翠雨
シーリア・アーデンが好きだ。
ヴェルシオに友人がいれば恋愛相談とやらが出来たのかもしれないが、あいにく人間関係はシーリアかシーリア以外かで収束している。例外といえばオーランドとその婚約者ぐらいだが、弟と恋話をする趣味はないし、ロザリンデにうっかりそういえばシーリアが好きなんだが、など漏らそうものなら今まで自覚していなかったことをさんざん罵倒された後108本の薔薇を抱えて王城の庭園でプロポーズさせられるのが容易に予想できて、それも嫌だ。
シーリアが好む花は薔薇ではなくディリティリオの著作に出てくるダチュラなどの毒花だ、とも思うし。そんなことを言えば、お姉様に毒花なんて贈るつもりですか?といよいよ刺されそうだが。好みを分かっていないのはロザリンデだし流石にヴェルシオもそこまで野暮ではない。閑話休題。
いっそあの書庫で伝えておけばよかったな、いやでもあのドレスはヴェルシオが贈ったものではなかったし、とぐるぐると、最近はそればかり考えている。
「おーいヴェルシオ、上の空?」
だから学園の放課後の教室で、いつのまにか目の前にいる婚約者に呼ばれたのにも、気がつくことが出来なかった。
ひらひらと、あの日のように目の前で手を振られる。
「来なかったから迎えに来たよ、天気悪いから早めにいって、早く帰ろう。……どうしたの、じっと見て」
なんでもないと応えて、席を立った。今日は放課後、彼女と買い物をする約束をしていた。
歴代の王族は生徒会に入り全校生徒の模範となる習わしらしいが、気楽なスペアであるヴェルシオは迷わず誘いを蹴りとばした。2年後入学する弟は間違いなく生徒会に入り、ゆくゆくは会長になるのだろうが、それによって得られる地位や名声に興味はない。今のところ学園で行った権力の乱用は図書室の奥にスペースを作り、ソファと茶器の為の棚を置いたぐらいだ。
王城を離れたことと、オーランドが本格的に次期王としての顔見せを始めてからはヴェルシオの公務は減っているので、自由な時間を満喫出来る学園生活を、ヴェルシオはとても気に入っている。
さて今日はどこに行くのだったかと思いながら、学園の門に向かう。図書室に置く茶葉が切れたから買って、あと……と用事を指折り数える婚約者の薄い爪を、ぼんやりと見ていた。
「茶葉の補充は、学園の使用人に任せればいいだろ」
「私はいいけど、ベターな茶葉しか置かれないよ?君文句は言わないだけで、紅茶もコーヒーも好みがはっきりしてるでしょ」
よくご存じで。残したことも口に出したこともなかったが、有名な産地で採れた変わり種というわけでもない品種でも、苦みとか香りとか、自分でも良くわかっていないが気に食わない、と思う茶葉は多かった。そんなことに気付くのは、彼女くらいなものだろうが。
「君は、君が思うよりわかりやすいよ。……それが伝わればもう少し、私以外にも気を許せる相手が増えると思うんだけれどね」
独り言にも似た言葉に、そんなものは必要ない、と答えなかったのは残り僅かな社交性だ。シーリアがヴェルシオの交友関係について気にするのは初めてではないし、それ自体に悪い気はしない。けれど数年来の恋に浮かれているたった今、他人に目を向けさせようとすることそのものが気に食わない。
シーリアが思うよりずっと、ヴェルシオはシーリア以外をどうでもいいと思っている。
大衆は雑音で、外野で、有象無象だった。それなのに彼女の口から男の名前が出るのは面白くない、と思うようになって、彼女がヴェルシオの贈ったものを身に着けると、優越感を覚えるようになった。
例えば今シーリアの制服の袖口を飾っているカフスは前の休日に外国の品を取り扱う店で贈ったものだし、同じ品がヴェルシオの袖にも付いている。
些細な変化だしシーリアも言及しないが、それでもほんの少し、二人の間の空気は変わった。―――今のように、苦痛ではない沈黙の中で、伺うような視線を向けるし、向けられるようになった。
彼女はどうなのだろうか、とよく考える。
好かれている。けれどそれは、同じ恋情なのだろうか。友人もろくにいない男よりずっと聡いからとっくの昔からそうである可能性もあるし、ヴェルシオがそうであったように幼馴染とか友人とか、そちらの意識が強くてもおかしくない。
彼女の目当ての店は王都でも中心部にあるらしく、曇天にもかかわらず進む道は人でごった返していた。心が読めたらいいのに。そう思って空を見上げたのと、頬に水滴が落ちたのは同時だった。
「……雨だ」
つぶやきの合間にも、水滴は勢いを増して、地面にまだらを作る。
雨をしのげる場を探して雑踏が動いて、荷物を持った誰かがシーリアにぶつかりそうになる。たたらを踏んだ彼女の手を、とっさに掴んだ。
ヴェルシオ、と少し焦る声。白い頬に濡れた髪が張り付いているのが見えて、屋根のある場所を探した。
∮
「………………………………」
「………………………………………」
止む様子を見せない夕立を前に、あれだけいた群衆はどこかに去っていった。
帰るべき寮が遠い2人だけが、閉まった店の軒先で、足元をはねる雨だれを眺めている。
手を、つないだまま。
「止まないね。………寒くない?」
「―――全く」
シーリアの言葉はかたくて、俺の返事はもっとかたかった。
寒くない。むしろ身体も頭も茹ったように熱い。
口を動かすために思考を割けない、それどころではない―――離すタイミングを失った右手が、彼女の左手と、つながっている。彼女こそ寒くないだろうか、と気を利かすことも出来ないほど、心臓が早鐘を打つ。わずかに湿った肩と、離しそびれた指先が。
この爪先がよく整えられて、ロザリンデから頻繁に贈られる薔薇の香油でいい香りがすることを知っている。
彼女と何度も手をつないだ。学園に入る前は転移魔法を使うために、後は舞踏会で踊るためや、その練習に。いずれも必要に駆られてで、だからこんな、ただ触れているだけは、初めてかもしれない。
いや嘘だ何度か意味なくつないだことがあっただろ、と必死に手から意識をそらそうとするが、夕暮れ時にテーブルに突っ伏してうたた寝していて、上を向いて投げ出された手のひらとか、現在進行形の指腹で触れるまるい爪のかたさとか、強めも弱めもできない力具合とか、そんなことしか考えられない。
沈黙がいたたまれなくなって右に視線を向けた時、彼女も丁度、ヴェルシオを見ていた。
淡い灰色が、開かれた瞳孔が、ヴェルシオだけを。
案外目が大きいとか、一筋の髪が頬に張り付いたままなのがあどけないとか、少し唇が青い、とか。
そんな情報より早く、早鐘をうち続ける心臓が、いよいよ暴れ出す。
ヴェルシオ・ステファノは馬鹿ではない。
大半が本から読んだ知識だけれど、付き合っている2人が一般的に行う物事も、結婚後に行うあれそれも知っている。
貞節を重視する貴族社会では人前で過度な接触は慎まれるべきで、―――けれど今ここに、ヴェルシオとシーリア以外の人間はいない。
ヴェルシオは馬鹿ではないから、頭の回転はそれなりに早い。けれどこの瞬間、今まではなんだったのだろうと思うほど、超高速で思考は駆け巡っていた。
貴族社会で一般的に未婚の男女が取るべき距離感、婚約者ならば許される接触、それらを守らず散々出かけてきた今までの感覚と自分とシーリアの境遇転移魔法や雨よけの魔法うわっっっっ本当に可愛い。
0.2秒で目まぐるしく思考が巡って、頬の熱さとか指は絡めていいのかとか、結局彼女の事しか考えられなくなる。灰色の視線が逸らされ俯いたことで、ショートしかけている思考がまた回る。
その耳が赤いとわかって、いよいよ言葉を失う。
照れている。あのシーリア・アーデンが、彼女ともあろう人間が、繋がれた手に照れている!
恋に浮かれた男は知能が下がる。例え瞬きほどの時間で宇宙の真理を“理解って“しまえるほどに頭が働いたとしても、その知能は著しく低下している。
時折指先が僅かに動いて、その度に肩は震える。指を絡めることはなく、それでも解こうとは、ほんの少しも思わなかった。駆け引き、なんて大それたものではない。必死なだけだ。
誰よりも近いたった1人に、どうしようもなく焦がれている。
それは彼女も同じだ、と分かったから、あと少しだけこのままでいたい。
シーリアが目をそらしてくれてよかったと思った。彼女が比較にならないほど、ヴェルシオの顔は熱をもって、赤くなっているに決まっているから。
雨が止んで道に人が見えるまで、手を離すことは、出来なかった。