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5.最愛の知らなくていいこと


 最近、電子タバコというものに切り替えた。

 あまり吸っている感じがしなくて口元が寂しい。

 彼女にでも言われたのか?

 と上司に茶化されたので「そういう感じです」というと女性社員が「セクハラですよ」と編集長に抗議してくれた。よく分からない構図だが、風通しのいい職場ということだろう。

 『糸魚川、たばこ似合わないね』

 最近、この言葉をかけられて目から鱗だった。

 学生時代から吸い始めて、何度か女性と付き合って何人かに禁煙を強いられても、意固地になって吸い続けた。社会に出て健康に害するからと止めてみようかと努力したりしてきた。だが、結局一度も成功したことはない。それなのに出会ったばかりの小娘に言われたら、途端に似合わないなら辞めようと思ってしまった。似合わないなんて言われたことはなく、意外でカッコいいねだとか耳障りのいいお世辞しか聞いてこなかった。

 『電子タバコくらいのが良いんじゃないの』

 そんな言葉を真に受けてその日のうちに手持ちの煙草を後輩に渡して電子タバコを愛好する作家に会いに行った。駅の近くで笑顔で実演販売する店員に目をかけたことなど一度もなかったのに、仲間が出来て嬉しそうな作家の説明を受けてみると自分でも続けられる気がした。

 30手前のいい歳した年齢の男が情けないと思うが、その声の主の強制力は、自分の意識ではどうにも手に負えない。

 本当にバカみたいだ。

 もう主従もクソもないし、全部区切った人生だと思っていた。それなのに、何気ない一言で、きっと相手は何も考えていなくて、他意もないと分かりきったうえで、自分は行動してしまった。

 忠誠だとか敬愛だとかそういう言葉で片付くような感情ではなかったと思い知る。そういう曖昧な概念のような情愛はナンセンスだと思っているくせに、阿呆みたいだ。

 清廉でも潔白でもない泥めいた重い感情を抱いた過去など、とおに捨て去ったはずなのに、自分にとって彼女は、現世でも一目見た時から、どうしようもなくそういう対象なのだろうか。

 分からない。分かりたくはない。

 ただ幸せになってほしい。そういう感情ですべてを片づけたい。  



 煙草の代わりに飴をよく嘗めるようになった。

 赤い色を無意識に選んでしまう。そのため最近、作家陣からはイチゴ味のものが好物だと認識されている気がする。

 幼少のころから気にかけてやっており、ついに作家と担当編集という関係になった花咲でさえ、自分の好物は実のところいちごであると勘違いしていた。

 「糸魚川さん専用の飴ちゃん入れ」

といってガラス製の器を差し出してきた。

 「誕生日でもあるまいし……」

 「最近、喫煙頑張っているようだから、俺なりのプレゼント」

 「なるほど。えらくなったものだ。ありがとうございます。原稿もよろしくお願いします」

 「うん。はい。はいはい」

 目が泳いでいる。

 期日までに仕上げてきたそれの何度目かの直しである。校閲した分の改稿も済んだ。もうすぐ最終稿だ。この短時間でよく頑張ったと思う。そこまでして魚住と飲み会に行きたいということだろうか。魚住からもらったという花束を枯れないように瓶詰した花がリビングを見遣る。学生アパートではなくてもいいはずなのに、引っ越す気配もない。最初は学生生活の疑似体験などと言っていたが、その実もう目的が違うのだろう。疑似体験と言ってもお前も学生じゃないかと笑った時間が懐かしい。

 駅から遠くないので構わないが車を停める場所がないので手間がある。しかし、自分の我儘では動かせない。

 「今度の飲み会までには終わりそうかな」

 手を伸ばして息を吐いている。肩をほぐしている。

 「魚住さん、どう見ても話しても花咲のこと好きになっているだろうに」

 「本人は何も言ってくれないから」

 「言わせたいのか?」

 「欲が出てもおかしくないよ」

 その目線は保存された花束に向かっている。いただいた花を綺麗に処理してずっと飾っているのだ。一途なことだ。楽しそうで幸せそうでなによりだ。

 ああ、無性に煙草が吸いたくなる。そういう時のために用意している飴を一つ取り出して包装をはがし口に入れる。歯を立ててガリガリとしてしまう。行儀が悪くなってしまったが、花咲の前では猫をそうそうに被る必要はない。甘ったるい。

 「魚住さんのどこが良いのか」

 「………優しいんだ彼女」

 「赤の他人にやさしい人は案外多いですよ」

 わざとらしく敬語を遣うとむっとされる。

 煽っている気は全くないが無意識下でそうしているかもしれない。

 「今は全部好き、なんだよ」

 「うわー、鳥肌たった。はい。はい」

 手をわざとらしく振る。

 「糸魚川は、実際、前世ではどうだったの?ずっと傍にいたでしょ」

 花咲は何度も探るように前世の話題を持ち出す。

 もう関係ないことであるため無駄なことだと思いつつもあしらっていた。王妃になったためにレテシー様の平民降下後のことを知る術はいくらでもあったろう。それなのに知らない様子をみると王様あたりが情報規制を敷いたのだろうか。平穏を約束するというのを守り続けたということに感謝はする。うっかり無神経が会いにきていたらどうなったか分かったものではない。敢えて、今の花咲にいうべきではないだろう。

 本当に今の状況は敬愛していなかったカミサマの意趣返しというものなのか憎たらしい。

 レテシー様の愛したろう王様は、現世の親友になっていた。

 その二人の結婚相手がここでこうして幼馴染、ビジネスパートナーとして多くの時を過ごしている。数奇な巡り合わせだ。もともとから外れているようで外れていない。

 聖女の特殊能力の治癒だとかそういうのは今の花咲にはないが、神に愛されているのかなんだか。カミサマを信じなかった俺にはよく分からない。

 「どうだったって、忠実な護衛騎士だったよ。最期まで」

 「どう思っていたのさって」

 当たり障りない返答を俺は、花咲が自覚してから何百回と繰り返す。

 すぐ食い下がる花咲がやけに突っかかるのは、最近魚住と俺の接触が多いからだろうか。

 自分へ傾きかけている魚住の心情を知り、もっと安心材料が欲しいからだろうか。

 今の花咲は魚住を幸せに出来るだろうし、魚住は花咲を好きになっているから幸せになるのも必定。それでよかったと思う。そう思う。

 「全部、愛していたよ。これでいいか?」

 花咲は自分でしつこく聞いておいて固まってしまった。いつもみたいに俺がはぐらかして終わると思っていたらしい。ざまあみろと思いつつ言ってしまった、言葉にしてしまったという後悔がやってきた。

 もう既に終わった人生の感情。

 本当に糸魚川の人生としては無関係な感情を開示する必要はなかったのだ。

 「………ずっと傍にいたからそうだよな。俺よりも」

 「敬愛な。勘違いすんな。でー、内容はこれでバッチリ。じゃあ、俺は退散する。電子データでまた送ってくれ」

 「はーい」

 魂の抜けた声を反射的に出しているかのようだ。それに頷いて部屋をあとにする。

 意趣返しのつもりだったら、思ったより効きすぎてしまった。なんで自分も顔が熱くならないといけないのか。気持ち悪い。

 部屋を出ると夏真っ盛りのように空気は暑い。

 汗をハンカチで拭う。温度差だけの汗ではないだろう。


 「あー、糸魚川」


 大きい声ではないけど、その声ははっきりと耳に残る。会釈して通り過ぎればいいのに目が合うと足は動かなくなる。相手が近づくまで、待ての体勢になってしまった。

 Tシャツにジーンズ。片手にエコバッグを持った魚住がエレベーターから降りてこちらに来る。すぐ隣の部屋なので、こうして遭遇しないように慎重に通っていたがもう気が抜けてしまっている。

 「仕事中?」

 「まあ。もうほとんど終わりみたいなもんです」

 「ふうん。アイス食べる?」

 袋を掲げる。顔は笑っているとかではない。ふうん、などと言っていたがこちらに興味があるという風でも全くない。

 あまり多彩な表情を出さないところが懐かしいと思う。あの頃は貴族のそういう教育のたまもので、毎度微笑を張り付けていたけれど、今の魚住はそういうわけではないらしい。もともと、きっと元々、出にくい性質だったのだろう。

 「えー……、いいのですか」

 「暇なら。あのティーカップやっぱり高いでしょう。糸魚川には申し訳なくてね」

 「勝手に渡しただけですのでお気遣いなく」

 もし何かを渡すなら、とずっと考えていた。やりすぎだと思いながらも、お嬢様に渡せるものをまだ自宅に保管してあると知ったらドン引きされそうだ。おかしいと分かっている。どこか正常な値が振り切れてしまっている。目の前の人の笑顔を見たいって変態的な自分。気づいたら贈り物が増えていたのだ。汗を拭うように目元に手をやる。

 「そう。暑そうだし食べる?って聞けば食べると思っちゃった。お仕事頑張って」

 なんとなく断られると思っていなかったというわりに顔は残念そうでもない。引き止められることもなくあっさりとした口調。突き放してもないのに、突き放した心持ちになる。同時に突き放されたような矛盾した苛立ち。言葉は考えるでもなく反射的にでる。社会人の賜物だろうか。

 「……いただいてもいいですか。暑くてたまりませんでした」

 「うん。アイスってのも採算がとれるものではないけど、カリオンは暑がりだったからね。あ、前世とかそういうの抜きにしたほうがいいのか」

 「今のオレも暑がりですよ」

 「そう。丁度良い。あがって。私も暑いから。クーラー出る直前までついていたからマシかな」

 元主人は鍵をあけると扉をあける。幾ら何でも無防備だ。すぐ目の前の扉のなかに、自分に片思いしている人物がいると分かったうえで、他人の男性を家に挙げるなんて常識外れもいいところだ。

 相手にとって、そういう風に成り得ない存在なのだろう。その信用を諫めるべきかどうか。しかし、もう自分にとっても魚住はご主人でもなんでもない。諫めるべき相手でもないのだ。

 花咲も当然、入ったことはない部屋に先にあがるとは思っていなかった。というかそんな機会があるとは思ってもみなかった。

 狼狽えても仕方ないので、「では、失礼します。お手並み拝見です」というと「アリアナが言いそうなことね」と笑われた。

 自分が狼狽えていたということに部屋に上がって冷気に触れた途端気づかされる。

 現世でそつなく立ち回って生きてきたなかで、また振り回されたと思う相手が魚住だとは思ってもみなかった。


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