破棄
いつの間にか、学園中で遠巻きにされるようになっていた。
孤独は苦ではなかったはずなのに、となりの空白だけは、耐え難い焦燥を生んだ。
授業に出ることも少なくなった。出席日数や留年を指摘する教師はいなかったし、いてもどうでも良かった。
彼女を探した。学園中を、街を、かつて訪れた場所を。何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。
夢にさえ現れた。図書室でまどろむ隣で、彼女が本を読んでいるような、そんな夢だ。
声を掛けられることも、笑いかけられることもなかったけれど、ページのめくられる速さや下手な鼻歌が彼女らしくて、このまま夢が覚めなければいいと思った。
そうして目が覚めて、1人きりな事に絶望して、はやく見つけなければと気が逸る。
窓の外で、1羽の小鳥が囀っている。いつか見た色鮮やかなその1羽の隣に、番の鳥はいなかった。
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「ロザリンデ・エヴァンズ、君との婚約を破棄させてもらう!そうして俺は、愛するマーヤ・マリットを、唯1人の妃とする!」
学業も公務もほとんど行わない身でも、どうしても避けられない行事は存在する。
国王と正妃、国の有力貴族が揃う城の舞踏会はその1つで、けれど予定をなぞるだけだったその催しは、王太子の一言によって、大きくざわついた。
豪華絢爛な、国中の贅を凝らした舞踏会。外国の大使を歓迎する為に用意された食事も楽団もこの国最高のもので、けれどもはや、そんなものを誰も気にしない。
婚約破棄を告げられた令嬢は、深紅のレースのドレスを着ていた。
彼女が好む、鮮烈な赤。シルクの朱地にレースを重ねて、右肩から裾、袖に至るまで大きく銀糸の花の刺繍が施されたそれには、覚えがあった。いつかエヴァンズ公爵家がシーリアの為に用意したドレスの、色違いだ。
薔薇の花一輪を髪に飾って、ロザリンデは宝石のような赤い目で、たった今婚約者ではなくなった男を眺めていた。
マーヤはオーランドの腕にしがみついて、満願叶ったといわんばかりの笑みを浮かべている。その後ろの上座で、正妃は国王のとなりで扇で口元を隠していた。顔の半分が隠れていても、その目は愉悦に染まっている。
それら全て視界に収めながら、深紅はほんのすこしも動じない。
すぅと、彼女は息を吸った。
「婚約破棄、ですか。そうでしょうね、この婚約は破棄しなければならないでしょう。……あなたがそれを選んだのだから、仕方のない事だわ」
残念です。
一切の感情が削ぎ落とされた、のっぺりとした声だった。
「ふ、ふん!ロザリンデ、自分の非を認めるなんてお前にしては殊勝な心掛けだな。なにか言い訳や負け惜しみがあるなら聞いてやろう、それでも俺がマーヤを選ぶという事実は、絶対に変わらないけどな!」
「そうですか、では。……オーランド・ステファノ王太子殿下。貴方の婚約者になって10年、この国のために、ありとあらゆる研鑽を重ねてきましたわ。それら全て無駄になるのだから、悲しいと感じるのも当然。けれど仕方のないこと、と諦めてもいますの。……ラフィンツェ公爵家の血が流れているあなたを、王位につかせるわけにはいかないもの」
女は笑った。
無表情が歪む。鮮烈に赤い唇が、ゆるりと弧を描いた。
美しい女だった。稀代の天才、王妃の器としてかつては人形のような無機質さを備えていたけれど、いつからか人間らしくなった女だった。完成された美貌、と囃し立てられているのを知っている。
それが、笑っている。なにも感じていないように、顔の形だけで笑みを作っている。
ざわめきの意味が、変わった。
今日の舞踏会は警備の騎士が多かった。扉を守るもの、国王に侍るもの。その誰もが緊張した面持ちで、渦中の2人を見ていた。
「は?ロザリンデ、なにを」
「少し黙ってくださる?用があるのは、レオドーラ王妃、あなたよ。……学園に魅了を使う生徒を入学させ混乱に陥れたこと、禁止された魔法薬を王族に盛ったこと。その他ラフィンツェ公爵家が行った27の罪で、あなたとラフィンツェ公爵家を、告発します」
ぞっとするほど鋭く、冷たい声だった。ざわりと空気が揺れる。
狼狽えたのは白い髪が少ししか残っていないラフィンツェ公爵家当主で、顔を赤く染めたのは正妃だった。
「何ですって?!わらわのオーランドに暴力を振るった挙句そんなことを宣うなんて、決して許さないわ!誰か、誰かこの不敬な小娘を捕らえなさい。抵抗するなら、殺しても構わないわ!」
「待て」
「ち、父上……!」
「あなた!」
ようやく王が、口を開いた。戦慄きを隠すように見開かれた金の瞳を、誰もが衝撃と共に見つめている。
「ロザリンデ・エヴァンズ。この場でそれを申すのは、確たる証拠があるからか?」
「えぇ、陛下。そのために今、わたしはここに」
「ならば、申してみよ。……今王太子が妃にすると宣言したその娘は、何者だ?」
「ハーピーと人間の混血にして、魅了の使い手です。マリット男爵家の養女、姓を持たないマーヤは、南西のツェズゲオラでレオドーラ妃に目を留められ、この国に来たのです」
そうして、王とたった今婚約破棄された令嬢は、瞳を合わせた。
それが、合図だった。
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厳かな問答だった。
誰もが息を潜めて、2人を眺めることしか出来なかった。
百年以上前から王家に並ぶ権力を持つラフィンツェ公爵家は、この国で名家として名をはせる傍らで、違法な魔法薬を流通させたり、魔獣や獣人を外国から攫って売買するなど、後ろ暗いことを密かに行い、莫大な利益を得ていた。
マーヤ・マリットの正体。どうやって正妃が彼女を見つけたか、どんな手続きのもと、マリット男爵家の養女になったか。時折エヴァンズ公爵家の者や他の家の人間も口を挟んで、話はどうして正妃が息子を操ろうとしたかまで及ぶ。
「う、嘘だ……そんな、母上……」
「ちが……ちがうのよ、オーランド。わらわは、お前の為を思って……」
良く準備されていると賞賛したくなるほどに、ラフィンツェ公爵家の裏帳簿などの証拠が、問答の間に次々と現れた。
恋人の正体。実の母親が、魅了で自分を操っていたこと。
盲信していた母親とその実家の所業に、オーランドは立っているのがやっとであるかのように、口を挟むことも、母親に言葉を返すこともしなかった。
マーヤにとっても、予想もしていなかった事態だろう。何度かはくりと口を動かして反論を試みて、けれどロザリンデの壮絶な微笑に何も言えず、オーランドの腕にすがるだけだった。
長い問答の終わりには、この舞台は王とロザリンデによって用意されたものだと、誰もが理解していた。多く配置された騎士も、次々と用意される証人や証拠も、この事態を見越してのものに他ならない。周到すぎる準備は、公の場で堂々とラフィンツェを断罪するためのものだったのだ。
1人1人、ラフィンツェ公爵の元から人が離れていく。朗々と言葉を交わす2人以外、誰1人、溜息をもらすことすら出来なかった。
「―――これが全てです、陛下。レオドーラ妃は正妃でありながら国ではなく実家の繁栄を望み、オーランド殿下が抱いたマリット男爵令嬢への愛情は、魅了によってつくられた、偽物の感情です。マリット男爵令嬢は未来ある若者を惑わし数々の婚約を破談にさせ、この損失は国を大きく損なうでしょう。
……彼女は、侍らせたい男と婚約しているからと、わたしが姉と慕う方に、賊を差し向けさえしました。マリット男爵令嬢によって多くの生徒が悲しむなかで、あの人は1人でも多くを助けようとしてくれた。あの人を奪ったことを、わたしは生涯許しません。そうしてマリット男爵令嬢が妃になることも、それを是としたラフィンツェ公爵家が今のまま国の中枢に携わることも、決して許しはしないわ」
笑みが掻き消えた後には、冴え冴えとした怒りがあった。
群衆は理解する。周到な用意も、国王への直談判も、王太子が婚約破棄を告げ恋人と結ばれるはずのこの場で全てをひっくり返したのも、誰よりも、何よりも、ロザリンデ・エヴァンズは怒り狂っているからだと理解する。
王は、大きく息をついた。玉座に置かれた手は、震えているように見えた。
「エヴァンズ公爵家、ロザリンデ、お前達の忠誠に感謝しよう。ラフィンツェ公爵家の罪は疑いようのないものであり、今こそ罰を受ける時だ。……レオドーラとラフィンツェ公爵を、捕らえよ」
どうしてと金切声で叫ぶ女を、騎士が速やかに拘束する。
魔法を使う隙も与えない、手際の良さだった。
次期王妃への婚約破棄かと思いきや、起こった現王妃とその実家への断罪劇。表情こそ取り繕ったもののざわめく観衆たちの、興奮は冷めやらない。ずっと壁の染みをしていたから呆然とする学園の男どもや、涙をこぼして家族に肩を支えられている女達の顔が、よく見えた。
暴れるマーヤも連れていかれる。何1つ頭に入っていなさそうなオーランドを見据えて、さいごに淡々と、ロザリンデは赤い唇を動かした。
「いつだってわたしはこの国と、その未来の為に努力してきたわ。王妃になりたいと思ったのだって、その方がアウディスクの為になると思ったからよ。その方が国益になるなら、喜んであなたを玉座から引きずり下ろす。……さようなら。一度だって、あなたを愛したことはなかった」
最後の挨拶に、笑みはなかった。片足を斜め後ろの内側に引いて、もう片方の足の膝を軽く曲げる。背筋は伸ばしたままのカーテシーは、誰もが見とれるほど、美しい別れだった。
アウディスク王妃と、国有数の公爵家の断罪劇。
そのニュースは、瞬く間に貴族も庶民も超えて、世界中に広まっていった。