嵐前
あと1年。たった1年で卒業なのか。
長かったような、一瞬だったような。
始業式のため、ぞろぞろとホールに列をなす新入生を図書室の窓から見下ろしながら考える。
挨拶を述べる予定の弟は既に式場だからいないのだろうが、黒や茶色に混じって某公爵令嬢の赤髪や、弟とよくつるんでいる高位貴族の顔ぶれが見える。ひとつの群れのように集団が蠢いて石造りの建物に吸い込まれる様をぼうと見下ろして、大半がいなくなった後でピンク髪の生徒が飛び込んでいく所まで見送る。
人間がいなくなった後は見上げた木の枝で、窓の外の小鳥のつがいが完成した巣の周りを跳ねながらじゃれているのを眺めていた。さんざん戯れてから青に黄色の差し色の入った色鮮やかな方の小鳥は、巣に戻った一回り小さい番の雌に、頭を擦り付けていた。
ソファの背もたれに身を預けようかと上半身を傾けた瞬間に、本棚の陰から、灰色の頭が顔を出した。
「あぁ、やっぱりここにいた。もうすぐ始業式だって知ってて堂々とさぼるね、君は」
「堂々と?ちゃんと人の居ない図書室の隅に隠れているだろ」
「たぶんいつものところだから呼んできてくれないか……?って申し訳なさそうに頼まれたよ、先生に」
生徒会長から歓迎の言葉を頼まれたのに断ったんだから、せめて出席はしようか、弟の入学式なんだから。そう笑みをすいて、シーリアは俺に手を差し出す。その掌に魔力を感じて、転移で会場近くまで飛ぶつもりだ、と悟る。
「ロザリンデの制服姿、私ももっとよく見たいし。窓から見えた?なんでも似合うよね、あの子は」
「そんなもの、これからいつでも見るだろ。……案外お前は、移動に転移を使わないよな」
「便利だからこそ、かなあ。あんまり頼ってそればっかりになって、普通に歩いていたら見つけていたものに気付き損ねるの、嫌だしね」
今みたいに遅刻ぎりぎり、みたいな状況ならもちろん使うけど。ほら行こう。
ぐい、と手を取って、馴染んだ魔法の気配。出会ってすぐのころは、シーリアがヴェルシオに転移を掛けるとき、かならずどこに飛んでもいいかと許可を求められた。
それは彼女の礼儀だったし、そうする事で転移を使いやすくする、儀式のようなものだった。
それが必要なくなったのはいつからで、彼女の魔力を覚えたのはいつからだっただろうか。
いつか、君を転移させるのはやりやすい、と言われたことがある。適正や高等魔法の研究は進んでいないことも多く、細かい原理は分からない。けれど長くともに居て、お互いがお互いに慣れて、そうなったのだろう。
10歳でシーリアに出会って、それから8年。来年には結婚して、再来年には彼女を知ってからの年数が、知らなかった年数に並ぶ。
口付けもしたことはないけれど、隣にいると、領地について2人でいい場所にしようと約束もした。
この生き物のためならば、ヴェルシオは何でもできるだろう。
楽しみで、待ち遠しかった。愛しい未来を信じて、疑っていなかった。
それが叶わないなんて、少しも考えていなかった。
彼女を、婚約者を、シーリアを失うなど、夢にも思っていなかったのだ。
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「兄さま!今日こそ俺と、一緒に鍛錬を行いましょう!」
「今日は忙しい。帰れ」
「そんな!昨日もお忙しかったじゃないですか!」
昨日どころか一昨日もその前も忙しかった。基本的にオーランドが鍛錬にヴェルシオを誘うときは、本を読んだり紅茶を淹れるのに忙しい。
「またお誘いしますから、今度こそ一緒に大規模偏光斬撃魔法の習得を目指しましょう!」
「なんだそれ。……いや、言わなくていい。今度は鍛錬以外で誘ってくれ」
もうちょっと落ち着いた集まりにでも。
聞いているのかいないのか分からない弟は、それじゃああいつらが待っているので、と蔓の彫られた扉を開けて、図書室を出て行く。
本棚に寄りかかってため息ひとつ。ソファのスペースに立ち入らなかったのは褒めてやるが、誘う回数が多すぎる。
そのまま棚の後ろに身体を向けると、予想通り、くつくつと、婚約者は灰色の髪を揺らして、忍び笑いを漏らしていた。
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尻尾をはちきれんばかりに振る犬さながらの弟の存在は今やすっかり学園の名物になって、教師も生徒も、誰もオーランドを諌めようとしない。
いつぞやの約束を叶えてやろうと思っていたが、流石に週に5回はペースが可笑しい。
「最初は毎日お誘いするぞ!って宣言してたよ。ロザリーと私で止めたけど」
「その調子で月に2回、場所は室内のみに減らしておいてくれ」
「絶対無理でしょ。自分の成長や大事な仲間たちを、クールでかっこいいお兄ちゃんに見てほしいって、ロザリーと話すときもそればっかりなんだから。私も大規模偏光斬撃魔法【エターナル・フラッシュ】は見てみたいし、ちょっと覚えてきてくれない?」
クールとかっこいいは意味が大体一緒か、とシーリアが肩を揺らして笑う。
想像の100倍呼び名がダサいし笑い事ではない。好奇心をくすぐられないといえば嘘になるが、どんなものか弟に聞こうものなら、「ヴァ――ッってなってグァッって感じです!」という理解不能なオノマトペとともに、騎士団長の息子やら国1番の商会の跡取り息子やら司教の息子やらの待つ鍛錬場に連れていかれるに違いない。見物だけならいいが、そんな得体の知れない魔法を覚えるのも開発するのも遠慮したい。
どいつもこいつも3年後には国の中核に立つのに、馬鹿ばかりしていていいのだろうかと、さっさと王家を離れたい身としては思うのだが。何の気兼ねも憂いもなくシーリアと引きこもりたいので。
「だからこそ、じゃない?これから国中にも他国にも注目されるような、息が詰まる生活にどうしてもなるから、短くも楽しい青き春を楽しんでいるんでしょ。馬鹿やるのが楽しい、友達とならもっと楽しいって。だからこそ、大好きなお兄ちゃんも呼ぶんじゃないかな」
同い年なのが疑わしいくらいの達観を籠めて、だから少しは弟に優しくしてもいいんじゃない?と言葉は続く。
ずっと昔から、彼女はこういう、何もかもを俯瞰する瞳をすることがあった。
自分の小ささを見透かされそうで、この目は、少し苦手だ。
「……お前は忙しそうだからな」
思ったより不満が声音に出て、シーリアが本のしおり代わりに使っていた招待状のカードが、ひらりと制服のスカートに落ちた。
ヴェルシオの言葉にまるで分からない、という顔をするから、それもまた不満だった。
穏やかで刺激的で、おおよそ素晴らしい青春の学園生活は、最高学年である3年になってから暗雲が立ち込めている。ヴェルシオよりずっとシーリアは忙しく、以前のように2人の時間が減っているという事実と、ある赤髪の邪知暴虐の公爵令嬢によって。
図書室の外で、強い魔力の気配がする。まっすぐこちらに近づいてくるのも分かって、大きくため息をついた。
ロザリンデ・エヴァンズ。
眉目秀麗、文武両道。魔法にも優れ、マナーや振る舞いは申し分ない。
次期王妃としての期待を一身に集め、それ以上の成果で応え続ける彼女は、国内外問わずアウギュステの赤薔薇と呼ばれているそうだ。棘だらけな所とかが、中々に的を射ているとも思う。
そんな2つ年下の少女は昔からひどく俺の婚約者を慕っていたけれど、学園に入ってからさらに、行動に拍車がかかっている。
「お姉さま!これから一緒に学園のお庭でお茶会はいかが?珍しい茶葉と、お姉さまが好きそうなお菓子が手に入ったんです!」
「今日は忙しい。帰れ」
「は?あなたは誘っていないわ、ヴェルシオ殿下。殿方はお呼びじゃありませんの、あなたこそ1人寂しくお散歩にでも行ったらいかが?」
「は?」
「うーん犬猫の仲」
予想通り現れたのは花のかんばせ。今日も現れた、隠す気もなく騒々しい魔力の持ち主は、ロザリンデだった。
オーランドは断れば退くからまだマシだ。この小娘は驚いたことに、ヴェルシオには関係ないと言いながら、ヴェルシオとシーリアの時間を奪おうとしてくるのである。
宰相の娘で王太子の婚約者、入学してそうそうに学園内で頂点に君臨したロザリンデは、次期王妃となる足場固めのために、サロンの開催や有力な貴族の開くお茶会の出席など、24時間忙しくしているらしい。
王になるオーランドがあんなに遊びまわっているのだからあそこまでクソ真面目にする必要はないと思うが、ロザリーは頑張り屋だから、とは婚約者の言だ。
そんな彼女はサロンやお茶会にシーリアを誘っては隣の椅子に座らせるというのが最近のお気に入りらしく、分刻みのスケジュールの合間を縫っては、シーリアにどこに行こう、どの催しに出ようと誘う。
「お姉さまがどれだけ素敵な人なのか、学園中に教え込みますわ!」
そう言って、学園の中でも高位貴族の令嬢たちが集まるような集いに、率先して連れ出している。そういった場所こそが、シーリアにふさわしいとでもいうように。
シーリアはもともと社交的だし友人は多かったけれど、地位が高いというわけではなかった。
貧しくはないがアーデン伯爵家は特別古い血筋でも、大きな功績を建てたわけでも、素晴らしい財産や商才を持つわけでもない。
ヴェルシオの婚約者であることと、唯の伯爵家の娘であること。どう扱うべきかと迷う空気が落ち着いたのは、シーリアの態度が、あまりにも平然としていたからだ。
どこでもずっと、彼女を見ていたからわかる。気負うことも、驕ることもなく。幼いころからずっと、彼女はただ、ずっと彼女であり続けた。
周りを威圧も魅了もせず、攻撃することも甘えることもない。同性には気安く、年が近いともうすこしくだけた態度で。瞳を細めて笑い、親しくなった後だとふとした時に敬語が抜けてしまう。
あまりにも透明な自然体で、そうして接する相手のことも何家の誰とか何領のどなたか、などの肩書よりその人間そのものを見るから、シーリアの事を他のお友達より少しだけ仲のいいお友達、と思っている令嬢は、数えきれないくらい多かった。もちろん、1番親しいのも彼女に気易く接するのも、婚約者であるヴェルシオ以外にあり得ないが。
そんなわけで、学園に入ってからもシーリアが一人になることは少なかった。彼女が身分を気負わないし口も堅いから、雑談でも悩み相談でも、放課後の教室でも恐らく女子寮でも、誰かに必要とされていた。
そうしてロザリンデがさまざまな令嬢にシーリアをお披露目して、人たらしな婚約者が令嬢たちをみごとたらしこんで。彼女たちもシーリアの出席を歓迎するようになってからは、平日休日関係なく行われていた放課後の穏やかな時間は、週に5回に減少してしまった。
大変由々しき事態だ。一刻も早くあの傲慢不遜な小娘から、穏やかな放課後を取り戻さないとならない。
「お前のお遊びにこいつを付き合わせるな。オーランドと魔法の鍛錬でもして来い」
「美意識が合わないからいやですわ。オーランドったら、派手なら派手であるほどいいって、本気で思っているんだもの。わたしはもっと急所を狙って全力で潰すような魔法が好きだわ」
「あはは。物騒」
全くだ。入学の挨拶こそ王太子に譲ったものの、流石は忖度も遠慮も一切なく入学試験で主席をぶんどり、魔法の実技ではオーランドを叩き潰し、剣術でも互角の女。言うことが違う。
オーランド自身は次こそ絶対に勝つからな!とカラっとしたものだったが、息子が一番ではないと気が済まない王妃やその一派からは、まあまあな顰蹙を買っていた。その声すら、こいつなら叩き潰してずんずんと突き進むのだろうが。
ヘタな暴れ馬より性質が悪いこの娘とオーランドは持ち前の能天気でうまく付き合っているが、全くよくやれるものだ。ヴェルシオなら3分も持たない。今だってどうやったら帰ってくれるかだけを考えている。
「誘ってくれてありがとう、ロザリー。時間はこれから?……そっか。ごめんね、今日は出掛ける約束があるから、また参加させてくれるかな。お菓子を取っておいてくれる?帰ってきたら一緒に、寮で食べよう」
そしてこの暴れ令嬢が誰よりも大人しくなるのが、俺の婚約者の前だった。
仕方ありませんわ、本当に約束ですよ?と先程までの敵意を消して、飼い主の手にすり寄る猫よろしく甘えてシーリアと指切りをしてから、赤髪の令嬢は次の予定の為に背を向ける。
その影が扉に消えるまで見送って、可愛いよねえと婚約者が独りごちるから、耳と正気を疑った。
「あれがか?冗談だろ」
「可愛いに決まってるでしょ、本当に君たちはどうしてそんなに仲が悪いの」
同族嫌悪か、あるいは嫉妬だ。
ロザリンデにとってのヴェルシオもまた、似たようなものだろうが。
返事の代わりに手を引いて、街に向かうための一歩を踏み出す。寮に帰るころにはロザリンデの用意する菓子など到底入らないくらい、菓子でも食事でも、なんだって奢ってやろうと考えた。