予兆
その違和感を覚えたのは、ふとした瞬間だった。
シーリアが物思いに沈むことが増えた気がするとか、週に5回はヴェルシオに突撃してくるはずの弟が、なかなか来ないとか。
訪れたとしても今までは鍛錬や遠駆けや狩りへの誘いだったのが、街への買い物など、活動的なものではなくなった。
そうしてある日、会わせたい人がいるのです、と言われた。
「マリット男爵家の者なのですが、なかなかに見どころのある娘なんです。俺が兄様の事を話したら、ぜひ話してみたいと言っていて。今度街で彼女のダンスの練習用のドレスを買おうと思うのですが、一緒にいかがですか?」
マリット男爵家は豊かな家ではないので、身の回りの物を揃えてやりたいんです。
弟が平然とそんなことを言うから、面食らった。
「お前、ロザ……」
「はい?」
ロザリンデはどうした、と言いかけて口をつぐむ。
こいつとロザリンデの間に恋愛感情があるのかは知ったことではないが、政略的だろうと、2人はれっきとした婚約関係にある。身分だけならオーランドの方が上だとしても好き勝手していいわけではないし、何より二人は、強気で優秀な令嬢と能天気で活発な王太子として、それなりにうまくやっていたはずだ。
放課後の教室だった。授業終わりを狙って弟が訪れるのも、この後の予定を聞かれてあわよくばを狙われるのも、初めてではない。言葉以外の弟の様子に、不自然なところもない。
いかに社交的なオーランドとはいえ、婚約者がいながら同級生の少女にドレスを贈るのは、王太子として褒められる行いではない。それがわからないほど、試験で常に次席をキープするこいつは、愚かだったのだろうか。
王家の影や護衛は何をやっているのか。しかもつらつらとその娘とどこに行ったかなどを語る中で、ジャックがこの間ピンクダイヤのブローチを贈ったのでそれに合うドレスを買いたい、と抜かすから、こいつだけではないのか、とより頭が痛くなった。ジャックは騎士団長の長男で、こいつの友の1人だ。
「断る。……その女と会う気も、話す気もない。それに誘うなら、もう俺に話しかけるな」
この弟の兄として、王家の人間として正しく振る舞うなら、その女について詳しく聞いたり、諫めるべきだったのだろう。けれど生来の潔癖がこいつとは話にならないと判断して、口は普段より冷めた拒絶を吐いた。
固まる弟を置いて、放課後の教室を出ていく。
ロザリンデはこのことを知っているのだろうか、せめてそれくらいは問うておくべきだ。そうして痴情のもつれに口を出すならば、本人に直接ではなく、事情を知っていそうな第三者に聞いておくべきと、馴染んだ灰色を思い返した。
§
「もちろん知っているよ。むしろ君がいままで気付いていなかったことに、非常に驚いている。学園中の噂だよ?最初に話になったのは、ジャックだったかな。
マーヤ……あのお嬢さんが廊下にばらまいた書類を一緒に拾ってから仲良くなって、オーランド達に紹介したのが1か月くらい前。みんな彼女を気に入って、偏光魔法や新しい魔法の習得のために使われていた時間は貴族社会に慣れていない少女のエスコートに代わった。みんなマーヤに恋しているとは言わないけど、ジャックとかは明らかに友愛以上の目で、あの子を見てる。……彼にも、婚約者がいるんだけどね」
じゃなきゃ平民の家なら買えるくらいの宝石を、渡したりしないでしょう?マーヤの家とかについても知りたい?実子じゃなくて養女だから母親は分からなくて、遠縁の娘ってことになっているけど父親には全然似てないとか。孤児院で生まれ育ったらしいけどなにか怪しい、とか。
図書室のソファに座って、顎に指をあてながら婚約者は教えてくれた。
「……どうしてそこまで知っているんだ」
「あの女は何者の誰って、女子総出でいま調べてるからね。あの子たちの話を聞いてれば、自然と耳に入ってくるよ」
「女の情報網は怖いな」
「それはちょっと思った。私は聞いているだけだから、ロザリーはもっと詳しいよ」
ロザリンデの名を聞いて、本棚に添わせていた背を凭せ掛けた。
「なら、その女をロザリンデが処分して終わりか?」
あの攻撃性が服を着て歩いているような公爵令嬢なら、唯の男爵家の令嬢など家の力で簡単に叩き潰せるだろう。なら何もしなくていいな、と完結しかけた思考は、落ち着いた声に引き戻された。
「……どうだろうね」
「得体が知れずともただの女なら、どうにでも出来るだろう」
学園に通えなくなればいいなら暴漢に襲わせるとか、毒を盛るとか。婚約者の手前、具体的な方法は言葉にはしなかったけれど、ヴェルシオが考え付くことを、ロザリンデが思い浮かべないはずがない。
貴族は綺麗なものではない。探りを入れられるほど反感を買っている身分の低い娘が相手なら、なおの事。
「ロザリーはそんな子じゃないよ。学園の女子がマーヤを傷つけることもない。……させないよ」
嫌でしょ、そういうことになるの。楽しい筈の学生生活なのにいじめや嫌がらせをしたって、そんな事実や記憶をあの子たちに残したくない。
背筋を伸ばして、シーリアはヴェルシオを見上げた。瞳に深い覚悟と意志を乗せた、明確な宣言だった。
そうしてそれは、可能なのだろう。女生徒のトップはロザリンデだが、身分の高さや傲慢さ以上にシーリアによく懐いている。性質が悪い生徒相手でも品位を保て、と宣言して彼女自身もそうふるまうなら、マーヤにあからさまな排斥は起こらない。
年下のくせに、と最上位の新入生に反感をもつ生徒は、息をするように人に寄り添える彼女がカバーできる。
それにしても、この婚約者は。
最近の彼女は、教室に迎えに行った時も女子生徒と何か話していることが多かった。朝も小さくあくびをしたり目をしばたかせていたが、ヴェルシオの居ないところや寮で、彼女たちの悩みや不満を聞いたり、忙しくしていたのだろう。
得体のしれない女にも、そいつにうつつを抜かす男どもに憤ることなく、学園の平和とか、青春とか、そんな目に見えないものを守ろうとしている。
それはロザリンデにない献身で、何もかもが賛美される完璧令嬢にだって出来ないことだ。
そうしてこの善性が、何よりもロザリンデを惹きつけているものなのだろう。
善い人間の傍にいて大事にされると、自分もまともなものになった気になる。こんな存在に可愛がられたら、甘えて、なついて、頼りたくなる。
同族嫌悪を覚えるほど、誰よりもよく分かる事だった。
だからこそ、やはりこの婚約者には、貴族社会は向いていない。
シーリアがしていることは、あまりにもきれいごとだ。謀略渦巻く社会の練習台でもあるこの学園で、善いものであろうなど。型落ちのドレスも嫌な顔せず着れてしまうのだから、いつかこの善性が彼女自身を追い詰めないかが心配になる。
早く卒業したい。こんな生き物は国の片隅で、石鹸玉で遊ぶ子供を眺めながらジュースを飲んでいるのがお似合いだ。
「……無理はするなよ」
「私は何もしてないよ。ロザリーが心配だから、傍にはいたいと思うけどね」
自分の振る舞いが国の評判になるからって気丈に振舞っているだけで、やっぱりオーランドのことは傷ついているから。
だからごめんね、今までより、ここに来られる回数が減るかもしれない。
かまわないから夜更かしせずにちゃんと寝ろ、と色の薄い目元を撫でる。繊細な皮膚はわずかに細まって、ありがとう、とうすい唇が動いた。
§
すぐに解決するものだと思っていた。
「お、見ろよあそこ、マーヤだ!今日も可愛いよなあ」
「ほんとだ。殿下と、いつもの面子と一緒か?俺も混ざりたいなあ」
脂下がった顔で窓の外を眺める連中をひと睨みしてから、慣れた足取りで図書室へ向かう。
あいつらの視線の先、中庭のガーデンテーブルでは、ピンク髪の少女が弟やその仲間たちと楽しくお茶会をしているのだろう。そう考えると、魔法で窓から水魔法で大雨を降らせてやりたいような、情けないような気持ちになる。
マーヤ・マリット男爵令嬢は、ピンクブロンドの愛嬌のある顔立ちの少女だった。
あの日から数週間後に遠目から見ただけだが、ロザリンデより明らかに下の容姿で、成績が良いわけでも、特別優れたなにかがあるわけでもない。
それなのに何故か少女は学園の殆どの男を魅了して、今では常に、オーランドたちと行動するようになっていた。
ロザリンデや他の女子たちはそれについて、感心するほどの沈黙を保っている。
ヴェルシオにとっては知ったことではないが、女子には女子の空気感とかルールのようなものがあるらしい。それを越えるのは褒められた行いではなくて、排斥とか陰口の対象になっても仕方のないことらしいのに、マナーも貞淑さの欠片もなく男どもの視線を集めるマーヤに、突っかかる生徒は1人もいない。
マーヤを褒めたたえる男どもから、他の女と違ってマーヤは、など遠回しに侮辱されても、男どもと衝突を起こすこともなかった。
ただ男子同士、女子同士でちがう空気が流れている、と感じることが増えた。
元から身分ではっきりと扱いが分けられる貴族の学園だ。男子と女子の間にうっすらと不可視の境界線があって、それが一段と濃く、確かなものになっているといったところだろうか。
布が染まるように、大きな変化があったわけではない。
日常は日常のまま機能して、けれどシーリアが図書室を訪れる時間は、段々と減っていった。