鉛色の空の日に・使われていない倉庫で・不老不死の薬を・置いて帰ろうとしたら怒られました。
かぐや姫の物語。昔々あるところに、かぐや姫と呼ばれる美しい姫がいました。殆どの読者がご存知のあらすじが並ぶため以下省略とする。
かぐや姫は帝以下高貴な身分の者達に求婚されていたが、その求婚全てに難癖を付けて帝すら断っていた。彼女の我が儘ぶりがその美しさゆえに許され、死を迎えた者の無念すらその美貌の前には霧となって方々に散ってそのかたちをなさなくなる。かぐや姫の願いは一つ、結婚を望んでいないことだと後世に伝わる者は我が儘な姫の思いを汲み取ろうとする。だが彼女には伝わる物語には無い、一つの真実が隠されていた。
昔々あるところに、かぐや姫と呼ばれし美しき姫がいた。彼女は帝からの求婚を断り、月の者という出生の秘密から大勢の人間が引き留めようともがく中で、月光のようにすりぬけて地上を去って行く。彼女は帝に心を動かされたような描写が残っているようだが、真実は違っていた。彼女には心を許した男が別にいたのだ。宮中に仕える、身分の低い厩の世話係である男だった。身分は低いが顔立ちはひときわ美しく、物語に詳細として描かれることはない。かぐや姫がその姿を見て心を奪われたのは、帝が宮中に呼び立てた時、宮中の息苦しさに外へ出ようとしたかぐや姫がたまたま簾を開けた所に厩が見えて、そこに男がいた。
厩の男と今後は表記する。厩の男もかぐや姫に気付いたが、目が合ったはずであるのにすぐ目を逸らしてしまった。結ばれようもない身分の差にいち早く厩の男は気付いたのだ。だがかぐや姫はそこで誰にも動かさなかった情が燃え上がったらしく、彼女から厩へと足を運んだ。恋に落ちたのは一瞬だった。だがそれは秘密になった。彼女の手に自分から触れるまでに、厩の男は決意を固める時間をかなり要した。その間に手は汗ばみ、ふるえる指先で絢爛な衣の下で、月明かりにぼんやりと光る白い手にようやく触れた。指を持ち、そこに骨が通っているとは思えないほどやわらかな手を夢中で握っていた。かぐや姫もその逢瀬に心動かされていた。当時の風俗から考えて、手を握るのは恋仲で無ければよほどの事であるだろうけれど、二人は出会って時間にして数分ほどでそこまで辿り着いたのだ。よもやよもやの逢瀬に気付き、まさかまさか帝の耳に入れてはならないと慌てた臣下達は二人を引き剥がそうと躍起になった。二人は引き剥がされ、厩の男は百叩きの刑になるとぼろぼろの体で牢屋に入れられた。
かぐや姫が嘆き悲しんだのは言うまでもなく、そのうち彼女は家に引きこもりがちになった。その上で夜に月を見て泣き始めたので、厩の男を想ってかと翁が尋ねると、彼女は月に帰るという運命を話した。驚きおののいた翁は、帝に相談した上で月の使者を撃破するための軍勢を準備させた。それからはよく知る通りの物語の流れである。だが彼女は月に戻る前に、あまりにかぐや姫が泣きはらしていることを不憫に想った嫗は厩の男に秘密裏に引き合わせていた。そこで物語どおりではなく、厩の男に不老不死の薬を渡していたのである。彼女の薬は厩の男に自身の愛の形であると言い聞かせたが、不老不死の薬などの大層な物を持ったことがないのと、この秘密を帝に知られることへの恐怖で薬を手放すことにした。軍の準備で人手が足りないのとかぐや姫が月に戻る恐れから密会の心配はないと判断され、牢から出された厩の男はもらった薬を粗末な自分の家にではなく使われていない倉庫に置いた。そのまま捨てられることを願い、かぐや姫の月に帰る日が訪れる。かぐや姫が月の使者の光り輝く雲に乗る前に、厩の男が馬の管理のため軍にひっそりと同行しているのに気付き、足が汚れるのを厭わずに地を駆け、厩の男の元に現れた。髪を振り乱しても美しいかぐや姫に、厩の男は目がくらむ想いで思わず顔を横に逸らす。かぐや姫が薬は持っているかと尋ねると、罪悪感からか厩の男はどもりながらどこかに忘れてしまったと呟くように言った。その答えを聞くやいなやかぐや姫は激昂し、厩の男の頬をひっぱたく。そしてその顔を掴むと唇を付け、そのまま振り返らずに月へと登っていった。
その後。厩の男は不老不死の薬の場所を帝に素直に伝え、その薬を持って富士の山へ登っていったのは皆知るとおりだ。だが厩の男は再び百叩きの刑に服したが、不思議と傷の治りが早く、都から追放されたが長く長く生き延びたという。かぐや姫の唇が不思議な力が宿っていたのだろうか、男は後に嫁をもらい子供も皆丈夫過ぎるほどに丈夫であった。
ここまで論文調で書き連ねた原稿を見て、教授は根拠となる資料や論文の引用が無いのでこれは創作だと評価を下した。
「読み物としては面白い。だが竹取物語研究としては根拠もないし、夢で見たと言われても仕方ないね」
それを聞き、上記の物語を提出した男子学生はそうですかと頭を搔いた。
「しかし、何故これを卒論の軸にしようとしたんだね」
教授は呆れたように言う。根拠の無い研究テーマで許されるほどに、文学研究は甘いものでもないと、教授の研究室の壁の天井から床まで一面埋め尽くされた本棚が物語っている。男子学生は真面目な類の学生で、そこまで向こう見ずなテーマを持ってくると普段の態度から到底は思えなかった。返された原稿に目線を落としながら、男子学生はもう一度頭をかく。
「うちの家に伝わる話なんです」
「なんだって?」
「俺の家系なんです。この厩の男って。代々、宮中との約束で富士山に近付いてはいけない、空に近い場所に住んではいけない。宮中を追い出されたので、馬に関する地名や人名にまつわる場所にいてはいけない。色んな制約があるんです」
「たしか、君の成績なら他の大学も行けたはずだが・・・」
「駒田にあるから駄目なんです」
「知りたかったんです、本当なのか妄想なのかを。かぐや姫にキスされた先祖がいたのかどうかを。だから書いてみたんですけど・・・」
根拠が伝承だけではあまりにも研究対象としては苦難の道であり、何も書けない可能性がある。だが明るい研究室にいるはずなのに、男子学生は賢いはずなのにその両目に光りがないところが、教授にはまるで下級階級の男に見えた。厩の男も似た感じだったのだろう、と思えてしまうほどに。顔立ちは整っているのに未来が見えないうだつの上がらない男が部屋の隅にいる気がした。
原典:一行作家