書庫
「……あれって意地悪のつもりだったんですか?」
何もかも間違いだった、と認められるほど大人にはなれない。
けれど今までと同じ態度を続けられるほど、子供でもない。
次の茶会の時間、今までの無礼の謝罪の為に頭を下げたヴェルシオに、シーリアは驚いた声を漏らした。
「……何だと思ってたんだ」
「普通に本が好きなんだなと……選ぶ本の趣味が凄く良いと思っていました」
私もその作者が好きで、同じものが自室にあります。
僅かに呆然としたように、けれど少し嬉しそうにガーデンテーブルの上の本を見つめる彼女の瞳に、ヴェルシオへの怒りや負の感情は、ほんの少しも浮かんでいなかった。
「……古くさい趣味だな」
彼女が好きだという作品の著者は、もう50年も昔に亡くなっている。この年頃の少女ならもっと、流行りの恋愛ものなどを好むものではないだろうか。自分も同じ本が好きで、シリーズを通して3回も読み返していることは棚に上げて、ほとんど初めてまともに、彼女と言葉を交わした。
「名作に時間は関係ないでしょう?祖父が読書家で、影響を受けているのは間違いありませんけれど。ディリティリオはダチュラの毒花シリーズが一番好きです。祖父の持っていたものと、誕生日のプレゼントにって家族に探してもらって、外伝以外は集めました」
今は外伝を探しているんです、と前のめりになって、ディリティリオのどこが好きかとか、そんな話を彼女は始めた。
かなり読む人間を選ぶ作品なのにこんな近くに同好の士がいたのかとか、こんなに瞳を輝かせて話す人間だったのか、とか。
そうして、この時間が終われば行こうと思っていた書庫の片隅にある本棚の、上から3段目、一番右の濃紺の背表紙を思い出す。
「……ダチュラの外伝なら、城の書庫に置いてある」
不愛想な言葉だったが、彼女には十分だったらしい。ぱ、と婚約者は顔を上げて、ヴェルシオを見た。柔らかな日差しが差す東屋、満開の花の中で、本でも花でもなくヴェルシオだけを。
「さすが王家……!お借りすることは可能でしょうか……?」
「……次の茶会は、書庫ですれば良いだろう」
義務となっているのは回数であって場所ではない。ぜひ!と身を乗り出した彼女を傍目に、紅茶を一口飲んだ。
苦味と、その奥の甘い風味。少し冷めたはずのそれは、じわりと腹を温めた。
∮
砂糖や油、水滴で本を汚すことをお互い嫌ったから、読書の最中に飲食はしなかった。
代わりに書庫の奥、窓から陽が差す談話スペースで、用意された菓子と共に、読んだ本の感想を語り合うようになった。
「……茶会というより読書会じゃないか?」
「良いんじゃないですか?楽しいし」
思わず漏れたつぶやきに、スコーンにクリームを付けながら彼女は応える。
彼女が用意された菓子に手をつけるようになったのは、ここに訪れるようになってからだった。
王城の書庫は王国にまつわるものは勿論、在るに相応しいと認められ厳重に管理された稀覯本まで、何年も訪れているヴェルシオさえ把握しきれないほどの本が、国と王の財産として管理されている。
品の良い調度品が置かれた閲覧室はまだ時間によっては人の気配と紙のめくる音がするが、許可証がないと入れない希少本の管理庫は、いつも静寂の中で豪奢な背表紙が規則正しく並んでいた。
初めて管理庫に連れてきた時、彼女は瞳を輝かせて、最高の場所ですね、とつぶやいた。
そうして連れてきたヴェルシオには目もくれずに目当ての本を手に取って、それからずっと、こうやって話すとき以外は本の虫になっている。
「今までだって、ちゃんと歓談していたかと言えばそうでもないですし。……好きですよ、ここでの読書も、あなたとこうやって話すのも」
「好っ……めったにない本ばかりで、浮かれているだけだろう。調子のいい奴だな」
「あはは、浮かれているのは否定しませんけれど。まさか小説の最後、メイリリーが今まで受け取った手紙を全て破り捨てた理由を、あんな風に解釈する人がいたとは思わなかった」
指先をハンカチで拭いながら、シーリアは独り言のようにそうつぶやく。雑談するようになってから、彼女はヴェルシオに負けないほどの読書家であるとか、ヴェルシオと違って友人が多いのだ、ということを知った。いつの日かお茶会の時に書いていた手紙は友人にあてたものらしいし、そういえば園遊会でも同い年位の少女たちと、親しげに何かを話していた気がする。誰かの取り巻きをしているとかさせているというわけではなく、いつも誰とも関わっているようだった。彼女の友人は身分も容姿もさまざまで、顔ぶれは頻繁に変わる。
そんなシーリアでも、さすがにディリティリオの作品を好む友人は、今までいなかったらしい。
最初に書庫を訪れた時にお目当ての外伝を借りることに成功した彼女は、お返しのつもりなのか、いつからか珍しいディリティリオの作品や、彼にまつわる小説を持ってきてくれた。
例えばディリティリオが寄稿した短編小説が載った雑誌とか、ディリティリオの生前を知る人間の彼にまつわる評伝など、王城には置かないようなものを。
近い時代を生きた祖父が好きだった、というだけあってどうしてまだ残っていたんだ、と驚くようなものも多く、その感想のために、彼女とより話をするようになった。
ずっと誰かに自慢したかったんです、と変色した雑誌の表紙を掲げるすがたに、親しみを覚えた。
―――多分、友人とは、彼女のようなものを指すのだろう。
生まれて初めてできた友が、彼女だった。
世界を一歩遠くから憎んでいた少年は、歩み寄ってくれた少女を、いとも簡単にたった1つにした。
同じものを楽しんでいると思えば、読書のための沈黙も好ましい。窓から差す陽が彼女の髪をしろく映すのを眺めながら、そう考えた。
∮
今日は見せたいものがあるんです。そう言いながらシーリアに一枚の紙を差し出されたのは、その次の読書会の時間だった。
雑な魔法印刷技術ゆえに文字が荒いその紙は何かの宣伝のチラシのようで、最近刷られたものだと一目で分かる。
「見てください、ここ。ディリティリオの没後50年を記念して、彼の作品が舞台になるそうです。すでに王都のいくつかの劇場で、公演が始まっているとか。……一緒に行きませんか?」
机の向こうから身を乗り出して、シーリアは一点を指す。
そこには確かにディリティリオの劇場ごとの公演する作品の名、役者や演出家たちの名前が、記念公演、と大きく刷られた文字の下にならんでいた。
外国の作家であるディリティリオは晩年は戯曲も手掛けており、アウディスクではむしろ、そちらの方が評価は高い。
王都の複数の劇場が有名どころの戯曲家の作品を同時期に上演する、というのは今まで何度も行われて、外国からもファンを呼び込める位には成功している試みらしい、というのも知っていた。
公務として王子が国立の劇場に赴くことは何度かあったし、彼の作品が劇として公演される事もあると知っていた。けれどヴェルシオは今まで1度も、ディリティリオの舞台を見たことはない。
目の前の少女はとっておきの楽しみを見つけた、という顔をして、断られるとは全く思ってなさそうに、ヴェルシオに一緒に行かないかと誘う。確かにずっと、一度でいいからディリティリオの舞台を観てみたいと思っていた。
―――なのに断らなくてはいけない。そう考えると、心は沈む。
無理だ、というと、彼女は瞳を瞬いた。
「興味がないわけじゃないが、許されない。俺が城門をくぐるにはいくつかの手続きが必要で、それを通すには国王と正妃の印がいる。俺を嫌う正妃がそれを捺すはずもない。
……誘ってくれたのは嬉しく思うが、俺には土産だけでいい。行った劇の台本が手に入りそうなら見せてくれ」
言葉を重ねるほど、目を逸らしたくなる。ヴェルシオの返事に首を傾げた少女にどうしたのか問うと、彼女はあぁ、と小さくうなずいた。
「いえ……そういえば言ってなかったですね、アーデンの適性魔法」
まぁいいか、使うほうが早いし、と呟きながら彼女は俺の前に立って、左手を差し出す。思わずその白い手を取った瞬間
―――足元が白く、光を放つ。
魔法の気配。
思わず目を閉じて、次に開くよりはやく、硬い石畳を足に感じた。
青い空。清涼な音を立てる噴水と、遠くに見える王城。
何が起こった。思考の処理より先に、口は答えを放つ。
「……転移か」
ヴェルシオが居たのは、王城の外、王都の中心だった。
たしか観光の名所としても有名な噴水のある公園で、周囲の人間はいきなり現れた子供2人に驚いた顔をして、けれどすぐ興味を失ったように去っていく。
こんな事ができるのは転移魔法しかない、と、そんな事が出来たのか、の驚き。2つの意味を込めて少女を見れば、唇の端を上げて、少女は笑んだ。
「ご名答。アーデンの人間ならみんなが持つわけでもないし、いくらでも使えるわけではありませんが」
着ていたシンプルなドレスの裾ひとつ乱さずに、シーリアは繋いでいた手を解いた。
血筋によって使いやすい魔法、というものがある。
その血族しか使えない特殊な魔法であったり、魔力が未熟な子供でも、その魔法だけなら難しいものであっても使えたり、というものだ。例えば王族なら大抵の攻撃や防御の魔法と、いくつかのギフトを与えられている。
自慢として適性魔法を喧伝する家も、奥の手としてやたらと吹聴しない家もある。アーデン伯爵家は後者で、彼女からも聞いたことはなかったが、上級魔法である転移に適性があるらしい。
屋根を失った事で、丁度真上にある太陽が網膜を焼く。理由は分かった。これなら正妃の許可なく出歩ける、というのも。けれど不安がよぎる。
「……城は騒ぎにならないか」
急に第2王子が消えたのだ。誘拐を疑われて、彼女が責められるのは嫌だ、と思う程度にはもう、目の前の婚約者に情が湧いていた。
「殿下の護衛には許可を取っています。あなた個人にかかった防御は常に発動しているし、これを手放さないなら城下に行くのも構わないって。それに……あ、いた。メリー」
ワンピースを翻して、シーリアは仕着せを着た、30代くらいの女の元に駆けていく。女もシーリアを探していたのか、お嬢様と親しげな声で彼女に応えた。
「うちの使用人のメリーです。殿下を連れてきたら、ここで落ち合おうって約束してて。あとこれが、さっき手放すなっていわれていた防御石。持ち主を守る魔法が掛かっていて、居場所を伝えることも出来るとか。殿下が持ちますか?」
「―――いや、俺はいい」
差し出されたのはつるりと黒く光る、丸い親指の先程の石だった。久しぶりの外に浮き立つ気持ちは、婚約者の言葉に容易く沈む。別に出払っても良いなどと、出歩けなかった今までは何だったのかとか、それはそれで軽視されているようで。
彼女と親しくなるきっかけだった馬の暴走の時だって、と明後日の方向に向かった頭に、まあまあな勢いをもって帽子が被せられた。心当たりは一人しかいない。
「今日やっている公演は一つだけなので、メリーがもうチケットを取ってくれています。髪はともかく眼の色は目立ちそうですから、一応帽子をかぶっておいてください。まだ時間はあるので、服も……そこまで目立たなそうですけど、もっと上手く市民に紛れられそうなものを買って着替えますか?」
「必要ない」
「なら、開演まで街歩きでもしましょうか。これでも結構詳しいんですよ」
薄く笑って、彼女は俺の一歩先を歩き始めた。