家族
世界とはこんなにも、退屈なものだっただろうか。
「兄さま、このドレスはマーヤに似合うと思いませんか?これに先程の靴を合わせて―――」
マーヤ・マリットは男どもに貢がれることを至上の喜びとしていて、ドレスでも装飾品の類でも、毎日のようになにかを強請っていた。
いつからかマーヤどころか学園の誰とも話さなくなっていたけれど、弟のようにふるまうこの男は、それが不満だったらしい。
わざわざ図書室に乗り込んで喚きたてて、女へのプレゼントを選ぶという名目で、休日に王城に連れてこられた。
ヴェルシオの場所に入り込んだのは気に食わなかったが、王城に向かう用事を探していたから頷いた。そうでなければ、いつか望んだように風魔法で刻んでいたかもしれない。ずらりと並べられたドレスを眺めながら考えて、それはまずいかと思い直す。
これは王太子で、王位を継いでもらわなければ困る。どうして困るのかは、よく分からないけれど。
玉座が面倒だったからだろうか。たしかに重い王冠も、笑顔の裏で腹の探り合いをするのも、分刻みの公務も、国の為に身を粉にすること自体、考えただけで嫌になる。
国などどうでもいい。どうでもいいものなど、滅んだって構わない。
丈の長いドレスを踏みつけて進む。いつか向けられた視線や言葉を思い出して、乱雑に前髪を掻き上げる。ずっと昔の話なのに、もはやどうでもいい存在なのに、あのころを思い返して、今更はらわたが煮えくり返る。
耳の奥でガンガンと音が鳴る。腹の底に澱が溜まるように、なにに対しても気に食わない、と感じることが増えた。最近は特に、他人の話し声も、向けられる視線1つすら鬱陶しい。
怖い顔してるねえと笑いながら、眉間に触れる、しろい指が恋しかった。
子ども扱いかとは思ったけれど、あれ以上に優しいものを、知らなかったから。
「………………あ」
「兄さま?そのドレスは、マーヤには地味かと思いますが」
なにもかもどうでも良くなって、部屋を出る間際に指先が探り当てたのは、薄青の、柔らかいドレープのドレスだった。
装飾は少なく、けれど色も、裾の広がった形も、彼女が好みそうな1着だ。少なくともあの夜から探した中では、1番しっくりくる。
色白なお姉さまには濃い色のドレスが似合うとロザリンデは言っていたけれど、明るい色を重ねるのも、淡い瞳や髪によく似合っていた。
そうだった。気に入りそうなワンピースや小物は何度も贈ったけれど、結局ドレスを贈ったことは、1度もなかった。
今なら、喜んでくれるだろうか。
―――だれが?
兄さま?と呼びかける声を無視して、薄青を手に、今度こそ部屋を出る。
分からない。取り戻したい。だってあれは、ずっとヴェルシオだけのものだった。
なのに、思い出してはいけないと警鐘がなる。
希少本の管理庫には、誰もいなかった。薄青のドレスは、ヴェルシオの自室の、使われていなかった隣の部屋に放り込んだ。
∮
青い文字盤の懐中時計に、ステンドグラスの一輪挿しの花瓶。彼女に似合いそうなものを探す間は、心が安らいだ。
似合うだろうか。―――喜んでくれるだろうか。
一見お断りの靴屋、舶来もののみ取り揃えている魔法具店。
どこに行けば好みのものがあるかは、誰よりもよく知っている。
「いらっしゃいませ。……おや、お久しぶりです。今日はお1人なのですね」
学園街の創業100年以上の文具店も、そのひとつだった。
ずらりと並べられた万年筆とインクの瓶と、季節に合わせて品揃えの変わる便箋やメッセージカード。黒茶の床が歩みに合わせて軋むと、真っ白い頭の店主は、ヴェルシオににこやかに話しかけてきた。
「お久しぶりですなぁ、とはいえ、2月程前にもお越しいただきましたが。いやあ、歳を取ると時間が曖昧になっていけない」
丸眼鏡の奥で、垂れた目尻がさらに下がる。そういえば2月ほどまえ、彼女に贈った万年筆を見つけたのは、この店だった。
結露でぼやける窓硝子の向こうにいるかのように、未だ彼女の姿はよく分からない。
あの日買ったブランドの、新作が出たらしい。
覚えていないけれど、手になじみそうな太軸はきっと彼女好みだ。王子の名を使えば何十本でも献上させられたけれど、それでもかつてのように、わざわざ曇天の下、王家御用達でもない文具店に向けた。
もう子供ではない。マーヤの為にオーランドがそうするように、しようと思えば王家の商会に国内外のありとあらゆる宝を集めさせて、そのなかから選ぶことだってできる。けれどあの指先に渡るのだと思えば、なるべく自らの手で探して、手ずから渡したい。
「シーリア様に、ですか?はは、きっとこの軸はあの方もお好きだろうと思い、とっておきを残しておきましてな。とびきりの書き味の1本です。試し書きをされますか?」
「……シーリア?」
シーリア。この1本を気に入りそうな、老人と顔見知りの誰か。彼女の名前だ、と頭の中で結びつけるのに、数秒を要した。
随分と久しぶりに、名前を呼んだ気がする。
シーリア。シーリア。
彼女の名前。俺の唯一の―――なんだっただろうか。
いちばん、大事だったはずなのに。
「ええ。殿下が先日来られてシーリア様への誕生日プレゼントの万年筆を購入いただいた後も、婚約者様にお越しいただきましてな。その時はあの方に、おすすめもできませんで。けれど買われるならばうちからであればと―――殿下?」
シーリア。婚約者。俺の、俺だけの。
首をつたう汗が、いやに生ぬるかった。名前と紐づいて、可愛いと、愛しいと思うだけだった誰かが、形を得る。
灰色の髪。同色だけれど少し淡い瞳。本と万年筆が好きで、いつも誰にでも優しかった。
そうだ、この店をこの街で1番の品揃え、と贔屓にしていた。
昔の限定品もある、みてこれずっと探していたやつ、と常にはなく興奮した面持ちで、声を抑えながら袖を引くのも、即決で買った万年筆の外箱に額を当てて喜ぶ仕草も、なにもかもが可愛かった。
ドレスより本を収集したがって、けれど王城の書庫にすらない希少本を王子の身分を使って取り寄せようかと提案したら、あっさりと断った彼女。
探す楽しみがあるからね、気長にやるよと言っていたけれど、きっと王子であることを厭うヴェルシオを気遣った言葉だったのだ。
そうだ、だから俺は。
「……なんでも、ない」
思いだした。俺の唯一。隣にいたはずの婚約者。
なぜ彼女がいない?その理由を、考えては、いけない。
長い時間店にいたわけでもないのに、一歩出ると外は土砂降りの雨だった。
傘を買うのも魔法で水滴をはじくこともできたけれど、どちらも意味はないと感じたから、軒下で夕立が去るのを待った。
かつて紅茶の茶葉を買いに出かけて、同じようにシーリアと雨宿りをしたことがあった。そういえばどうして彼女はあの時、転移を使わなかったのか。
たまたま転移のための魔力を使い切っていたのか、転移に思い至らなかったのか、つないだ手を名残惜しいと、彼女も思ったからだったのか。
知りたかった。聞きたかった。だれともつながない右手が、かじかむほどに寒かった。
∮
溜まっていく。服が、本が、行く先を見失った、彼女のための物たちが。
名前を得て、いくつも記憶を思い出した。
2週に1度の逢瀬、毎日顔を合わせた眩い1月、蜂蜜を入れた紅茶が好きだったこと。
取り戻したかった。探さなければいけなかった。
学園の図書室を、学園街を、彼女を求めてさまようように、歩き回った。
いつのまにか他人から奇異の目を向けられるようになったが、そんな事はもうどうでも良かった。
もとより彼女以外からの評価に興味はなかったし、すべてシーリアが戻れば解決する話だ。
だからどうか、早く。
∮
どうしてこんな、簡単なことに気が付かなかったのか。最初から、誰かに聞けばよかった。
思い至ってシーリアを知らないか、と王太子に聞いたら、彼は持っていたカバンを、足元に落とした。
ヴェルシオと同じはずの金色が、愕然と見開かれる。
「兄さま、どうして……」
「知らないのか」
王太子の身分があれば、知っていておかしくないと思ったのだが。
ならば、用はない。次はだれに問うべきだろうか。
親しかった人間は、と記憶をたどって、赤髪の令嬢に思い至る。かつてこの男とよくともに居た、宰相の娘。シーリアとも親しくしていて、2人の時間に割り込もうとするから、鬱陶しく思っていた。
気に食わない女だったけれど、背に腹は代えられない。いたり居なかったりで、最近はまた校舎で姿を見なくなっていたけれど、まずは教室からだろうか。背を向けた途端、慌てた声がかかる。
「お、お待ちください、兄さま!どこに行かれるつもりですか?!」
「ロザリンデ・エヴァンズに用がある。お前は、居場所を知っているのか?」
シーリアは知らなくとも、ロザリンデは知っていておかしくない。
2人はずっと昔からの、婚約者だった筈だ。
「な―――だ、駄目です!そんな質問をしたら、兄さまがあの女に殺されてもおかしくありません!シーリ、アーデン伯爵令嬢は、失踪して、行方知れずになっています。いまだ有力な手掛かりは、見つかっていません!」
俺以外が名を呼ぶなと睨みつければ、青い顔の男はアーデン伯爵令嬢、と言い直した。
失踪。行方知れず。こんなにも顔が見ないのであればそうだろう、と思っていた言葉が、言葉になって現実味を帯びる。
どこに行ってしまったのか。あまり、遠くではないといいのだが。
立ち尽くす弟を置いて、来た道を戻る。通りすがる生徒たちは怯えと、わずかに憐れみを込めた瞳で、ヴェルシオを見ていた。
彼女が居なくなってから何かがおかしくて、ずっと何かが足りない。
いつのまにかに夕陽は落ちて、窓硝子には、ぞっとするような顔の男が映っていた。一切の表情が抜け落ちたなかで目玉だけがぎらぎらとした、狂人めいたその顔は、紛れもなく自分のものだった。
狂ってなどいない。ヴェルシオと名を呼ぶ彼女を、揺れる髪を覚えている。
ちゃんと探すから、なにをしてでも見つけるから。
その時はもう一度、名前を呼んで、笑いかけてほしい。
∮
アーデン伯爵家は外国と流通を多く行っている領で、王都にタウン・ハウスがある。
少しでも手がかりになれば、と赴いた先には伯爵家当主とその妻や息子がいて、シーリアの名を出した瞬間にヴェルシオの頬をぶん殴ったのは、息子らしい、茶髪の年上の青年だった。
ケヴィン!と血相を変えて妻らしき、おなじ指輪をした女が、ふるえる肩を押しとどめる。
じんじんと頬が、鈍く痛む。
何処かで読んだ言い回しを使うなら、ヴェルシオは親にも殴られたことはなかった。出来損ないの王太子の予備に興味のない国王は、そんな無駄なことはしない。
突然向けられた暴力には、少しばかり驚いた。たやすく止められるそれをまともに食らったのは、握った拳を解かない彼があまりにも、憎悪と悲しみに染まった顔をしていたからだ。
ケヴィンという名は、彼女の兄のものだ。彼は、シーリアの兄だ。
ヴェルシオの、義兄になる人間だ。
「よくも……よくも俺達の前に顔を出せたな!お前のせいで、シーリアは!」
「まって、やめてケヴィン!彼はこの国の王子よ!」
隣のおなじ指輪の女は、子爵家の令嬢だった女だ。そう遠くない昔、2人の結婚式に参列した。アーデン伯爵家の屋敷の、飾り付けられた庭園。花祭りにだって負けない賑やかさの中で、花を降らせて彼らの結婚は喜ばれていた。
そうだ、また忘れていた。当主と思っていたシーリアの父はもう息子に家督を譲っていて、よくシーリアに付いていたメリーこそいないものの、タウン・ハウスにいる使用人たちも、見知った顔ばかりだ。
その誰からも、ひどく不可解な顔をされているけれども。
「…………帰ってちょうだい」
ひどく、感情を押し殺した声だった。シーリアに似た、けれど低いそれは、沈黙を守っていた前当主の夫人からかけられたものだ。
腕を掴まれ、玄関まで引かれる。簡単に振りほどけたけれど、シーリアの母親と思えば、手荒な真似ははばかられる。部屋を出る寸前まで、壮年の灰色の髪をした彼女の父親は、1度もヴェルシオを見なかった。
外はもう、星明かりも分からないほど、暗くなっていた。
やっと腕を離した女はケヴィンの結婚式で顔を合わせた時よりもずっとやつれて、10数年も年を取ったように、目元には暗い中でもはっきりと皺が寄っていた。
「待ってくれ、俺はただ、シーリアに―――」
「あの子について、私たちからあなたに話すことは、何1つありませんわ。これ以上1つだって、あなたに差し出せるものも。息子があなたを殴った咎を受けろというなら、主人と私が裁かれましょう。爵位を捨て、領を国に返します。私たちの首を刎ねるというなら、そうしなさい」
「違う。そんなことの為に、ここに来たんじゃない」
殴られたのはどうでもいい。ただ彼女に会いたいだけで、どこにいるか、知りたいだけなのに。
押し殺した無表情は、貴族らしいものだった。髪色こそ茶色と違うけれど、シーリアの仕草や容姿は、彼女によく似ている。明るくて穏やかで、けれど今その指先は、強く握りすぎて、白く染まっていた。
「この家は引き払います。だからもう、2度と来ないで。……次にあなたの顔を見たら、私も、何をするか分からないわ」
重苦しい音とともに、扉は閉められた。