恋文
本を読む代わりに書類に目を通して、彼女と話す代わりに、臣下となる者たちの話を聞く。
命は不平等だ。後ろ盾のない脱獄犯を次期国王が殺しても、誰も、罪に問おうとすらしない。
襲撃犯と同様に処刑された扱いになった女は、ほかの死体とひとまとめに燃やされ、名も刻まれない囚人用の墓に埋められた。ヴェルシオの行いは、問題にすらならなかった。
正妃や当主をはじめとしたラフィンツェ公爵家の人間やオーランドは、魔法封じの枷を付けられたうえで、別々の離塔に幽閉されている。彼らの領地や財産は王家所有になったうえで断罪劇に協力した家に分け与えられて、いくつもの家が懐を潤した。かつてはラフィンツェと親しくしていた家も多いのに、縁や恩の薄っぺらさには、苦笑も漏れなかった。
もとから魅了が解けつつあった学園の男たちは、その主が死んだことで、夢が覚めたように一斉に正気に戻ったらしい。新たな妻を求める者や、かつての婚約者に復縁を求める者で社交場も学園もすっかりあわただしくなっているのだと、黒服の男から聞いた。
一歩間違えればマーヤが生きていた頃以上の大混乱に見舞われそうなその状況を圧して君臨するのがロザリンデだというのも、この赤髮の令嬢と似ても似つかない、父親から聞いたことだ。
「素晴らしい娘でしょう?この国の王妃でも他国の王族でも、彼女の意思で伴侶を選べるほどに、優秀な娘です。あなたの妃には勿体ない。……そうは思いませんかな、殿下?」
「何をいいたい?」
「あなたの後ろ盾になると陛下とお約束し、その為に娘をあなたの妃としようと思いましたが、少々事情が変わりましてな。子煩悩な親心というやつで、もっとふさわしい相手がいるのでは、と思いまして。あなたも、娘を愛してなどいないでしょう?」
「好きにしろ」
心底、どうでも良かった。
「ならばよかった。もちろん、あなたが王になるお手伝いはさせていただきますから、安心してくだされ」
それだけ言うと、男は居なくなった。
もう誰もいない執務室で、ひとり万年筆のキャップを外す。
ヴェルシオ以外の人間は魅了が解けて現実に戻ったのに、すべて、夢ではないかと思うときがある。
魅了を使える生徒など最初から学園にいなくて、ヴェルシオは今も学び舎に通っている。試験で首席を取ることもなく、最高級の食事や衣装が用意されることもなく、王太子になることもない。
王城に寄りつくこともなく、放課後は本を読んで過ごして、そうして、隣に、シーリアがいる。
今だって、かつてそうだったように、扉が開いて彼女が現れないものかと、そんなことばかり考えている。
どうして俺は、ここにいるのだろう。
胸ポケットから、紙切れを取り出す。
真っ白でちいさなそれは、 彼女がいなくなる前に、学園の女子が連絡を取り合う為にロザリンデが用意したものだ。
時々文字が浮かび上がるそれをデスクの奥底に仕舞い込んで、ずっと見ないようにしていた。シーリアが死んでいると、その前提で嘆く女達の言葉を見たくなかった。
最近は特に、言葉が送られる頻度は増した。盗み見だと、送り主が許すはずがないとは思うのに、夜やふとした瞬間に浮かんで消える文字を、追いかけるようになった。
言葉にもできない喪失の絶望を他人の文字で誤魔化すなんて、我ながら愚かで、話にもならない。
『今日もテオから、泣きながら謝られたの。正気じゃなかったとはいえ決して許されないことをしたって。もう遅いわって言っても、謝罪だけはさせてほしい、愛しているって、何度も何度も。……あんなに憎んだのに、許したいって思っている私がいるの。でも、それってあなたへの裏切りでしょう?どうしたらいいか、もう、分からないわ』
『カードを使ってももう届かないって、分かっているんです。シーリア様はもういないって、あの日から皆、必死に呼びかけているけど返事がないのが答えだって。でも、それでも諦められないんです。お願いします、お願いだから、もう1度で良いから、言葉を下さいませんか?』
『悩みを聞いて貰ってばかりで、貴女の悲しみに寄り添えなかったことを、きっとわたくしは生涯悔いるのだと思います。親切でとびきり酷いわたくしのお友達、貴女のことをなにも知らないのが、とても寂しい』
寂しい。
何百回も浮かぶ一言に、瞳を閉じる。会いたいと、もう一度話をしたいと綴られる言葉はそのまま、ヴェルシオの心情そのものだった。彼女を守れなかった俺に、それを言う権利はないけれど。
何度も破り捨ててやろうと思った。魔法を使うまでもない。指先にすこし力を込めれば、現実を理解させる羅列を見ずに済む。
けれどそうして、なかったことにしても、現実は変わらない。
世界は回って空が青い、彼女のいない朝が来るだけだ。
終わることの無い文字から逃げるように視線を外して、代わりにデスクの書類に目を通す。
業務を滞らせこそしないものの、紙束に集中できることはない。焦って憤って、僅かな休息の合間を縫って、いない影を追い求める。いくら処理しても終わらないそれは、学ばずとも主席を取れる頭をもってしても、難しい課題は多い。だから眠らず没頭することで、幾分か気を紛らわせることが出来た。そうして意識を保つために、飛び切り濃いコーヒーや、それも効かなくなったら薬に頼るようになった。
だって、眠ればシーリアの夢を見る。
木漏れ日が差し込む学園の図書室のソファで寝てしまって、瞳を開くと向かいのソファで本を読んでいた彼女にうなされていたの、と声を掛けられるような、優しい夢を。
そうしてこの悪夢のような日々はほんとうに夢だったのかと安心して、冷汗に濡れた額がシルクのハンカチに拭われるのに身を任せて、指先の温度に、瞳を閉じる。
何も、酷いことは起きない。裏切り者となじられることも、不意にその姿が掻き消えることもない。明日行きたい美術館や、前に訪れたパン屋の話をしながら、昔のことを思い返すだけだ。
心の底から安らいで、どうして彼女が居なくても大丈夫だったのかと、そう思った瞬間に、夢が覚める。
固いデスクに頬を押し付けて、掛けられている毛布の無い、彼女の居ない、現実に。
毎朝新鮮に絶望する。夢の中でくらい好きだと、愛していると言えばよかったと後悔して、ありもしない妄想に縋る。
愛していると、ずっと好きだったと伝えたら照れただろうか。頬を赤くして喜んだだろうか。あれで恥ずかしがりやな所があったから、視線をそらして、ヴェルシオを茶化したかもしれない。知ってる、と満足げにまなじりを下げたかもしれない。
分からない、だって、1度だって、好きだとすら言ったことはなかったから。
書類にサインしようとして、万年筆に込める力が強すぎたのか、紙が破れた。ペン先は繊細だから筆圧を込めすぎちゃダメだよ、と言われたのに。
もう、怒られることもないけれど。
「……何も、いらなかったのにな」
王になりたいと思ったことはない。
王子だからと与えられた環境の全てよりも、彼女に手渡されたものの方が愛おしかった。恋に浮かれる前に、それがどれだけ重要で失えないものだったのか、理解しておくべきだった。
歪みがないか万年筆のペン先を確認する。デスクのペンレストには城の使用人が用意した王太子に相応しいペンが用意されているけれど、いつか贈って、なぜかこの手にある濃青の量産品を、今日も手放せずにいる。
肉眼で確認した限り問題はなさそうだけれど、インクも切れてきた。そろそろ一度、水洗いした方が良いだろうか。
思い至って、書類も何も放り出して、自室に足を向ける。
もう使用人が立ち入ることもない王太子の部屋は、笑えるほどに壊れ、荒れていた。自室で睡眠をとっていた頃、目を覚ます度に暴れて魔法を暴走させたからだ。
魔力の制御もできない人間を玉座に置いて良いはずがないのに、国王にも、エヴァンズ公爵にも、咎められすらしなかった。
器に水を溜めて、キャップを外す。
目に見えないくらい小さな紙の繊維とかが詰まっちゃうから、定期的にペン先を水につけた方がいいんだよ。月に1回くらいかな?私も結構忘れてるけど、とアーデンに避暑に訪れた時、あの本だらけの屋敷で嬉しそうに話していた、俺の婚約者。万年筆箱にずらりと並べられたそれを、愛おしそうになぞっていた指先。
何をしても、見ても、触れても、彼女を思い出す。
ヴェルシオが死んで彼女と再会できるその日まで、この空想に囚われ続けるのだろう。ひどく恐ろしくて、けれどそれだけが、幸福なことに思えた。
彼女がしていたように、指先で首軸を回す。そのまま軸から外そうとして、手は止まった。何かが詰まっているように、上手く引き抜けない。力を込めればゆっくりと動いたけれど、何かが付いてきた。
紙、だ。
軸と吸入器の間に挟まっていたのは、切手ほどの大きさの紙片だった。メッセージカードの小型版だろうかと思って、すぐに否定する。魔力は感じない。何よりすでに、文字が書かれていた。
さっきまで使っていた、この万年筆に込められていたものと、同じインクの色で。
彼女の、わずかにまるい、読みやすい字で。
君が好きだよ。
だから、その願いが叶えば良い。
それだけが、書かれていた。
「―――あ」
彼女が、シーリアが、俺の婚約者が、言いたかったのは。
文字が滲んで、ぼやける。
どんな気持ちで、万年筆にこの紙切れを詰めて、あの時、俺に渡したのか。
視界が回る。思い出してはいけない気がするのではなかった。思い出したくなかっただけだ。
裏切った。彼女の目の前でマーヤに微笑みかけて、甘ったるい言葉に頷いた。
あの揺れる馬車の中で、頬にふれた、滑らかな冷たい指。しろい指先は震えていたこと。下手な敬語で寂しそうに、それでも笑っていたこと。揺れる馬車。ヴェルシオを庇おうとした彼女を怒鳴りつけた。彼女の話を、薄っぺらなプライドから信じなかった。何も期待しないと拒絶した。
だから彼女は諦めたのだ。諦めて命を狙う者たちから、ヴェルシオを庇った。
死を、選んだのだ。
ロザリンデの殺意が、嘲笑の意味が、やっと分かった。
彼女の死を受け入れられなくて、いなくなったと誤魔化した。逃れられなくなった後は全てをマーヤや、襲撃犯のせいにしていた。俺のせいだったのに。
彼女は死んだのでない。
俺が、殺したんだ。
好きだよと、さいごの文字が、床に落ちる。
愛されていた。あの瞬間まで。最後、諦められるまで。
もう駄目だ。
これ以上、1秒だって生きられない。
∮
空は、琥珀を透かしたような橙色だった。
喉が痛んだ。咳き込むと血の味がした。それだけだった。
用意した毒薬は濁った錆色をしていて、毒の効かない王族ですら1瓶飲めば確実に命を奪うという。瓶の底は空なのに、痺れるような指先と鉛のような倦怠感しか、身体には残っていない。
動けないまま理由を考え思い出した。いつか彼女に話そうとした、戦狂いの初代王が残した数多の適正魔法やギフトを。その1つ、王と後継者にのみ与えられた、自殺を禁じる呪いを。
「……シーリア」
俺の、俺の、おれの、ゆいいつの。
滑稽な話だ。王は人である前に国のもので、だから建国の初代王に縛られる。自死は許されない。
どんな毒でも縄でも、剣だって、俺の命を奪うことはないのだろう。
いくら望んでも玉座にいる限り。俺が死を望む限り。
あなたが何をしようと殺してなんてやらない。お姉さまのそばに、行かせてなんてやらない。真実に気付いてもずっと、あの人の居ない世界で生きればいい。
女の憎悪がこもった、あの言葉。あいつはこの事態を予想していたのだろう。
王太子になる前に現実を認めて、この胸に剣を突き立ててさえいればあとを追えたのに。
笑い話だ。とんでもない駄作だ。
悍ましくて滑稽だった。死ねばまた会えるなど、そんな幸福が俺に許されるわけがなかったのに。
俺の、俺だけの婚約者。
ためらいがちに触れる指先が好きだった。穏やかな声が好きだった。淡い瞳も同色の髪も、同性への気安さも、そのくせ人に囲まれると緊張するところも、すべて。
彼女に出会って、笑いかけられて心を知った。心の在りかを、その理由を知ったのだ。
目尻が熱い。それよりずっと、心臓が痛い。
栓が壊れたように涙が顔を濡らして、ぼたぼたと床を濡らした。
腕で顔を隠したって、いつかのように彼女に、髪に触れられることはない。
彼女を侮辱した口を縫い合わせて、罵倒を聞き流した耳を落として、ほかの女を見た目玉をつぶして、踊った手足を切り落としたとしても。
最初の、傍にいるという約束を、破ったのは俺だ。
震えて、歯の根が合わなかった。
みっともなく彼女の名前を何度も呼ぼうとして、嗚咽しか漏れない。
もう、夢ですら彼女に会うことはないのだろう。そんな幸福を、俺は俺に2度と許さない。
君が好きだよ。
だから、その願いが叶えば良い。
どんな顔で、どんな感情で、この短い文を書いたのだろう。
それを知る日は、永遠に来ない。
丁寧に書かれたそれは彼女からの最後の恋文で、別れの手紙だった。