境界
放課後の図書室での時間は、2人の日課となっていた。
授業前も後もここに訪れてはお互いを待って、ぽつぽつと言葉を交わしながら本を読む。友人の多いシーリアは誰かへの手紙を書いたり他のこともするが、いつだって向かい合うソファが定位置だ。
貴族のためのこの学園は、社交を行うシーズンに合わせて、1月ほど長期休暇が与えられる。
アーデン伯爵領で屋敷に引きこもるために、早いうちに面倒ごとを片付けようといくつかの書類や課題を片付けている最中に、その事実は判明した。
「え?君、今年もアーデンに来るつもりだったの?」
婚約者は頁をめくっていた手を止める。驚いたように灰色は見開かれたから、逆に驚いた。
「は?……嫌なのか?」
「まさか、でも意外で。……オーランドにも、色々誘われてたでしょ」
気がつくと外は夕暮れで、思わず暦を確認した。長期休暇まではあと、2週間を切っている。
14歳の時に初めて訪れたアーデン伯爵領への1月の滞在は、毎年恒例のものになっていた。
社交のための休暇という名目だが、合間を縫って帰省する生徒も少なくない。シーリアも例にもれず転移を使って王都と伯爵領を往復し、着いていくように1年生だった去年は、ヴェルシオもアーデンに滞在した。
当然今年もそうする予定で、花祭りの時期だからシーリアと出店でも巡ろうとか、あの図書屋敷に持ち込む本とか、そんな事ばかり考えていたというのに。
王城を離れて初めて、あの豪奢なだけの建物での暮らしがどれだけ息が詰まるか思い知った。だから学園の長期休暇の間、1月も王城にいるつもりは、当然なかった。
けれど確かに、弟に長期休暇の予定を聞かれたり、郊外の王領での狩りとか来月のうちに外国の使節団が来て歓迎式典を行うとか、そんな話をされたことを思い出す。
弟が大好きな狩りには興味がないし、使節団に至ってはその頃にはヴェルシオはアーデンにいるから関係ないな、で流していたが、一緒に行きたいとか公務を行いたいとか、そんな誘いだったのかもしれない。
「オーランドが寂しがっているって、ロザリーから聞いたから。兄弟水いらずでもするのかと思ってた」
「……その方が良いなら、そう言え」
不機嫌を隠せず、低い声が出る。
最近気づいたことだが、ヴェルシオはシーリアと自分は同じいきものだ、と思っている節がある。シーリアと過ごすことを自分は楽しみにしていた。だから彼女もそうではなかったことに、不満を抱く。
「だからそうじゃないって。……あと1年半で君は学園を卒業して、王家を離れる。オーランドとも、今までほど気軽には会えなくなるでしょ?心残りがあるなら、ちゃんと話しておいたほうが良いとは思うけれど」
面倒見の良い顔をして、物分かりのいいことを言う。ロザリンデと仲のいいシーリアの事だから、オーランドとも何か話したのだろうか。ヴェルシオの知らないところで。
それだけのことに、下唇を噛んだ。
「それこそ必要ないだろう。来年にはあいつも学園に来る。その時で良い」
一拍のあと、君が良いなら良いけれど、とシーリアは手元の本を閉じた。色の薄い瞳が、ほんの少しだけ物憂げに沈む。
何かを考えているときの癖だ。僅かな瞳の変化すらヴェルシオはシーリアを理解しているのに、彼女はヴェルシオがこの夏も、王城に居たがると思っていた。それが面白くない。
感情を自覚して、共に過ごして、季節は回って、学年も1つ増えた。
ヴェルシオはまだ、シーリアに告白していない。
某令嬢に知られたら腑抜け腰抜けと公爵令嬢らしからぬ語彙で罵倒の限りを尽くされそうだが、物や服を贈ったり、階段を降りるときにエスコートで手を差し出したりなど、距離が近い、と感じることは格段に増えた。
腑抜けてなどいない。機会を窺っているだけだ。
チチチ、と窓の外で小鳥のさえずりが聞こえる。雌雄で色が違う、番なのだろう2羽の小鳥の色鮮やかな方が、巣作りの為に小枝を咥えているのが見えた。
暢気な鳴き声に、荒だった気分は僅かに落ち着く。
責めたくないから、余計な事を言わないために手元の書類に視線を落とす。わずかな空白の後、向かいのソファからも、紙を捲る音が聞こえ始めた。
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おおよそ1年ぶりのアーデンは、風と麦畑の匂いがした。
あの木漏れ日の中の本まみれの屋敷に向かうより先に、伯爵邸を訪れてシーリアの家族に挨拶した。歓迎してくれた夫妻に好きなだけこちらの邸にいてくれ、もうすぐ花祭りの季節だし、アーデンのなかでもこの街で行われる祭りが一番豪勢だから、と言われて、断る言葉もない。
シーリアが学園に入るまでは一族の転移魔法でたびたび顔を合わせていたらしいが、簡単に転移など使えない学び舎に入ってからは家族に会うのは半年ぶりだと知っていたから、なおさらだった。あの屋敷は恋しいけれど、ただでさえ後1年半すればシーリアはヴェルシオと、遠い領に行くことになる。
ヴェルシオにとっても数少ない重要な人たちの残り僅かな時間を邪魔できるほど、野暮ではない。
承諾の意を示した俺たちに伯爵は穏やかに笑んで、伯爵領のどこでも好きに観光していくといい、と告げた。
そうして今思い出した、とでもいうように言葉を付け足す。
「そうそう、もうすぐ私も息子に家督を譲ろうと考えているのです。あいつも貴方と会いたがっていた。年若い領主となるもの同士、話し相手になってやってください」
その申し出にうなずくのと、執務室に茶髪の青年が顔を見せたのは、同時だった。
「久しぶりだな、シーリア、ヴェルシオ!どうだ、うまくやっているか?」
久しぶりに会ったケヴィンは初めて出会った頃よりも若さからくる丸みが抜けた容姿になって、その左手の薬指には、銀の指輪があった。
去年アーデンに来た時に近い領の令嬢と恋人になったと言っていたな、と思いながら視線を向けると、それに気づいたのか婚約指輪だ、とあっさり答えられる。
「ついこの間プロポーズしてな、式は今年中に上げる予定だ。……驚いただろ?」
言ってよ!とシーリアが家族ゆえの気安さで兄に嚙みついて、サプライズが成功したあとのように穏やかな空気の中で、すまんすまん、驚かせたくて!と兄が笑う。
「おめでとうございます。……この休暇のうちに、詳しい話を聞かせてください」
「おう、ありがとな。長くなるぞ?」
青年は、明朗にヴェルシオに答えた。
数年前に成人して酒が飲めるケヴィンと違って、果実水をワイングラスに注がれた夕食の卓では、ヴェルシオとシーリアの学園生活と、ケヴィンの婚約ばかりが話題に上った。
学園はどうか、友人はできたかという問いにシーリアが高位の貴族令嬢の名前を挙げて、そんな身分の高い子とお茶会をしたのかと驚かれ、普通にいい子だよ、と平然と答えたり。図書室にソファを持ち込んだ話に、さすが王族はそんなことまで出来るのか、いやいやヴェルシオが王子なのを忘れたわけではないけれど、と大仰に溜息もつかれた。
いままで王子が入学したらその一人の為に寮代わりの邸宅が建てられることもあったし、校則や教師が替えられたこともある。ヴェルシオのしていることなんて全く大人しいものだ、と返せば住む世界が違うなあ、とケヴィンや伯爵夫妻は手をたたいて笑っていた。
ケヴィンの婚約者はヘーゼルの瞳の男爵家の令嬢で、3つ年下なのだと愛おしそうにアーデンの次期領主は語った。甘い物に目がなくて、菓子、特にクッキーを焼くのが得意なのだという。昔から顔は知っていたけれど、一昨年夜会で意気投合して、プロポーズまでは一直線だった。今週中にアーデンに来たいと言っているから、ぜひ顔を合わせてほしい。
ほろよいの赤い顔で、彼は機嫌よさそうにワイングラスを揺らす。
「妹が第2王子の婚約者だって言っても、まだ本当なのか疑われているんだ。王族なんて遠い世界の人でしょう、王子様の義姉になるなんて信じられないわって。家にある婚約したときの誓約書も、当時の新聞の記事も見せたのに!」
そこが可愛いんだけどな、という瞳は、何もかもが愛おしいというようにとろけている。
シーリアもその令嬢の事は知っていたのか良い人だよね、と話して、時折夫妻やヴェルシオも会話に混じって。にぎやかな夜は過ぎていった。
次の日アーデン伯爵家を訪れた、ケヴィンの婚約者の男爵令嬢は、ヴェルシオの顔を見るとカチコチに固まった肩でぎこちなく礼をした。被った猫が固くなっているぞ、と婚約者に茶化されたから、細い腕でケヴィンの肩をぽかぽかと叩く。
アウディスクは広大な国で、男爵や子爵など身分の低い貴族であれば、国王に挨拶もせず一生を終える者も少なくない。第2王子とは言え直系の王族が目の前にいて、これから婚約者の家で1月過ごす、というのは彼女にとって信じがたい話だったのだろう。
そんなに畏まらなくても、いつかは義姉になるんですから、とシーリアが悪乗りなのか助け船なのか分からない言葉を令嬢に掛けて、それにもまた、ヘーゼルの瞳の彼女は赤くなったり青くなったり、白くなったりしていた。
ケヴィンと似合いの賑やかそうな令嬢だ、と考えていたヴェルシオは、その百面相をぼんやりと眺めながら、たった今放たれたシーリアの、いつかは義姉になる、の言葉を、延々と繰り返していた。
男爵家の令嬢が訪れたのは王子へのあいさつの他にも、結婚式やその後の領地経営について、必要な用事があったらしい。昼下がりまで執務室にケヴィンと缶詰だったけれど、そのあとは若い4人で茶会を開くことになった。
「政略結婚ではありませんけれど、私の家とアーデンが手を組むならば、お互いがより栄えることができると思うんです!たとえば男爵領は公道が通っていることから交通の便がとてもいいんですけれど、アーデンの適正魔法が転移なので―――」
ケヴィンたちの馴れ初めはすでに昨晩聞いたから話題はこれからのアーデンの行く先が多かったけれど、意外だったのは恐縮しきりだった男爵令嬢が領地経営に明るく、流暢に説得力のある意見を次々と出したことだ。
ヴェルシオの感心する視線に気づくとまた固まって私ごときが、と口を閉ざしそうになったけれど、ヴェルシオも後2年もせず領主となる身だ。
平民も通える、実践的な経営が学べると有名な学園の卒業生であったらしい令嬢の意見は面白く、参考になることも多かった。
続きを何度もうながして、役に立った経営にまつわる本の題名も多く聞いて。思いのほか有意義な時間を過ごせたな、と思った頃には夕暮れで、幾分か肩の力が抜けた令嬢と、そのまま伯爵夫妻も含めた6人で、夕食を共にした。
花祭りまでの1週間ほど、令嬢はアーデンに滞在するらしい。
手をつないで自室とその隣の部屋に去っていった2人を見送って、すがすがしいほどに浮かれてたねえ、とシーリアは言葉を漏らす。
「実の兄の恋愛模様とか、あんまり知りたいものじゃないんだけれど。メリアさん、しっかりしていて凄かったね。これならアーデンも安泰だ」
「確かに参考になったな。アーデンの適正魔法について詳しいあたり、ケヴィンともよく話しているんだろう。流通と転移魔法の応用について、どう思った?」
「……それはアーデンの人間への質問か、経営学のテスト、どっち?」
「俺とお前が王領を継いだあと、どうしたいかって話だ」
シーリアと領の話をするのは、初めてかもしれない。
そんなに畏まらなくても、いつかは義姉になるんですから。恐縮する昔馴染みへのからかいだとしても、好きな人から結婚する前提の言葉が出たことに浮かれていた。
「…………一族の大半が転移を使えるアーデンと違って、あっちじゃ回数制限のある私しか転移持ちはいない訳だし、転移を領の利益にするほど使うのは難しいと思う。あの領がどんなところにもよるけれどね」
「それなら、どんな領にしたい?」
数拍の後の声音に全く変わりはない。けれどほんの僅かぎこちなくなった声を疑問に思う。
ケヴィンの背に向けていた視線を、彼女に寄せる。
薄い唇は笑みを浮かべていた。けれど前髪が掛かって、その瞳の色はよく分からない。
「正直あまり、思い浮かばないかな。君は?やりたいことがあるなら、それに添えるよう、努力はするけれど」
どういうことだと問い返すより先に、あなた達も早く寝なさいと声を掛けられた。複雑な色は霧散する。はあい、とわざと間延びした声で、彼女は母親に言葉を返した。
そうして、おやすみと会話を打ち切った時には、いつもの彼女だった。
聞き返されることを拒絶するように、柔らかく線を引かれた。どうしてこのタイミングで、とは思ったものの、普段と同じ穏やかさに踏み込めなかった。
花祭りまでの半月余り、伯爵邸で彼女とともに過ごした。去年一昨年と同じように楽しかった。会話も、おどけもする。沈黙にぎこちなさはない。けれど引かれた一線を踏み越える事のないまま、花祭りの日は訪れた。