決別
「何が目的なんだ。何のために、マーヤを傷つけようとする?」
騒音や衝撃にも十分な対策が取られた馬車は、学園街も抜けた先の畑も超えて、滑らかに進んでいく。
女は馬車の下手、向かいに座ったまま、ヴェルシオに話しかけようとはしなかった。いつまでもどうしてここにいるのか、という顔をしていたので、本来の要件をやっと伝える。
マーヤの分をよこせ、というと、小さくため息をついた。
「ありますし、渡しましたよ。彼女は私が女の子たちの招待状を届けてもその場で破っていたので、それに紛れて破いたのでは?」
「マーヤはそんなことは……」
しない、とは言い切れなかった。それでも彼女が言っていたことを、思い出す。
「紛失は仕方がないだろう。なくしたなら、お前は新しい物を用意するべきだった。新しい物がないなら、お前の分をよこせと、そういっていた。寄越せ」
「無茶苦茶だな……」
馬車が着いたら返してくださいね、とあきらめたように彼女は胸ポケットから紙切れを差し出した。
嫌々というのが明らかに伝わったが構わない。これでマーヤの願いは叶えたのだから、あとはヴェルシオの時間になる。
季節の割に暖かい日だったが、触れた彼女の指先は、ひどく冷えていた。彼女は言葉を選ぶように、ヴェルシオの手元を眺めていた。
何を話そうか。そう悩む間にも10秒近く沈黙が続いて、彼女が先に、口を開いた。
「……ある、王子様の話をしましょうか。あなたとは何の関係もない、大国の王子様の話です」
伏せた灰色が、酷くゆっくりと、ヴェルシオを見た。
その瞳はなぜか、泣いているように思えた。
彼はとても優秀で、誰もが虜になるほどに、容姿も優れていました。周囲に彼を賞賛する人間は少なかったけれど、そんなことで彼の価値が損なわれることは、決してなかった。
彼は多くを持っていて、けれど持っていないものも多くありました。望んだすべてが手に入らないのは当然だけれど、それでも彼なら、彼ほどの人間なら、もっと恵まれているべきだった。
恵まれていて、欲しかったんです。
「……なんの話をしている?」
「さあ。なんでしょうね。……なんだったんでしょうね」
くちびるの片側だけ上げた、不器用な笑い方だった。こんな顔は、今まで見たことがなかった。
いっそ恐ろしさすら感じるほどに淡々とした口調で、彼女は言葉を続ける。
彼には腹違いの弟がいて、王太子である弟の母親、その国の正妃様は1人息子を溺愛していました。
彼女は息子の為になにもかもを揃えて、それよりも価値のないものを彼に与えました。
宝石のついていない服、街でも買えるような紅茶。彼が風邪をひいて寝込んでいても、看病をする使用人もいません。弟が可愛らしく優秀な少女と婚約したときも、彼にあてがわれたのは、平々凡々な、つまらない人間でした。
歌うように、言葉は続く。
正妃様はアクセサリーを揃えるように息子に最高の婚約者を用意しましたが、その婚約者、公爵家の少女は周囲が思うよりずっと聡明で、何もかもが優れていました。彼女がそれを示すほど、周囲が少女を称賛するほどに、息子こそ1番と信じる正妃様は、彼女のことが気に食わなくなりました。
そんな時、正妃様の家に女の子が生まれます。正妃様にとって又姪にあたるその赤子は、生まれたばかりですが、目も髪の色も、正妃様によく似ていました。
この子を息子の妻に。
彼女はそう考えるようになりました。それが正妃の座の執着だったのか、息子への愛情だったのか。
それは、分かりません。
2人きりとわずかに高揚していた気持ちは、欠片も残っていなかった。
喉が痛むほど乾いて、心臓が、嫌に脈打った。
一年程前、正妃にとって又姪にあたる女児が生まれたことを知っていた。
赤髪の少女を、どうにか婚約者の位置から引きずり下ろしたい。それは彼女の権力を持ってしても、簡単なことではありませんでした。
少女は公爵家という身分を持ち、そのころにはその優秀さは、国内外にも知れ渡るほどだったからです。
なによりも明朗な息子と真面目なその少女は、なかなか上手く、関係を結べていました。このままいけば、あと数年で彼らは王と王妃になる。正妃様以外の皆がそれを疑わず、幸福な未来を願っていました。
そこで彼女が探したのは、とっておきの魅了魔法を使える人間です。
このまま無理に少女と息子を引きはなしても、息子は反発するでしょう。まずは魔法で息子から少女への想いを奪い去って、そうして望む方向に誘導しようと考えたのです。
それが息子の幸福と、信じていたから。
やがて見つけたのは、外国で生まれ育ったピンクの髪の少女で、正妃様は彼女を手駒の家の養女とし、息子が通う学園に入学させました。
その名を、マーヤと言います。彼女はとても可愛らしい容姿と異性を魅了する声を持ち、瞬く間に学園中の生徒を誘惑し、虜にしました。
彼女の魅了は魔法の探知にも魔族の探知にも引っかかることはなく、対応は後手に回りました。気がついた頃には、学園の殆どの男子生徒が、彼女に焦がれるようになっていました。
その少女は人間と魔族……ハーピーの、混血だったからです。
震えるほど強く、白い拳は握り込まれていた。
何の関係もない、大国の王子様の話?そんなはずがない。俺に関係がないわけがない。
けれど、そうだとしたら、俺は。
その国では王族は血筋ゆえのギフトをいくつも持っていて、そのうちの1つが魅了への耐性でした。
魅了魔法も、魔族の魅了も、王族を狂わせることはありません。けれど魅了魔法でも、魔族の魅了でもないマーヤの魅了は、彼らに有効なものでした。
正妃様の息子はすっかり少女に焦がれて、赤髪の婚約者を蔑ろにして……まるで、坂道を転がり落ちるかのようでした。
違う。
「…………やめろ」
聞こえていただろうに、彼女は、言葉を止めなかった。
彼女の魅了は強力でしたが、もちろん掛かり易さには個人差がありました。それは彼女とどれだけ関わっていたかであったり、彼女の意思であったり、……対象の耐性や、想う相手がいたかにもよるのでしょう。
本来の目標であった王太子とその友人たちが、彼女の1番のお気に入りでした。念入りに重ね掛けして、もはや学園の中ではどうしようもないほどに、魅了は強固なものになっていました。
聞きたくない。けれどこの空間は、彼女は、現実だ。
「お前が、いまマリット男爵領に向かっているのは―――」
やっと、言葉に返事があった。
「正妃様は書類を偽造し、学園に圧力を掛けて無理を通しましたが、本来魔族の血が混ざった者の入学を、由緒正しい学園は許していません。マーヤがハーピーの子である証拠と、魅了を解く手がかりを得て、正妃様とその実家、ラフィンツェ公爵家の望みを滅茶苦茶にしてやりたい。そう、考えています」
あなたがいるのは、本当に予想外でしたが。
うすくつくられた笑みは、どこまでも貴族らしかった。
違う。
俺は。
真実であると、とっくに分かっていた。それなのに、うそだと言葉は溢れていた。
「……荒唐無稽だ。そんな筈がない、おまえの言うことなど信用出来ない。何よりも、それを俺に言って、お前は何をしたい?」
腑に落ちてしまった自分が許せなかった。違う。裏切ってなどいない。
マーヤに微笑みかけた。彼女を侮辱する言葉に頷いた。あれだけ彼女を貶すすべてを憎んでいたのに、おなじものになっていた。違う。俺の感情はその程度の軽薄なものではない。真実である筈がない。そうだとしたら、この3ヶ月、俺は。
割れるように頭が痛んだ。
ぐらぐらと歪む視界の中、彼女の表情は分からなかった。
お前は、俺の婚約者は。だれだ。
「なら、あなたの―――」
言葉は、続かなかった。
ガダ、と馬車が大きく揺れたからだ。
ガラガラと鉄の車輪が回る音と、土くれや小石だらけの道を走る故の僅かな振動。話し出すまでにも相当な沈黙があったから、いつのまにか馬車が崖道を通っていたことに、全く気が付かなかった。
けれど、魔導馬車は崖道程度で乗客に振動を伝えるような、その程度のものではない。
つまり、明らかな異常事態だ。
磨き抜かれた硝子窓の外は、灰を煮詰めたような曇天だった。土砂降り寸前のようにぐらぐらと空は揺れて、霧雨で遠くは見えない。
魔法仕掛けの馬の蹄音も、車体越しでは遠い。その中で防音魔法を越えて、また轟音が響いた。
「は―――」
「伏せて下さい、………襲撃です!」
ヴェルシオを追って窓の外を確認したシーリアが、鋭い声で叫んだ。
ここ数十年戦争も内乱も無い、この国で?
平和ボケしている、と言われればそうなのだろう。それでも信じ難い気持ちで窓の外を睨みつけて、言う通り行く先を塞ぐように黒いローブの数人の人間が立ち塞がっているのを確認する。
奴らもヴェルシオを確認したのか、窓目掛けて魔法が放たれる。障壁の軋む音とともに、馬車の魔法によってそれは弾かれた。
驚愕の中で、それでも放たれた魔法の実力を測れる程度には冷静だった。
魔法を放った男は、周囲より飾りの多いローブを身につけている。首領というところだろうか。他の奴らの纏った魔力も大したものではない。
随分とみくびられたものだ。これなら、この程度なら、俺が負けることはない。
5分もせずに片付けて、そうしてちゃんと、彼女と話さないといけない。
「お前こそ伏せろ、何もしなくて良い!」
ヴェルシオの言葉に、何かを言いかけていた彼女の唇が止まった。
「……はは。ねぇ、殿下。貴方の、好きな本は?」
「は?今はそんなことを言っている場合じゃ」
ないだろう、と言葉は続かなかった。
あまりにも彼女が、傷ついた顔をしていたから。
「……ディリティリオの、毒花シリーズ」
図書室のソファが置かれた片隅の、1番手に取りやすい段にあった、五十年も昔に死んだ小説家の作品。
ぎゅうと、何かを堪えるように灰色の瞳が閉ざされた。もう一度瞳が開かれてから、シーリアは薄い唇で、笑った。
その全てが、ひどくゆっくりと目に映った。
「よかった。……お手を、取って頂けますか?」
足音も無かった。1歩身を乗り出した彼女は、ヴェルシオの制服の胸ポケットに、なにかを挿した。
指で追いかけて、万年筆と気付く。濃い藍色の軸は、先月学園街の文房具店で適当に選んだ、廉価な量産品だった。
気まぐれに訪れた街で、気まぐれに文具店の前を通って、たまたま目についたそれ。自分のものにする気も起きなくて、送り主を空欄にしたまま彼女の宛名を書いたのは、ほとんど無意識だった。けれど確かに、これを彼女に贈ったのだ。
突き返された。拒絶された。認識して、思わず差し出しかけた手を止めた。
口を開く前に、頬に冷たい手が触れる。
彼女のこんな顔も、初めて見た。
諦めたような、解放されたような、失望のような、安堵のような、おだやかな笑みを。
さようなら、といいすらしなかった。
さいごに、笑っていた気がする。
彼女が言おうとしていたことを知ったのは、ずっと、ずっとあとの、何もかも終わってからだった。
転移魔法が発動する。
魔力のなる音。懐かしい気配に瞳を細めた。
この魔力を知っていた。だから大丈夫だ、と考えた。
彼女の転移は、2人まで飛ばせる。安全な場所に移動して騎士や自警団に対応させても、体制を立て直して俺が戦っても良い。あの程度に、王家の人間は負けない。
懐かしい魔力だった。愛おしい、とすら思った。
ずっと、待ち望んでいたのだ。
雨が降っていた。髪を濡らして、頬を水滴が伝う。
瞳を開けて。
そこに、シーリアは居なかった。
学園街の、端にいた。
1人逃されたのだと気付くのに数分を要す。
魔導馬車は魔法の攻撃に軋んでいた。彼女に、戦う能力はない。
思考が至った瞬間、ぞっとするほど頭が冷えた。
まさか1人で、彼処に残ったのか? 襲撃者が命を狙う、あの崖道に、たった1人で。
そんなはずはない。そんなことになったら、彼女は。
ありえない。ありえない。そうだ、別のところに転移しただけだろう。
ヴェルシオと共にいたくなかっただけ、だから今は別の、安全な場所にいる筈だ。学園かもしれない。そうおもうのに心臓は嫌に跳ねて、足はぴくりとも動かなかった。けれどもし、彼女が居なかったら。
どこに行けば良いのか。学園か、あの崖道か。分からない。手を引いて欲しかった。白い指先が恋しかった。
「……………シーリア?」
呼んだことのないはずの名前は、やけに唇に馴染んだ。
ぽつぽつと雨が降る。軒先を探すことすらできずに、頬に生温い雫が落ちる。
目が熱くて、何故か泣いている、とやっと気付いた。馬車は軋んでいた。間に合わない。転移を持たないヴェルシオでは、どれだけはやくあの場所に向かったとしても、絶対に。
彼女に魔力が残っていて、どこか別の場所に逃れたなら。そう考えようとして、違うと誰かの声がする。
他人1人飛ばして、自分は残る転移が、彼女は苦手だった。そんなこと、とっくの昔に知っていたのにうるさい黙れお前はだれだ。
あれは、俺は。
失ってはいけないものを喪ったと、それだけは分かった。
頬の雫をぬぐう誰かが、彼女が現れる事はなかった。
いくら待っても、彼女が学園に戻ることも、なかった。