は、楽しい時間になった。