首輪
王太子になったことで、すべきことは格段に増えた。
山と積まれる書類にご機嫌伺いや、はっきりと次の王を見定めようとする貴族たち。いつか敬遠していたすべてを受け入れたのは、ロザリンデの、あの人を探そうともしなかったと詰る言葉が引っかかったからだ。
確かにその通りだった。権力も実力もない無能だったから、彼女を探すのに碌な方法も使えなかった。思い出すことにも随分と時間を使ってしまったけれど、王太子として認められれば、騎士団を動かすことも、魔法省に命令することもできる。鬱陶しいばかりの座だが、シーリアが見つかるまでは利用しない手はない。
婚約者が見つかれば、いつか考えていた通り王弟の息子にでも王座を譲って、彼女と2人で遠いところに行こう。きっと彼女は王妃になっても国を愛するだろうし国民にも慕われるけれど、多くの事があって、騒がしくて、疲れてしまった。
もう正妃に目を付けられないために、不出来な振りをする必要はなくなった。オーランドの数倍の速度で公務を片付ければ、テスト当日だけ出席した試験で主席を取れば、剣術の授業で騎士科の生徒も教師も全員叩きのめせば、王として求められるすべてに応えれば、きっと、彼女に、もう一度。
王城の誰も、学園の誰も、シーリアについて問うと、言葉を濁す。きっと、まだ能力が足りないからだ。指先で、胸ポケットの濃紺の万年筆をなぞる。これを渡されたのは、いつだっただろうか。
寝ても覚めても彼女のことばかり考えている。出会ってからの十年近くを反芻して、早く会いたいと焦りを募らせる。
それでもどうやってこれを渡されたかだけは、思い出してはいけない気がした。
本が好きだった。紅茶もコーヒーも嗜むけれど、特別好きな銘柄はなくて、よく変わり種を試していた。
何着もドレスを用意して、王太子の婚約者のための部屋に彼女の好みそうなものを置いて、かつて送られた手紙とか、全てを揃えて。あとは彼女さえいれば、完璧だった。
エヴァンズ公爵家がシーリアを襲った賊を捕まえたと聞いたのは、卒業も近くなった、ある日のことだった。
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久しぶりに、鼓動が期待に高鳴る。
だってこれは、彼女の手掛かりだ。
ヴェルシオの婚約者、シーリア・アーデンは、ある曇天の日にマリット男爵領を訪れようとして、それを知ったマーヤに賊を差し向けられて、行方不明になったのだという。
マーヤにとって、シーリアはずっと目障りだった。オーランドとロザリンデの婚約破棄のために争いの火種を撒くのに、彼女はその抑止になっていたからだ。とはいえ学園に賊を引き込むわけにはいかないし、下手な手段ではそこらの騎士より強いロザリンデに邪魔をされる。戦うための魔術の心得があるわけではない一般人を襲うのにうってつけの場が、あのマリット男爵家を訪れようとする、道中だった。
王太子になって、どれだけの時間がたっただろうか。いくつもの書類に判を捺し、直接役人を脅して捜索させるように促したけれど、それでも奴らを捕まえたのは、シーリアがいなくなってからずっと捜索を一手に引き受けたエヴァンズ公爵家だった。
知らせを受けてすぐ、城を飛び出した。
悔しいとは思わなかった。拘束しているマーヤの取り調べや解析は彼らの領分だったし、何より彼女さえ見つかれば、そんなことはもう、どうでも良かった。
早く会いたかった。声を忘れる前に。
言葉を交わしたかった。ありふれた挨拶でいいから。
浮足立って、血となにかの腐臭で満ちた、薄暗く汚れた王都のはずれの牢に踏み込んだ。
「シーリアはどこにいる、だと?あの女は死んだよ、崖から落ちて!あのアマにもおんなじことを聞かれたけどよぉ、あんたらまさか、まだ生きてるとおもっていたのか。んな訳ねぇだろ!」
待っていたのは、嘲笑だった。
ラフィンツェ公爵家の手先だったそいつらは、急に現れた看守らしからぬ男に驚いた様子をみせて、雇い主の後ろ盾が見込めないと分かると、口汚く何もかもを罵った。
「あの女の最期を教えてやろうか?頭おかしくなったのかのこのこ馬車から降りて、崖に真っ逆さまだよ!下が川だから大丈夫とでも思ったのかもなぁ、あの高さから落ちて、生きているわけがねえだろ。あの美人にも言ってやったぜ、水底を探してみろよ、脳みそくらいならこびりついているかもなって!」
反吐の出るような言葉を並べて、王家の、ラフィンツェの、マーヤの、エヴァンズ公爵家の、侮辱を叫ぶ。
牢の錠は、閉められていた。
「せっかく貴族の女を襲えるんだから楽しむつもりだったのに、ーーーゴガッ!」
鍵を持っていないので、魔法で牢を壊す。
何本か歯を折った。まだ何か喚いている髭面に、もう1度足を叩き込む。首に鎖がつながっていたせいで、首が床に沈むことはない。もう1度。さらに折れた歯が口から零れ落ちて、臭い鼻血と混じった。
まだ殺してはいけない。そう考えながら、意味のある言葉を吐かなくなった頭を蹴り飛ばす。繰り返し繰り返し。聞きたいのは、そんなことではない。従順に彼女を襲った現場の状況や、詳細な計画や、彼女の手掛かりになることを、話すようになるまで。
繰り返し繰り返し。繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し、漏れる声に嗚咽が混じっても、隣の牢から悲鳴が聞こえても、声を上げなくなっても、二度と耳障りな言葉を吐かなくなるまで蹴り飛ばす。
繰り返し繰り返し繰り返し。
気がつくと、それは動かなくなっていた。
原形を残していない顔を持ち上げて確認すれば、微かに息はあった。
治癒魔法を掛けてしばらくすれば、話すくらいはできるだろうと判断して、血で汚れた手を離す。
捕まえた賊はまだ残っている。隣の牢に視線を向ければ、化け物を見たかのような顔をされたのも、滑稽だった。
魔力の調節を出来る気がしなかったから、素手と革靴で彼女の場所を聞くことになった。爪先が鈍く痛むし、何人もの顔面を殴り潰したせいで指はいびつに歪んでしまった。金糸の刺繍が施された王太子のための衣装には汚い血がべったりとこびりついて、髪や頬にも飛んで、鉄臭かった。
自分がこんなにも躊躇なく暴力をふるえる人間だと知らなかった。恐怖の声も、化け物と罵る言葉も、命乞いも聞き流して、従順にすることだけ考えた。
もっと情報を吐かせるために殺さないように気を付けたけれど、牢を出た後は看守に医師を呼ぶよう命は下したけれど、間に合わないものもいたかもしれない。それすらもどうでも良くて、小さな期待に、胸は高鳴っていた。
見つけた。思い出した。彼女の手がかりを。
7人目か、8人目かの賊の足を折ったときに、男は嗚咽とともに、防御石、とうめき声を上げた。
防御石。その存在を思い出すのに、数秒を要した。
ずっと昔、初めて転移魔法を使って彼女に連れ出された日、俺を連れ出す条件としてシーリアが持ち歩くことを義務付けられた、つるりと黒く光る、丸い親指の先程の石のことだ。
持ち主を守る魔法が掛かっていて、居場所を伝えることも出来る、首からさげた革袋の中身。
持っていなかったかもしれない。けれどもし、あの石が彼女の居場所を教えるなら、もう一度シーリアに会えるならば。
王太子のための駿馬を再度走らせる。治癒魔法で手足を治して、呼び止められないために、魔法で血の跡も消す。早歩きは、駆け足になる。王城の一室、王妃の暮らしていた部屋の、魔術の探知鏡。
あれは王妃の手がかかった護衛に渡された、ラフィンツェの用意した石だった。魔道具の類は、正妃はあの鏡で管理していた。
その部屋には、先客がいた。
「ああっもう!なんで上手くいかないのよ!はやく使えそうな魔道具を―――えっヴェルシオ!?」
女が振り向くと、ピンクの髪が揺れた。首には、見慣れない首輪が付けられていた。
「ちょうど良かった、手伝ってくれない?あのクソ女のせいで酷い目にあったの!信じられる?あいつ、わたしを地下牢に閉じ込めたのよ?!貴族牢じゃなくて、地下よ?!変な首輪は付けられるし、可愛いドレスもないし食事はまずいしでほんっとに最悪!やっと看守を魅了して牢からは出られたんだけど、この首輪があると魅了がすっごく効きにくくなるみたいで、鍵を探しているの。ヴェルシオはわたしのこと、大好きでしょう?協力してくれるわよね?……あ、ちょっと!」
なにか喚いているけれど、どうでも良いことだ。そんなことよりも、彼女の場所を知りたい。
壁に取り付けられていたそれに魔力を込めて、鏡面を揺らす。糸を手繰るように防御石を探ると、どこかの風景が映る。
実家の部屋?違う。王都のタウン・ハウス?違う。学園の寮ですらない。
城だ。それも、地下の。なぜ?
「なぜ……お前が、それを、持っていた?」
指が震えた。示されたのは王城の地下、魅了の解析用の、マーヤの所持品の保管庫だった。
「やっとこっちを見た。あの女が死んだとき、クソ王妃に貰ったの。戦利品みたいなものね」
ヴェルシオの視線が向いたことに機嫌が上向いたのか、ぺらぺらと女は話し出す。
ずうっとあの地味女が目障りだったから殺してやろうと思っていたけれど、転移で逃げられたら面倒でしょう?大した距離は飛べないみたいだけど、隠れられても面倒だし。もし転移で逃げても、あれで場所は分かるもの。馬鹿みたいにヴェルシオに捨てられたあとも防御石を持ち歩いていたから、利用してやったのよ。馬車の中に捨ててあったから最後の最後で手放したみたいだけど、本当に馬鹿な女!
「ヴェルシオにはがっかり。ちゃんとメッセージカードを奪い取れたし顔は1番だったから愛人にしてあげてもいいって思っていたのに、わたしがオーランドのお妃さまになるのが悔しかったの?わたしが大変だったのに助けてくれないなんて、本当に最悪!今なら許してあげるから、ほら早く、わたしの首輪を外してよ!」
「ちがう」
「え?」
疑問を呈した顔は、ヴェルシオの顔を見て固まった。
俺は今、どんな顔で、どんな声をしているのだろうか。
人形のような、のっぺりとした、無に近いそれなのだろうか。
ちがう。彼女の転移は優れたものだった。魔力量にも依存するけれど、彼女1人なら王都から街3つは飛べるほどのものだった。
1人なら身を隠す必要もないほど遠くに逃げて、助けを呼べるはずだった。けれど彼女の転移は、誰かを連れてならずっとその距離は短くなる。
馬車に乗ったとき、どれだけのストックがあったのかは分からない。
けれど崖から落ちたなら、もう魔力は残っていなかったのだろう。
馬車が襲われた、切り立った崖の下。落ちれば助からないと、何度も訪れたから知っている。
「な、何よその顔!それともそんなに現実が認められないなら、また魅了に掛けてあげましょうか!?お前に何も望まないって、あの女に言ったのはヴェルシオじゃない!わたしと一緒にいて、あんなにうれしそうだったくせに!」
女の言葉など、もう聞こえていなかった。
水底など、とっくの昔に浚われている。今も彼女が探されているのは、何も見つからなかったからだ。彼女は、死体すら見つかっていない。
彼女の身体がどこに在るのか。それを知ることは、もう出来ないだろう。
けれど彼女が、俺の婚約者がもう生きていないと、それだけは分かった。
分かって、しまった。
「は」
「はは」
気がつけば、口から歪な音が漏れていた。吐く息でしかなかったそれは、哄笑にかわる。
魔力が唸る。女がいたい、と叫んでうずくまる。
何もかも裂く、不可視の風の刃。
なにもおかしくないのに、ケタケタと笑いながら、瓦礫を礫に変える。価値のあったものもあっただろうに。もう何にも、意味はないけれど。
まだ何か喚く、だれかの首を刈り飛ばす。風魔法が得意なの、珍しいね、と視界の裏で、シーリアが笑う。
王城にいた頃、本を棚に戻すのに立つのが面倒で、風魔法を使った時に器用だねと呟いた、彼女を。
『王家の……ってわけじゃないよね。歴代の王様でも特別風魔法が得意って人は、聞いたことないし』
「珍しくもないだろ。この程度なら、王族なら誰にでも出来る」
『珍しいし、凄いよ。しかも適正魔法でないなら、君がすごいってことだ』
思わず顔を上げた時には、彼女はもう本を読んでいて、跳ねた心臓は自分も本を読むことでごまかした。
それだけだったのに。どうして、忘れていられたのだろう。
壊す。魔力がうなる。壊す。何もかも。
けたたましい音と共に、鏡が割れる。家具が吹き飛ぶ。もう動かない肉が、さらに赤く裂ける。
魔力が暴走する。息が吸えなくなって、膝から崩れ落ちる。指先が生ぬるいものに触れて不快だった。それら全て、他人事のように叫んでいた。
警備の騎士に取り押さえられるまで、ずっとそうしていた。部屋から連れ出される寸前、視界の端に壊れた首輪が映った。
茶褐色に変わりつつある赤がこびりついたそれに、結局外せたのかと、ぼんやりと考えた。
その日のうちに、エヴァンズ公爵家の名のもとに、シーリアを襲撃した者たちの、処刑が行われた。