役柄
魔力の消費は大きいものの誰も立ち入れなくなること、ヴェルシオの意思で発動も解除も出来ること。
転移魔法で通り抜けることはできるのかなどをマーヤとオーランドがあきらめて帰った後に一通り試してから、2人でいるときにだけ発動させるのがよさそうだ、という結論に落ち着いた。
夕を超えて空が薄暗くなってから、やっと寮への帰路をたどる。
こんなに長く話したのも、じゃれるように触れ合うのも久しぶりだった。
ずっとこんな日が続けばいいと思いながら、女子寮の前でつないだ手を放す。シーリアも名残惜しそうな表情をしていて、いっそ口付けでもしてやろうかと思ったけれど、寮監が睨んでいたのでやめた。
帰り道、どさくさに紛れて触れた頬の柔らかさを思い出す。まだ彼女とキスをしたことがないけれど、あの色の薄い唇はどんな味がするだろうな、と考えた。
ここまできたら結婚式までお預けでもかまわないが、触れたいと何度も思った。最近は話すことも少なくなっているのだから、忍耐に対する報酬が欲しい。
マーヤの事が全部終わってからだな、と結論付けながら、自室のベッドに寝転がる。
さっさとあの女が居なくなって、オーランドが王になってくれないととても困る。あいつが醜聞のあまり王位継承権を剝奪されたとしても、王になる気はさらさらないので。
はやくどうにかなってほしい。そのためなら、ある程度のことはしてやろう。
触れた体温や感触ばかり思い返しながら、そう考えていた。
とっとと解決してほしい。
そんな期待は、また裏切られた。
「デイジー・オランナ伯爵令嬢!もう僕は真実の愛に逆らえない、君との婚約は破棄させてもらう!」
白昼の食堂の隣のカフェテラスで起こったその光景に、これで今月3度目だなとため息をついた。
先程まで楽しく歓談していたシーリアは、持っていたカトラリーを置いて、もうヴェルシオに視線を向けることもない。
あれから更に女子とばかり関わる時間が増えて、久しぶりに2人きりのランチの時間だったのに。シーリアが胸ポケットに入れていた紙切れのようなものに魔力を込めるから、より機嫌は悪くなる。
「全部君が悪いんだ。あんなに可愛いマーヤを邪険にするなんて、ほとほと愛想が尽きた。僕のラヴレント侯爵家なら、君の家なんてどうだって出来るということを忘れてしまうなんて、君はなんて愚かなんだ!」
「―――こんな所で、随分と楽しそうな話をしているね?」
オレンジの巻毛の令嬢は、婚約者であったらしい男の言葉にショックを受けたのか、口を開くこともない。沈黙を良いように受け取ったのか、実家の権力を持ち出した男の言葉に口を挟んだのは、予想通り、ヴェルシオの婚約者だった。
「シ、シーリア・アーデン伯爵令嬢。ただの伯爵家の人間が、君には関係のないことだろう!僕はいまデイジーと話して、元婚約者として正しい振る舞いを、マーヤに謝罪をさせてやろうと思っているんだ!」
これでもかつては婚約していたんだからうんぬんかんぬん。一瞬口を止めた男は、シーリアを伯爵家の令嬢として見ているのか、居丈高な態度を崩さない。
安っぽい茶髪は、そういえば確かに昔このオレンジ巻毛の少女とよく話していて、いまはピンクの女に物欲しげな眼を向けていたな、と思い出した。
「関係ないと言うなら、人の多い此処で話すべきではないと思わない?それにオランナ伯爵家をどうだって出来る、というのは流石に聞き逃せないからね。それに、マーヤに謝罪だっけ。謝罪というのは悪いことをした時にするものだと思うけれど、デイジーが、あのお嬢さんに何をしたというの?」
「決まっている、マーヤを邪険にしたことだ!嫉妬から彼女を除け者にし、可哀想なマーヤはアメリアの花を愛でる会に参加出来なかったんだ、デイジーが招待状を送らなかったせいで!何よりいつもいつも、マーヤは女子達の輪に加われていないだろう!」
それは男どもに群がられているからだろう。四六時中男どもに囲まれて、面倒くさい嫉妬やら奪い合いやらワタシノタメニアラソワナイデーが繰り広げられる中に、口を出したい奴などいない。
ぐん、と周囲の温度が下がったのを感じる。特にこちらに注目していた女子から、絶対零度の視線が向く。
衆目の中で、婚約者は口角を上げた。わずかに首をかしげたことで、灰色の髪が揺れる。
「面白いことをいうね、マーヤが邪険にされている、なんて。デイジーはちゃんと、アメリアの会の招待状を、あの子にも送ったのに!」
うつむく女生徒を背に庇って、騎士のように悠然と、裁判官のように冷静に。どこか芝居がかった仕草で、シーリアは男に相対する。
彼女を役者、これを劇とするならば、茶髪の男の役柄は、道化か愚者だ。
「そんなわけがない!デイジーはマーヤに嫉妬していたんだ、醜い嫌がらせをしているに決まっている!嘘で庇おうったってそうはいかないからな、招待したところを見たとでもいうのか!?」
「見たよ。先々週水曜日の18時半、女子寮でアメリアの会の招待状を手渡している。……届けたのは私だからね。招待はして、行かなかったのは彼女の選択だ。受け取りのサインを見る?」
ひらり、と取り出された手帳の、1ページが開かれる。
「最近学園が賑やかだからね。誰が誰を嫌った嫌ってない除け者にしたなんて、数えるのも面倒だし、ひとつひとつ学級会を開くわけにもいかないでしょ?マリット男爵令嬢は少し前まで平民で貴族の生活には慣れてないから、あまり集団で関わるのも申し訳ないと思って。何かあるときは、私が窓口になることにしたんだ」
身分が高い生徒が窓口代わりの使用人を学園に連れてくるのは前例があるし、それを私が務めているだけだよ。伯爵家と身分も近いし、これでもこの国の王子の婚約者だからね。円滑で楽しい学園生活の為に、やれることはやるべきだ。そう思わない?
うっすら浮かべた笑みに、こんな顔もできたのかと思った。家族やヴェルシオに向ける気安さとも、友人や女生徒に向ける親し気とも違う、他人に向ける、貴族らしい顔。
「マリット男爵令嬢とデイジーは学年もクラスも違う、ろくにかかわることの無い関係だけれど、ちゃんとお茶会を催すときは招待していた。まさか特別親しげに、君がそうしているように彼女に侍らなかったことが悪だ、なんて言わないでしょう?そんなことを言い出すなら、君はこの学園の女生徒全員を断罪しなくちゃいけなくなる。……ラヴレント侯爵家は、明日から大忙しになるね」
あの茶髪男の家はそれなりに大きいはずだが、この学園に在籍する生徒の半分を敵に回すならば、文字通り一溜まりもないだろう。そんな真似を男の親である侯爵が許すはずもないし、無茶を通そうとするなら自主退学から自宅に軟禁が関の山だ。
オランナ伯爵家を脅すために出した家名が、自分の首を絞めていることに気付いたのだろう。男の顔色が変わる。
「う、うるさい!お前には関係ない話だろう!それにデイジーが嫌がらせをしていようがいまいが、婚約破棄することは変わらないんだ、僕はマーヤを守ってみせる!」
「……そう。ならこれは、デイジーの非は一切ない、君の都合の、君の有責の婚約破棄だ。ほかの女の子に惚れ込んだ君が、一方的に彼女を捨てるんだ。それでいいね?」
「そ、それは」
「―――ふふ、本当に愉快なお話ですわね、お姉さま」
猫の鳴き声に似た甘えたな声に、ついに来たか、と眉をしかめる。
校舎から堂々と現れたその少女は、気高さと気品をまとって、長く波打つ赤髪は風に揺れていた。大体平均身長のシーリアより頭半分低いがそれを感じさせない存在感、この場の誰より美しい所作。
赤かったり青かったりした男の顔は、遂に真っ白に染まった。
「ロ、ロザリンデ・エヴァンズ公爵令嬢……」
「早かったね。今、ちょうどこの青年が、愛する人がいるからって婚約破棄をしたところだよ。デイジーを捨ててでも、どうしてもその子と結ばれたいんだって」
「あら、そうなのですか、お姉さま。……けれど確か、ラヴレント侯爵家とオランナ伯爵家の婚約は、交易品の流通のための、政略的なものでしょう?オランナ伯爵家は折角素晴らしい魔法石の鉱脈があるのに、この婚約が破談になったら取引先を失ってしまうわね。そうだわ!エヴァンズ公爵家が、オランナの魔法石を買い取りましょう。丁度お兄様が魔法石を動力とした、大規模魔導機関の研究を進めているの。そうじゃなくたって、あれだけ質のいい魔法石ならいくらでも需要があるわ!」
「そうなんだ。流石詳しいね、ロザリーは」
「お姉さまは、ちょっと興味がなさすぎよ。その気になれば政治でも経営でも、お姉さまほど向いている人はいないのに」
マーヤをピンクのコスモスやヒナゲシなどの地に咲く花とするなら、くすくすと笑みを浮かべながら周りを圧倒するロザリンデは、まさしく大輪の赤薔薇だった。冤罪でも伯爵家に責任を持たせて婚約を破棄出来たら爵位の差で今後などどうにでもできただろうに、はるか上のエヴァンズ公爵家から魔法石の契約を搔っ攫われた男は、もはや泡を吹いて倒れそうな顔をしていた。
「ま、待ってくれ、僕は」
「買いかぶりすぎだよ。……さて、デイジー。今君はそこにいる彼から婚約を破棄されてしまったわけだけれど、どうしたい?君が何を選択しようと、君の家が不利益を被ることはないって、それだけは約束する。私の言葉じゃ頼りないかもしれないけれど、それはロザリーと、彼女の今までを信じてほしいな。……受け入れるのも、拒否するのも、どちらでもいいんだ。君がどうしたいかが、1番大事だから」
それとも、もう少し考える?急には決められないよね。
……大切にしてたもんね。
背に庇う少女に語り掛けたシーリアは、茶髪男と相対していた時と違って、穏やかな顔と声をしていた。その指先が少女の頭を撫でるように髪飾りに触れた時、若草の瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
「デ、デイジー、僕は」
「…………いいえ。婚約破棄を受け入れます。さっき彼は、ビルは、マーヤに嫉妬して、醜い嫌がらせをしているに決まっていると、私に言いました。私がそんなことをすると、そんな人間だと思っているんです。そんな彼と結婚することは、私にはできません。……父に手紙を書きます。婚約破棄されたことと、エヴァンズ公爵家から、声を掛けていただいたことを。きっと悲しむでしょうが、取引については喜んでくださるはずだわ。
―――さようなら、ビル。心から、お慕いしていました」
震える手が、自らの髪から若草の飾りを外す。あっけなく地面に落ちたそれに、男はなぜか、今までで一番ひどい顔をした。
ぽろぽろと涙を止めることはできず、それでも最後のカーテシーをしてみせた少女の背を、ずっと、シーリアは支えていた。
少女が顔を上げて、しんと静まり返った空気の中で、1番初めに動いたのも彼女だった。
「どいてくれるかな。……見世物じゃないよ」
校舎の入り口を塞ぐようにたむろっていた男子生徒を言葉1つで退かせて、少女を連れて人のいない所を探す背を、ロザリンデが追う。
いくばくの後、いつまでも微動だにしない茶髪男を置いて、やっと生徒たちは昼食の時間を再開した。
ビル・ラヴレント侯爵令息とデイジー・オランナ伯爵令嬢の婚約は、そんな顛末で、終わりを迎えた。